2019年1月29日火曜日

1/27こども説教「心を1つにし」使徒4:32-37


 1/27 こども説教 使徒行伝4:32-37
 『心を1つにし』

     4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。33 使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。・・・・・・36 クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、37 自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。        (使徒行伝4:32-37

  心を一つにし思いを一つにすることは、とてもとてもとても難しいことです。長年連れ添った夫婦でもそうです。仲良しの親子や兄弟同士でも、親しい友達同士でもまったくそうです。例えば2人の人がいれば、どんなに話し合っても、よくよく相談しても、2つの心です。3人の人がいれば、心は3つです。10人いれば10個の心、100人いれば100個のそれぞれバラバラな心で、それが普通です。簡単にできることではありません。もし、それぞれバラバラなはずの心が1つの心になるとすれば、他のどこにもないような、とても珍しい、不思議なことが起こっています。「私はこういうことがやりたい。これとこれは嫌いで、やりたくない。それなのに、あの人は。この人は」とお互いにいがみ合って、わがまま勝手に押したり引いたりしつづけるのが普通です。ごく普通に自分の思い通りに、わがまま勝手に好き放題にしようと強情を張るのを、けれど この人たちは止めてみました。「私や他の誰彼の思い通りにではなく、ただ神さまの御心のとおりにしていただこう。そうだ、そうしよう」とワガママや強情を、試しに一回、後ろに引っ込めてみました。すると心は1つになりました。晴れ晴れして、嬉しくて、とても良い気持ちです。なぜなら、その強情さ、頑固、そのワガママ勝手な自分中心の心こそが、いっしょにいる他の人たちを苦しめ、困らせ、そればかりか自分自身をさえ薄暗くて狭い場所に閉じ込め、悲しく惨めにさせていたからです。では、何が起こったのでしょう。この人たちのために、神さまが自分のことを後回しにさせてくださったのです。どうですか? もし、そうしていただきたいと願うのなら、誰のためにも、あなたやこの私自身のためにさえ神さまがしてくださいます。


    【補足/私の願いどおりではなく】
    「私や他の誰彼の思い通りにではなく、ただ神さまの御心のとおりにしていただこう。そうだ、そうしよう」とワガママや強情を、試しに一回、後ろに引っ込めてみた。すると心は1つになった。その中身は、神さまの1つの御心です。救い主イエスが十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で必死に祈りつづけていました。アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み心のままになさってください(マルコ14:36)。これが私たちのための、いつもの手本です。


1/27「水と聖霊と火によって」ルカ3:15-20

                     みことば/2019,1,27(主日礼拝)  199
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:15-20                     日本キリスト教会 上田教会
『聖霊と火と水によって』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 3:15 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。16 そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。17 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。18 こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。19 ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、20 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。 (ルカ福音書 3:15-20)


 まず15-16節です。洗礼者ヨハネはみんなの者に向かって、「わたしよりも遥かに力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。本当にそうなんですよ、分かりますか」と断固として言わねばなりませんでした。なぜなら、民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で彼のことを、もしかしたらこの人が待ち望まれていたその救い主ではないだろうかと考えていたからです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が同様に、このことを詳しく報告しています。人々のその誤解を断固として、すっかり拭い去ってしまわねばなりません。もし、そうでなければ、本来は救い主キリストに向けられるべき信頼や栄誉をたかだか人間にすぎないものに向けてしまうことになるからです。神にだけ信頼し、神にだけ依り頼み、神にだけ仕えるはずのところで、そうではなく 神と並べて、たかだか被造物にすぎないものに信頼を寄せ、当てにならない虚しいものに聞き従うことになってしまうからです。それこそがとても危険な逸脱であり、神を仰ぐはずの信仰をはなはだしく歪め、損ない、その人自身にも信仰の共同体にも大きな災いをもたらすことになるからです。しかもなお、本来、神に向かうべき尊敬や信頼が、目の前の生身の指導者たちに向けられる過ちはたびたび繰り返されつづけてきました。そうなりやすい性分を私たちが抱えているからです。例えばモーセもまた、いつの間にか神と並べて信頼を寄せられ、神とともに崇められそうになりました。まるであたかも、神とモーセが一心同体であるかのように。その証拠に、モーセがシナイ山に出かけて4040夜のあいだ留守にしたとき、モーセがいなくなったばかりか、モーセとともに神ご自身まで消えてなくなったと思い込みました。彼らはアロンに命じて金の子牛を作らせ、「見よ。今日からはこれが私たちの神々だ」と好き放題に戯れ合うどんちゃん騒ぎをしでかしました。おかげで、神さまからたいそう叱られてしまいました(出エジプト記32:1-6。しかも、「わたしこそが世を照らす光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつ」(ヨハネ福音書8:12と救い主イエスがおっしゃったのです。その言葉を、私たちもこの耳ではっきりと聞いて覚えています。束の間に消えゆくはかない光ではなく、せっかくなら世を照らす命の光、救い主イエスにこそ、私たちはよくよく目を凝らしつづけねばなりません。
  さて16節。「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授ける。(しかし私のあとから来る、私よりも力のある方は)聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。今日読んだ中では、これこそピカイチに難しいと思えます。また、分かりにくい表現です。『水による洗礼』と『聖霊による洗礼』;二種類の別々の洗礼があるということでしょうか。一段劣る人間的でただ形ばかりの洗礼と、真実な高級で上等な霊的洗礼という二種類、二段階の洗礼があると。いいえ、二つは一つです。私たち人間が授ける水の洗礼、そこに重ねて神さまご自身が授けてくださる聖霊による、霊的な洗礼。これらは一つであり一組とされます。ここにいる私たちの中にも、「やがてふさわしいときが来たら、この私もぜひ洗礼を受けよう」と心づもりをしておられる方もいますね。あなたのためにも、神さまからの格別な導きがぜひありますように。洗礼は、神の民=クリスチャンとして生きることの出発点です。「キリスト教の信仰のすべてがほぼ分かった。十分に理解して、とうとう合格点をもらって、だから洗礼を」ということではありません。「神さまに信頼し、神をこそ頼みの綱として生きる。自分の決断、自分の能力やふさわしさや自分自身の正しさによってではなく、神さまの恵みと憐れみと、神ご自身にこそ委ねてこの私は生きてゆこう」。その出発点が洗礼です。
  『洗礼』は、この聖書の神さまを信じて生きはじめるための入門の儀式であり、出発点です。洗礼はまた、「結婚式・披露宴・役所への届け出」とずいぶんよく似ています。結婚式をあげるときの準備と同じように、洗礼を受けて神さまを信じて生きていこうとする人たちのために、教会は準備の教育を行います。もし、神さまを愛するなら、もし、この神さまと結婚したいのなら、生涯添い遂げてこの神さまと幸せな家庭を築きあげたいと心底から願うのならば、それなら、その神さまがどんな神さまなのか、どういう性分で、どういう願いをもって生きておられるのか、何をしてくださるのかを精一杯に知る必要があるからです。たとえ自分の寿命が残り数週間、数日間の生命であるとしてもです。そのわずかな時間を精一杯に、晴れ晴れとして生きて死ぬために。もしそうではなく、式だけあげ籍だけ入れてただ形だけ結婚してみても、独身時代のつもりで同じく自分の思いのまま、また自分自身や周囲の人間たちの望むまま気に入るようにとふるまい続けるならば、もし、その連れ合いや家庭を少しも顧みないならば、その夫婦生活は直ちに破綻してしまいます。それでは、あまりに無責任で子供っぽすぎるじゃないですか。救い主イエス・キリストこそが花婿。教会と、また一人一人のクリスチャンはこのお独りのお方と添い遂げようとする花嫁である。聖書ははっきりと証言しています(エペソ手紙5:21-33,マタイ福音書25:1-13,ヨハネ福音書3:27-30。その結婚式では花嫁と花婿とが互いに誓いあいます。本気になって、精一杯の誠実を尽くしてです。「あなたはこの方と結婚して、その妻となろうとしています。あなたは真実にこの方をあなたの夫とすることを願いますか。夫婦としての道を尽くし、常に愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかなときも病むときも、このお独りの方に対し、堅く節操を守ることを誓いますか」。――これが結婚生活の秘儀であり、神の子供とされる洗礼の秘儀でもあります。なにしろ花婿である救い主イエス・キリストは、キリストこそがあなたのためにもこれを誓い、この誓いを断固として守り通してくださいます。本当のことです。「水道の蛇口をひねって出てきたようなごく普通の水」を用いてでも、素敵な贈り物は、主イエスご自身から贈り与えられます。神さまからの素敵な贈り物は、新しい心、普段のいつもの生活の中での新しい在り方や生き方、新しい腹の据え方です。神の憐れみがすでに私たちに注がれています。礼拝献金や維持献金の袋の中の献げものばかりではなく、むしろ私たち自身の体と魂のすべて一切を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげて暮らすことができるようになります。なすべき霊的な礼拝とはそのことだと語られています。その霊的な礼拝の積み重ねによって、私たちはこの世と妥協しない者とされていきます。心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか、何が悪であり神さまの御心を悲しませることであるのかを、わきまえながら一日ずつを生きる私たちとされます(ローマ手紙12:1-3参照)。だんだんと、少しずつ。ね、これは素敵な贈り物でしょう。
 しかもなぜ、私たちキリストの教会が主イエスを信じて生きようとする者たちに洗礼を授けつづけているのか。「しなさい」と主イエスから直々に命じられているからです。パンと杯の聖晩餐の食事も同じです。神の国の福音を宣べ伝えつづけていることも、聖書によって教えられていることを教え続けていることも同じです。「しなさい」と主イエスから直々に命じられていること、託されていることをしつづける。それを大切にし、それを喜び、そのように感謝し信頼を寄せつづけている。『すべてのキリスト教会とその伝道者らは、もちろん一人一人のクリスチャンも、洗礼者ヨハネにならって、この彼のように悔い改めに至らせるための洗礼を施し、彼のように神の国の福音を宣べ伝え、そのように主イエスを信じて生きることの道備えをし、主イエスをこそ指差して働きつづけるのだ』と世々の教会は受け止めてきました。他の誰のためよりも、なにしろまずこの私たち自身が救い主イエス・キリストを自分自身の王さま・ただお独りのご主人さまとして迎え入れ、この救い主イエスをこそ信じて聴き従い、そのように生きはじめるための道備え。また、そのように生きつづけるための魂と在り方の道路整備と点検、保守保全。これを精一杯になしつづけ、それを喜び、そこに希望を抱いている。だから、ここはキリストの教会であり、私たちはクリスチャンなのです。復活の主イエスと弟子たちが、かねてから約束されていたあの山の上で出会ったときのことです(マタイ福音書28:16-。イエスが行くように命じられた山に弟子たちは登りました。イエスに会って、ひれ伏し拝みました。中には疑う者もいました。イエスは彼らに近づいてきて言われました、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。出かけていって、主イエスの弟子とすること。主イエスを信じて生き始めようとするその人々に洗礼を施すこと。命じられている一切のことを守るように教えること。しかも兄弟姉妹たち、主が教えてくださったその中身こそが、主イエスの弟子である私共を支えとおし、がっちりと堅く守りつづけます。なぜするかといえば、ただただ主のご命令であり、「よろしく頼みますよ」と主が私たちに大事な仕事を任せてくださったからです。それなら私共は「してはならない」と戒められていることをしないでおき、「しなさい」と命じられていることを心を込めて精一杯にすればよい(詩126:6,ピリピ手紙1:6,コリント手紙(2)9:8-11,ローマ手紙4:21
  17節。やがて来られる救い主イエスは、「箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てる。やや分かりづらく、また恐ろしい裁きが言い表されているようにも思えるかも知れません。けれど立ち止まって、よく考えてみますと、倉に納められる「麦の実」である人々と火で焼き捨てられるだけの「麦の殻」に過ぎない人々と二種類の人間がいるのでしょうか? いいえ、そうではありません。しかも神の国の福音の種を撒かれ、神ご自身によって養い育てられた麦は必ずきっと良い実を結びます。神さまご自身こそが実を結ばせてくださるからです。その収穫のとき、私たちはそれまで自分を包んでいた古い殻を脱がされ、古い罪の自分という殻を引きはがしていただいて、裸の麦の一粒一粒として倉に納めていただくことになります。 

              ◇

  18節。「こうしてヨハネは他にもなお、さまざまな勧めをして、民衆に教えを説いた」と報告されます。この教えは、元々の言葉では「福音」であり、「神の国の良い知らせ」です。「下着を二枚持っているなら貧しい者にその一枚を分けてやりなさい。食べ物も同じ。決まっている以上に取り立ててはいけない。人を脅かしたり、だまし取ってはいけない。自分の給与で満足しなさい」など、してよいこと、してはいけないことが具体的にはっきりと示されました。それらは公正であること、隣人に対して慈しみ深くあること、神への忠実と信頼のうちに慎み深く暮らすことです。ちっとも難しくはない、誰にでもできるはずのとても分かりやすく素朴な勧めです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」という神ご自身からの要求は、実は、「神に立ち返って生きるなら、あなたもきっと良い実を結ぶことができる」という恵みの約束でもあり、神の国の嬉しい知らせそのものです。そして19-20節。洗礼者ヨハネは牢獄に閉じ込められ、やがてそのまま殺されます。主に仕える働き人は主から命じられた務めをなし終えて、そのように退いてゆきます。私たち一人一人も同様で、なすべき務めを果たし、やがてそれぞれの順番で心安く退いてゆくことができます。この後どれほどの時間がそれぞれ残されているのかを私たちは知りません。まだしばらく続くかも知れません。あるいは、案外にとても短いかもい知れません。それは神さまにお任せしてあります。長くても短くても、行く手に何が待ち構えているとしても、神さまから与えられている自分の務めを心安く果たし、やがて心安く退いてゆくことができます。この預言者のように。また、「主の救いをこの目で見た。ああ良かった。本当に」2:29-30と喜びにあふれて立ち去っていったシメオンおじいさんのようにです。神の国に必ずきっと辿り着き、そこに迎え入れていただけるという確かな一つの希望があるからです。私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。この世界のためにも、また私たち自身と大切な家族の一人一人のためにもです。

2019年1月22日火曜日

1/20こども説教「救い主イエスの名によって」使徒行伝4:23-31


 1/20 こども説教 使徒行伝4:23-31
 『救い主イエスの名によって』

     4:23 ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、26 地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか』。27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。                    (使徒行伝4:23-31


  主イエスの弟子たちは仲間たちのところへ帰って、報告しました。祭司長や長老たちからきびしく脅かされたことと、それをきっぱりはねのけて「人間に聞き従うのではなく、神にこそ私たちは聞き従う。もちろん救い主イエスの福音をこれからも語り広めつづける」(使徒4:19-20)と答えたことをです。ユダヤ人も多くの外国人たちも支配者たちも、主なる神と、神から遣わされた救い主に逆らいつづける、とあらかじめ知らされていました。救い主イエスがそのように殺され、復活しました。主イエスを信じて生きる弟子たちも、これからも同じように脅かされたり、苦しめられたりもします。だからこそ、それらに負けてしまわないように、神さまに助けと支えを求めて祈りました。29-30節です、「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」と。神さまが目を留めてくださっています。あの彼らにも私たち一人一人にも。もし神さまが助けてくださるなら、それならきっと、あの彼らも私たちも思い切って大胆に神の国の教えを語ることができ、辛さや困ったことにも耐えて(*)、それらに負けないで生きることができます。主イエスご自身から教えられ、約束されてきたとおりにです。

         (*)【補足/最後まで耐え忍ぶ者は救われる】
        マタイ福音書10:22,同24:13。中身はそのとおりですが、実は順序が逆です。すでに救いの御手のうちに堅く掴まれ、守られているので、だからその幸いな者たちは最後の最後まで耐え忍ぶことができます。主を待ち望む者たちは、み言葉に聞き従い、そえゆえ主なる神に信頼を寄せ、耐え忍ぶ力を贈り与えられ、ますます待ち望みます。


1/20「私は何をすればいいのか?」ルカ3:3-14


                     みことば/2019,1,20(主日礼拝)  198
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:3-14                     日本キリスト教会 上田教会
『私は何をすればよいのか?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 3:3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち/「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。5 すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、6 人はみな神の救を見るであろう」。7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。10 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。11 彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。12 取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。13 彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。14 兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。         (ルカ福音書 3:3-14)

 3節。彼は、「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼(=バプテスマ)」を宣べ伝えました。今日でも、洗礼を受けたクリスチャンたちは「私は救われた。私は救われた」と言っています。その救いは、罪のゆるしです。罪は、神にも人様にも逆らい、「私は私は」と言い張って自己主張しつづけることです。ですから罪のゆるしは、それを大目に見て「いいよいいよ。ずっとそのままで。ありのままで、そうやって一生ずっと強情に頑固に、私は正しい、私は正しいと言い張って自己主張しつづけていいですよ」と放ったらかしにすることではありません。なぜなら、その自己主張と強情と頑固さは、その人自身をほんの少しも幸せにしないからです。それでは、ただただ物寂しく、ますます憐れで惨めなままです。ですから罪からのゆるしは、がんじがらめに捕らわれ、縛り付けられていたその自己主張と頑固さから自由にされ、そこから解放されることです。だからこそ洗礼は、川にザブンと沈め入れられるだけではなく、そこで同時に、神の福音の言葉がはっきりと告げ知らされねばなりません。神からの福音の言葉が、「ああ私は」とその人の胸に痛みを覚えさせ、悔い改めて心を神へと向けさせます。その強情で頑固で物淋しいだけの自己主張から解き放って、その人を自由な広々した場所へと連れ出すのです。
  では、どうやって凸凹道が整えられてゆくでしょうか。深く薄暗い谷のようにされた人の心がどのように埋められて高く引き上げられ、山や丘のような人の自惚れて思い上がった思いが平らにされ、曲がった道や悪い道のような人の性根や腹の思いがまっすぐにならされてゆくでしょう。まず7-9節。洗礼を受けて、神を信じて生きる暮らしを今日から始めていこうと願って詰めかけてきた人々に向かって、彼は語りかけます、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。アブラハムの子孫であり、すでに神の民とされている、とてもただしくふさわしい私だと彼らは思い込んでいました。それで自動的に救われ、祝福と幸いを約束され、神の恵みにあずかりつづけるはずの自分たちだと。その彼らに向けて、「まむしの子らよ」と。私たちクリスチャンに対しても、もちろんこの同じ厳しい言葉が語りかけられつづけます。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられると、おまえたちにだれが教えたのか。悔改めにふさわしい実を結べ。斧がすでにあなたの木の根元に置かれている」。この、燃え盛る炎のような言葉を耳にして、心をジリジリと焼かれて、彼らは遠くから駆けつけてきました。「ああ、私は間違っていた。このままでは全然ダメだ。神さまを信じて生きるはずだったこの私が、いつの間にか、ただただお体裁を取り繕い、人様の顔色ばかりを窺い、人間のことばかりを思い煩い、おかげで神を思う暇がほんの少しもないじゃないか。しかもそのことを何とも思っていない。これじゃあ、神さまからのせっかくの救いと恵みから私は今にもこぼれ落ちてしまいそうだ」と痛感させられたからです。すでに神の民とされ、そのつもりで暮らしてきたはずの多くの人々が心に痛みを覚えて、彼のもとに我も我もと大慌てで駆けつけました。兄弟姉妹たち。彼らはいま改めて、神の民となるための入り口を通ろうとしています。すでに出発して、ずいぶん長く歩いてきたはずのあの彼らが、改めて、幸いに生きることへ向けての出発点を踏み越えようとしています。もしかしたら、あのときも今日でも、心に痛みを覚えて駆けつけた人たちはそんなに多くはなかったかも知れません。それでもなお、ほんのわずかの人々は気がつきます。「あ、これは私のことが語られている。蝮の子、それはこの私自身のことだ」と。救われている「つもり」。神の民とされている「はず」。けれど現実には、その毎日毎日の実態としては、家族の前やいつもの職場では、この私自身はどうなのか。あなたは? 確かに、神さまからの救いと平和にあずかっているのでしょうか。形だけではなく中身も、日曜日ばかりではなく月曜日にも火曜日にも水曜日にも、神の民とされているのでしょうか。そのことがあのとき、あの場所で。そして今日ここで、この私たち一人一人にも激しく問われ始めています。――主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。ちっとも整えられておらず、凸凹で曲がりくねっている。倒れた木の幹や根に行く手をすっかり塞がれている。埋められなさい。平らにされなさい。まっすぐにされ、ならされなさい。深い谷によって道が途絶えている。けわしい山と丘が立ち塞がっている。道は荒らされ、曲がりくねっている。まさか、これらすべてはこの私自身のことでは? 
  9-14節。そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。胸を深く刺し貫かれたのは、ごく一部分のパリサイ人や律法学者たちばかりではなかったということです。そうではなく、遠くから噂を耳にして、「自分のこの目で見たい。この耳で、しっかりと聞き届けたい」と願って集まってきた群衆です。その中に、またわざわざ「取税人たち」と「兵卒たち」の名が挙げられています。取税人の中にはユダヤ人ではない外国人も混じっていました。またユダヤ人であっても、その共同体からは弾き出され、軽蔑され、憎まれ、仲間はずれにされていました。兵卒たちは、およそユダヤ人ではない外国人たちです。そもそもの最初から、ユダヤ人ではない外国人が神の国の福音へと招かれていたことに目を止めさせられます。「わたしはどうしたらいいのか」と、誰も彼もが切羽詰って問いかけます。この自分自身がどんなに罪深いかを知らされ、どんなに重い病いに犯されているのかをこれでもかと突きつけられたからです。恵みに値しない、ふさわしくない、貧しい罪人として尋ねています。とても重い病気を患う病人として医者に問いかけています(マルコ2:17「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは」参照)。その答えを自分はぜひ知りたいと。次には、預言者から聞かされた生き様は私たちの予想とは違っていました。とてもできないような格別に難しい行ないが要求されたわけではありませんでした。拍子抜けなほどにも、あまりに普通で、単純素朴で、とても簡単です。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。例えば、「全財産を売り払い、貧しい者に分けてやれ」などと厳しく容赦なく命じられたのは、あの飛びっきりに大金持ちの青年ただ独りでした(ルカ18:22-23。それは、あの彼が財産に特別に執着しており、しかも自分は憐れみ深く気前も良いと自惚れていたからでした。もし下着を一枚余分に持っているなら、それを分けてあげたらどうだ。さて、難しいでしょうか。もしそうなら、その難しさは、その貧しい者の身になって感じることが難しいからです。もし仮に、自分の親しい友達なら、あるいは自分の親や兄弟や、愛する息子や娘たちなら、もっともっといくらでも分けてあげられます。「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。これはどうでしょう。いいえ、これはただ当たり前のことを当たり前にせよと、普通に言われているだけです。「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。そのとおりです。律法の中で最も大切な『公平と隣人たちへの憐れみと、神への忠実』(マタイ23:23。あまりに当たり前で普通ですけれど、胸に手を当ててよくよく思い出してみますと、そんな簡単なことさえ出来ずに欲張り、むさぼろうとして、誰かを脅かしたり、誰かからだまし取ってしまったことが何度もあったことを思い出させられます。私もそうです。あなたは? 自分の給与で満足していなさい。簡単だったはずなのに、他人の家のものを眺めて不平不満を募らせた私たちです。だからこそ、「私たちの日毎の糧を今日も贈り与えてください」と父なる神さまに願い求めつづけるようにと教えられました。それは、満ち足りることを知り、また、必要なもの以外は欲しがってはならないことを知るためでした。その日毎の糧について古い信仰問答はさらに問いかけます、「有り余る財産をもった富む人々はどうして一日分を神に求めることができるだろうか」。「富む人々も貧しい人々も、自分たちの持っているものはすべて神が用いさせてくださらず、また、その恵みによって自分たちに有益なものとしてくださらなければ何の役にも立たないこと知るべき」(ジュネーブ信仰問答 問277-279参照/箴言30:7-9,出エジプト記16:19-30,ルカ福音書12:15-21と答えます。そう、知恵も力も、もちろん私たち自身の一日分ずつの生命も全く同じです。そうしたい、そうしようと思いさえすれば誰にでもできることが勧められています。福音の扉が大きく開かれていることに、誰もが気づかされます。

            ◇

 そう言えば、「わたしたちは何をすればよいのですか」と切羽詰って質問した人々が他にもいました。見比べてみると、この彼らとよく似ています。例えばペンテコステの日に、「イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と主イエスの弟子たちから告げられた人々は、強く心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。主の弟子は答えました、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、洗礼を受けなさい」。例えばまた牢獄の看守は、牢獄の中でのとても幸いな光景を目にして、その幸いと祝福にぜひ自分もあずかりたいと心底から願いました。「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。弟子たちは言いました、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから彼とその家族一同とに、主イエスの弟子たちは神の言を語って聞かせました。牢獄の看守は真夜中にもかかわらず、ふたりの打ち傷を洗ってやり、その場で自分も家族も、ひとり残らず洗礼を受け、神を信じる者となったことを家族みなと共に心から喜びました(使徒2:36-38,16:30-34。洗礼者ヨハネの前の群衆も同じです。ただ「マムシの子らよ」と叱られ、ただ「差し迫っている神の怒りから逃れられると誰が教えたのか。すでに斧が木の根元に置かれている」と脅かされただけではありませんでした。思い上がりを打ち砕かれ、その代わりに、へりくだった低い心を贈り与えられ、死と滅びの危機を自分自身のこととしてまざまざと思い知らされ、今にも失われようとする自分自身の生命を惜しみ、嘆き、それだけではなく、幸いに満ちて生きる道をも指し示されました。しかも不思議なことに、難しくはありませんでした。とても簡単なことでした。なんと驚くべきことに、「マムシの子らよ。斧がすでにあなた自身の木の根元に置かれている」というあまりに苦い呼びかけこそが、あの彼らのための、彼らがなんとしても聞くべき慰めであり、力を与え、ふたたび立ち上がらせる福音だったのです。もちろん、この私たち自身にとってもです。罪のゆるしを得させるための、悔い改めを生み出す良い知らせだからです。ああ本当に彼は救い主を人々が迎え入れ、この救い主を信じて生きるための道備えをしました。罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を。やがて来られる救い主は「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う方である」(マタイ1:21と、あらかじめ定められていました。救い主イエスを信じて、罪から解き放たれつづけて新しく生きることが始まります。主は恵み深い神、あわれみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かで、災いを思い返される神だからです(ヨナ書4:2)。すぐ目の前に、ほかのどこにもない飛びっきりの幸いが差し出されていました。それをぜひ自分も欲しいと彼らは願い、願った通りに受け取りました。この私たちも、慈しみ深い主なる神さまから同じ一つの希望と祝福を受け取りました。受け取りつづけています。






2019年1月14日月曜日

1/13こども説教「神に聴き従うか。それとも人間に従うか?」使徒4:13-22


 1/13 こども説教 使徒行伝4:13-22
 『神に聞き従うか。それとも人間に従うか?』
            +【補足/私の願いどおりではなく


4:13 人々はペテロとヨハネとの 大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。15 そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて16 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。17 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。18 そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。19 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。21 そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。      (使徒行伝4:13-21

  死んで、死人の中からよみがえらされた主イエスを、神が救い主として立ててくださった。この救い主イエスを信じて、誰でも神の御前に新しく生きることができる」。主イエスの弟子たちはこのことを語りかけつづけます。その喜ばしい知らせが広まってゆくことはとても都合が悪かったので、大祭司も含めて、役人、長老、律法学者たちが議会で相談しました。どうしたらいいだろうかと。そして主の弟子たちを脅かして、「主イエスの福音を語ることも説くことも決してしてはいけない」と厳しく命令しました。19-20節、「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。主の弟子たちは、まわりの人々が願ったり考えたりすることや、自分自身の思いと、そして神さまの御心と。それらがたびたびずいぶん違っていて、まったく正反対のこともよくある。神の御心を押しのけ、それに強情に逆らいつづけることもたびたびあると気づいていました。しかも、だからこそ神にこそ聞き従って生きると自分で判断し、すっかり心を決めていました。牢獄に一晩閉じ込められても、偉そうな人々に取り囲まれても脅かされても平気だったのも、主の福音を大胆に語っていたのも、みな同じ理由です。神にこそ信頼し、神に聞き従うと心を決めていたからです。そこでようやく、神ではない他の何者をも恐れない者とされました。それは安らかで、自由で、とても晴れ晴れ清々としています。


         【補足/私の願いどおりではなく
        「クリスチャンは自由だ。自由だ」と都合よく便利に語られます。けれどそれは真理の片面にすぎず、むしろ、その本質と生命は神の御心に素直に従い、神に服従する生き方です。そこで初めて私たちは、神ではない別のすべてのものの支配や束縛から自由にされてゆきます。罪と悪、肉の思い、周囲の人々の意見や空気に従うこと、「好きだ嫌いだ。気が進む進まない、したい、したくない」などという自分自身の折々の腹の思いなどからの自由です。聖書が告げる『罪』とは、神に逆らうことです。罪の奴隷とされ、その言いなりにされることから救い出されねばなりません。その罪を、救い主イエスご自身が『病気』と言い換えました。丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ福音書2:17。魂の重病人である私たちは、良い医者からの格別に良い薬を必要としています。健康になり、健やかに晴れ晴れとして生きるために。その良い薬はしばしば口に苦いかも知れません。耳に痛いかも知れません。苦くても痛くても、病気を治していただくために、生きるために、ぜひとも飲み込まねばなりません。救い主イエスは、「罪人を救うために世に来られ」「ご自身の民をそのもろもろの罪から救う者」(テモテ手紙(1)1:15,マタイ福音書1:20)です。『罪のゆるし』とは、それらの罪からの解放と自由です。主の弟子たちは、「人間にではなく、神にこそ聞き従う」(使徒4:19,5:29)と習い覚えつづけます。しかもゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘こそが、私たちのためのその生きた手本でもあります。「私の願いどおりではなく、御父よ、あなたたの御心にかなうことを」(マルコ福音書14:36)。そこに新しい自由があり、格別な慰めと希望がありつづけます。どうぞ、よい日々を。

1/13「荒野で呼ばわる者の声がする」ルカ3:1-6


                      みことば/2019,1,13(主日礼拝)  197
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:1-6                        日本キリスト教会 上田教会
『荒野で呼ばわる者の声がする』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3 彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。4 それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』。
5 すべての谷は埋められ、
すべての山と丘とは、平らにされ、
曲ったところはまっすぐに、
わるい道はならされ、
6 人はみな神の救を見るであろう」。             (ルカ福音書 3:1-6)

 
  救い主イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝えはじめます。その直前に洗礼者ヨハネは、私たちがこの救い主を迎え入れ、この救い主を信じて生きはじめるための道備えをしました。今日のこの箇所です。『すべてのキリスト教会とその伝道者らは、洗礼者ヨハネにならって、この彼のように道備えをし、主イエスをこそ指差して働きつづけるのだ』と世々の教会は習い覚え、受け止めてきました。人々が救い主イエス・キリストを自分自身の王さま・ただお独りのご主人さまとして迎え入れ、この救い主イエスをこそ信じて聴き従い、そのように生きはじめるための道備え。また、そのように一日ずつを生きつづけるための魂と在り方の道路整備と点検、保守保全。これこそが、キリストの教会がキリストの教会であるための意味と中身です。
 1-2節。洗礼者ヨハネと呼ばれた預言者が働き始める時期が告げられます。その時、その所で、そこに生きる人々を支配していた大小様々な支配者・権力者の名前のもとにです。神に仕える一人の預言者の働きと、そのとき人々の上にどんな者たちが権力と支配を及ぼしていたのかということは大いに関係があるからです。まず、ユダヤの国は植民地とされ、ローマ帝国の強大で圧倒的な支配のもとに置かれていました。その強大なローマ帝国の皇帝テベリオ。テベリオから派遣されて植民地ユダヤを治めていたポンテオ・ピラト総督。またユダヤ地方はいくつかの地区に分割されていて、ピラト総督のしたでそれぞれの地区の支配を担当する領主たちの名も列挙されます。ガリラヤ地区の領主ヘロデ、イツリヤ・テラコニテ地区の領主ピリポ 、アビレネ地区の領主ルサニヤ。また人々の宗教的指導者である大祭司としてアンナスとカヤパ。ただ「アンナスとカヤパが大祭司であったとき」という言い方は少しおかしいのです。正式には大祭司は一人しか任命されない規則です。けれど、先の大祭司だったアンナスはローマの権威によって辞職させられた後でもなお民衆の間に大きな影響力を保っていたらしく、それで、このような書き方がされています。そういう世の中で、預言者は神の言葉を告げ知らせはじめます。告げ知らされた神の言葉はこれらの支配者たちにも及び、彼らにも大きな影響を与えることになります。例えば、やがて救い主イエスの裁判に関わってしまう総督ポンテオ・ピラト、大祭司カヤパ。また洗礼者ヨハネを投獄し、彼を殺害してしまう領主ヘロデなど。世界を支配するローマ皇帝さえも例外ではありません。
  3節。「彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた」。ヨルダン川のほとりの全地方に行ってと書いてあります。けれど他の福音書では、「ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えた。すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン川付近一帯の人々がぞくぞくとヨハネのところに来て」(マタイ福音書、マルコ福音書)などと報告しています。およそ同じことを報告しています。それほど広い範囲を歩き回ったわけではないかも知れません。けれど、彼の語った福音の言葉は口伝えにどんどん広められ、ほんのわずかの間にエルサレムの都に、さらにはユダヤ全域の多くの町や村にまで届いたでしょう。
  「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ(=洗礼)を宣べ伝えた」。罪のゆるしを得させる悔改めの洗礼と告げられ、改めて、私たちは洗礼と聖晩餐について考えさせられます。私たちの教会の信仰告白は、「主の委託により正しく御言葉宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ主の来たりたもうを待ち望む」と信仰の中身を言い表しつづけています。洗礼と聖晩餐という二つの聖礼典を正しく執り行い、適切に用いるとはどういうことでしょう。なぜ、主から「せよ」と命じられ、命じられるままに洗礼と聖晩餐を執り行い、用いつづけてきたのでしょう。そこには、はっきりした目的と中身があります。「罪のゆるしを得させる」という救いの目的と中身があり、それに向けての「悔改めの洗礼」であり、「悔い改めと感謝のパンと杯」です。ただ形ばかりの虚しいものに成り下がってしまわないために、神の言葉がそれらに結び付けられ、聖霊なる神ご自身の力がそこに生命を吹き込みつづけます。そうであるので、執り行われ、用いられた洗礼と聖晩餐は「罪のゆるし」という救いの実を結びつづけます。神ご自身のご意思とお働きによってです。神に逆らって生きてきた私たちが、胸を深く刺し貫かれ、痛みを覚え、打ち砕かれ、自己中心の強情さを捨て去って、神へと立ち返ります。御心にかなって生き始めよう、ぜひそうしたいと願い始めます。宗教改革者は、「悔い改め」を、ただ形ばかりの悔い改めではなく、信仰の最初の出発点にあったただ一回きりの悔い改めでもなく、日毎の悔い改めであり、一日一日と生涯ずっとつづき、積み重ねられてゆく悔い改めだと説き明かしました。神へと立ち返りつづけて生きる私たちです。
  ヨルダン川で洗礼を授けながら彼が宣べ伝えた「~してはいけない」「~しなさい」という具体的な勧告と福音の教えについて、まず簡単にまとめられています。4-6節です。それは預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりであると。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。荒野で呼ばわる者の声がする。遠い昔にイザヤがそのように呼ばわり、洗礼者ヨハネも呼ばわり、すべての預言者たちが荒野で呼ばわりつづけます。ここもそうです。ご覧ください。居心地よく整えられ、暖房ストーブでほどよく温められた素敵な礼拝堂があり、けれどここもまた荒れ果てた世界の一部分であり、私たち自身もまたそれぞれに荒れ果てた物淋しい土地を魂に抱えて生きる、物淋しい荒れ果てた者たちだからです。「主の道」とは、救い主イエスが近づいて来られるための道であり、このお独りの方に伴われ、導かれて、私たちが神のみもとへと歩んでいくための一筋の道です。「整えよ。まっすぐにせよ」と呼びかけられているのは、ちっとも整えられておらず、凸凹で、倒れた木の幹や根に行く手を塞がれているからです。「埋められ、平らにされ、まっすぐにされ、ならされ」と指図されるのは、深い谷によって道が途絶えているからです。けわしい山と丘が立ち塞がっているからです。道は荒らされ、曲がりくねっているからです。この私たち自身の心の有り様です。「すべての谷。すべての山と丘。人はみな」と呼びかけられたのは、すべての人の魂の中に荒野があって、救い主をお迎えするための道、神へと向かって歩んでいくはずの道のどれもこれもがすっかり荒れ果てているからです。そこで預言者は、直ちに「まむしの子らよ」と呼びかけます。(これは7節以下ですから来週くわしくお話しますけれど)パリサイ人や律法学者たちにというだけでなく、国の支配者、指導者たちにというだけではなく、集まってきた群衆に向かって、またもちろん今日ここに集められた私たち一人一人に対しても、「まむしの子らよ」と。
 6節で、「人はみな」と予告されます。人はみな神の救を見るであろう。元々の言葉では、「肉でできた者たちは皆」と書かれています。つまりユダヤ人だけでなく、外国人も。人間様だけでなく、すべて命ある生き物たちはと。ユダヤ人ではない外国人も含めて語りかけられますが、その中でやはり、元々神の子供たちとされていたユダヤ人には一層きびしく語りかけられます。これも来週取り扱う箇所ですが8節、「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」。洗礼を受けようとしてぞくぞくと詰めかけてきたユダヤ人たち、つまりアブラハムの子孫たちに、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。お前たちのためにも、斧がすでに木の根元に置かれている」と。おかしなことが起きています。『洗礼』はこの最初のときから今に至るまでずっと、神の民の一員とされるための入門の儀式です。《救いへ至る入口。神の民として生き始めるための、出発点》としての洗礼。奇妙な事態です。すでに神の民とされているはずの彼らが、「ああ、私は間違っていた。このままでは全然ダメだ。神さまを信じて生きるはずだったこの私が、いつの間にか、ただただお体裁を取り繕い、人様の顔色ばかりを窺い、人間のことばかりを思い煩い、おかげで神を思う暇がほんの少しもないじゃないか。しかもそのことを何とも思っていない。これじゃあ、神さまからのせっかくの救いと恵みから私は今にもこぼれ落ちてしまいそうだ」と痛感させられました。すでに神の民とされ、そのつもりで暮らしてきたはずの多くの人々が心に痛みを覚えて、彼のもとに我も我もと大慌てで駆けつけました。兄弟姉妹たち。彼らはいま改めて、神の民となるための入り口を通ろうとしています。すでに神の民としての暮らしをし始めて、ずいぶん長く歩いてきたはずのあの彼らが、改めて、信仰生活のその出発点を踏み越えようとしています。しかも、「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」などと脅かされて。あんまりです。およそ生身の伝道者が語った説教の中で、このメッセージこそが一番ひどいと思います。この一言だけでも彼は説教者失格でしょう。思いやりや慰めのカケラもなく、あまりに無礼で冷酷非情。だいたい、こんな箇所を礼拝説教に取り上げるのは危険です。聖書朗読として読み上げるのも、あまりに危なっかしい。もし今週と来週それをしてしまったら、その次からは、人っ子一人この教会に来なくなるかも知れません。なぜなら、誰の好みにも性分にも合わないだろうからです。「せっかく一週間分の慰めや元気やパワーを頂こうとしてきたのに、台無しだわ。もう二度と来ませんから」などと非難轟々の扱いを受けるでしょう。すると例えば誰かが言い始めます、「あの洗礼者ヨセフはこう言っていますが気にしないでください。別に、私たちのことを蝮の子らと呼んでいるわけじゃありません。斧がすでに置かれているとしても、それはこの私たちの足元じゃなくて、どこか遠くの他の誰かの足元です。私たちとは何の関係もありません。だからもちろん、今のままのあなたでいいんです。なんの文句もないし、あなたにも私にもどんな落ち度もありません安心安心」と。

                            

 けれどどんなになだめられても、上手に気を紛らせられても、ほんのわずかの人々は気がつきます。「あ、これは私のことが語られている。蝮の子、それはこの私自身のことだ」と。救われている「つもり」。神の民とされている「はず」。けれど現実には、その毎日毎日の実態としては、家族の前やいつもの職場では、この私自身はどうなのか。あなたは? 確かに、神さまからの救いと平和にあずかっているのでしょうか。形だけではなく中身も、日曜日ばかりではなく月曜日にも火曜日にも水曜日にも、神の民とされているのでしょうか。そのことがあのとき、あの場所で。そして今日ここで、この私たち一人一人にも激しく問われ始めています。自分自身を振り返って、よくよく考えてみなければなりません。――主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。ちっとも整えられておらず、凸凹で曲がりくねっている。倒れた木の幹や根に行く手をすっかり塞がれている。埋められなさい。平らにされなさい。まっすぐにされ、ならされなさい。深い谷によって道が途絶えている。けわしい山と丘が立ち塞がっている。道は荒らされ、曲がりくねっている。まさか、これらすべては、この私自身のことでは? 

罪のゆるしにあずかるための、悔い改めの働きかけが、
ついにとうとう神さまの側から始められています。
山や丘である私たちを低くかがめさせ、
薄暗い谷間である私たちを高く引き上げ、
曲がりくねった凸凹の険しい荒れ果てた道であるこの私たちを
なだらかで広々とした道にしてくださろうとして、
ぜひ、なんとしても、
たとえどんな代償を支払ってでもぜひそうしたいと願って(ローマ手紙5:5-11,8:31-32,ヨハネ福音書14:6-7,テモテ手紙(1)1:15,ピリピ手紙2:5-11を参照)
神さまは、すでに準備万端に待ち構えておられたからです。