2018年10月30日火曜日

10/28こども説教「ユダのこと」使徒1:15-22 +チャーチコンサートでの聖書の話


 10/28 こども説教 使徒行伝 1:15-22
 『ユダのこと』
      +チャーチ・コンサートでの聖書の話10/28

     1:15 そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、16 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。17 彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。・・・・・・20 詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである。21 そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、22 すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。           (使徒行伝1:15-22

  主イエスの12人の弟子の一人だったユダは、主イエスを捕らえた者たちの手引きをしました。主イエスを裏切ったのです。けれどそれは、聖書に約束されていたとおりで、私たちの救いのために神さまご自身が計画していたとおりでした。ユダの身に起こったことはとても恐ろしいことです。けれど神さまがそのことを決めておられたと、受け止めなければなりません。12人の一人がそのように抜けていったので、抜けていった彼の代わりに誰か一人を12人の働き人たちの中に加えなければなりません。
  私たち一人一人のためには神さまが何を決めておられるのか、「もしユダのようになったらどうしよう。嫌だな、おっかないなあ」と心配にもなります。けれど、それは自分自身にも他の誰にも分かりません。神様しか知らないのです。ですから、「神さまをよくよく信じて、神さまの御声に聞き従って生きることができますように。どうかぜひ、この私にもその御心にかなった歩みをさせつづけてください」と神さまに願い求めましょう。


    【補足/サタンが入った】
罪人の救いのための神ご自身のご計画です。同時に、ユダの裏切りをルカ福音書は「そのとき、十二弟子のひとりでイスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入った」(ルカ22:3)と報告しています。そう言えば、ユダやパロやカインだけではなく、主イエスの弟子ペテロの中にもサタンが入り込み、ペテロを思いのままに操ろうとしたことがありました。エルサレムの都に向かう旅の途中で主イエスがご自分の死と復活を予告なさったとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」とペテロが主イエスを諌めはじめたときに。主イエスはペテロを厳しく叱りつけました、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21-23)と。あのペテロ自身に向かって言ったのですし、ペテロの中に入り込んでペテロを思いのままに操っているサタンに向かっても言ったのです。この私たち一人一人も彼らと同じです。



(付録)チャーチ・コンサートでの聖書の話
『何を頼みの綱とできるか?』 イザヤ書40:27-31

40:27 ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言  うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。28 あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。   (イザヤ書40:27-31

  こんにちは。「時間はピューと飛んでゆく弓矢のようで、二度と決して戻って来ない」とか、「少年老いやすく学なりがたし」などと言います。まだピンとこないかも知れませんけど、本当のことなんですよ。実は、ぼくもほんの少し前には高校生でした。そのちょっと前には中学生、小学生、いつもいつも鼻をたらした小さな臆病な子供でした。あっという間に60歳になってしまって、毎朝、洗面所で鏡を見る度毎に「はあ。誰だ、おまえは?」と愕然とします。もちろん皆さんもそうですよ。すぐに大人になり、じいさんばあさんになって、腰が曲がってハゲ頭になって寝たきりになって、あっという間に死んでしまいます。
 この30節で「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」と証言されています。聖書はこういう言葉使いをします、「年若い者。壮年の者」と希望と力にあふれた人間の様子や状態を2つだけサンプルとして取り出して見せています。ほかにも仕事がよくできる、才能と活気にあふれ、とても丈夫で人付き合いも上手で明るく社交的で元気に挨拶ができてとか。年配の人たちは口癖のように「まあ、若くて元気でうらやましいわ。それに比べて私なんかは」などと言います。ええ? 自分だって、ほんの少し前には若くてピチピチして、元気ハツラツとしてたじゃないですか。いいえ、それはあまり当てになりません。若者でも、バリバリの働き盛りでも、手に負えない難題や悩みや苦しみがあり、誰も彼もがそれぞれ弱り、疲れ果てて倒れそうになります。何度も何度も。若さも力も賢さもなにもかも、やがてすぐに失われてしまいます。年老いて、それら生きるための拠り所や頼みの綱にしていた取り柄や長所の一つ一つを手離していかねばなりません。
 ぼくは高校生の半ば頃、神さまを信じることができなくなりました。どうやって生きていっていいのか分からなくて、困りました。できれば神さまを信じたかった。でも、できなかった。教会からも神さまからも背を向けて、これからは自分の力を頼りに生きていこうと決めて、けれど自分の力などなんの頼りにもなりませんでした。30歳のときにどうしていいか分からなくなり本当に困って、神さまのもとに戻ってきました。それから30年たって、神さまのもとに戻って来られて本当に良かったと思います。生きていて嬉しいことも楽しいこともたくさんあります。けれど同時に、厳しく、あまりに過酷な世界でもありますす。何を支えとし、頼みの綱として生きてゆくことができるでしょうか。私たち人間の力をはるかに超えた存在があり、もし、その存在と出会うことができるなら、その人たちは幸せです。誰でも神さまを信じることができるわけではありません。どうしたわけか、いつも大勢の中のほんのひとにぎりの人々が神を信じます。聖書は語りかけます、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。

2018年10月29日月曜日

10/28「足踏みする日々にも」ルカ1:18-25


                           みことば/2018,10,28(主日礼拝)  186
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:18-25                    日本キリスト教会 上田教会
『足踏みする日々にも』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 1:18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。19 御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、口がきけないままでいた。23 それから務の期日が終ったので、家に帰った。:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。
(ルカ福音書 1:18-25)
 先週から、ザカリヤとエリサベツという一組の年寄り夫婦に目をこらしつづけています。ずっと祈り求め、待ち望みつづけてきた大切な願いが、この人たちにもありました。「あなたの祈りが聞き入れられたのだ。その願いはかなえられる」と告げられたとき、けれど彼は戸惑い、差し出された素敵な贈り物を前におじけて、立ちすくんでしまいます。18節。「どうしてそんなことが、私に分かるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。分かるはずがない。とうてい信じられない、と彼は頑固に拒んでいます。そういえば、まったく同じことが何度も何度も起こりました。例えば、ついにとうとう願いをかなえると告げられたときにアブラハムとサラも同じ答えを口にしましたね。「百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして子供を産むことができようか。いいや、産めるはずがない」「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか。いいや、あるはずもない」(創世記17:17,18:12)と。イエスの母マリアの場合もまったく同じでした。「どうして、そんなことがありえましょうか」(ルカ1:34)と。何によって。どうして、そんなことがありえるだろうか。それこそが、キリストの教会が2000年の歴史とその全存在をかけて問いつづけた問いです。私たちクリスチャンがそれぞれ折々に問い、ぜひとも自分自身で答えねばならない問いです。では、お聞きしましょう。キリストの教会が建っている。何によってでしょうか。あなたや私が神を求めるようになり、ある日、キリスト教会を訪れ、やがてそこに自分の居場所を見定め、クリスチャンとされた。何によってでしょうか。この一日分ずつの生命があり、それぞれの生活があり、大切な家族や友人がいる。何によってでしょう。豊かなものをそれぞれ十二分に与えられ、私たちは今日ここにあるを得ている。何によってでしょうか。
 私たちが神さまの恵みに預かってゆくこと。それは、土の中で作物が育ってゆくことに似ていました。畑のへりに立って、育てられてゆくその作物の昨日と今日とこれからを考えてみたことがあるでしょうか。思い浮かべてみてください。長年、専門的に収穫に取り組んできた農家の人たちも、毎年毎年、一つ一つの収穫に対して、やっぱり「わあ」と言って驚き、喜びの声をあげます。大根だのサツマイモだの白菜だのと豊かな収穫を手にして、一人の農夫は深く息をついて、喜びと感謝を噛みしめます。「これはまったく大地の恵みだ。こんなに嬉しいことはない」と。もちろん心を込めて作物の世話をし、肥料を与え、腰の痛みに耐えながら朝も夕方も雑草をむしりました。台風や嵐の夜には、じりじりしながら気を揉みました。病気に侵され、害虫にむしばまれた作物を手にして、深く心を痛めもしました。それでも手にする収穫は、自分の労苦をはるかに越えて豊かだったのです。そうでした。土の中の奥深いところで本当にはいったい何が起こっているのかを、その農夫さえ知りません。自分たちの力量や判断をはるかに越えた不思議な働きに信頼し、委ね、期待をこめて待ち望みます。だからこそ精一杯に雑草を抜き、世話もし、天候に心を配ることもできるのです。土の下の奥深いところで、微生物やミミズたちが住む場所で、私たちのあずかり知らない何かが起こっています。農夫たちは、そのことを思い起こし思い起こし、目の前にある日々の仕事に立ち向かうのです。私たちの多くは農家ではなく畑仕事がどんなものであるのかを具体的にはほとんど知りません。けれど、彼らの心の思いや腹の据え方を知っています。子供たちと一緒に過ごす父さん母さんたちの日々も、これとよく似ています。子供たちの一人一人は、畑の中の大根やニンジンやさつま芋のようでした。この豊かな収穫は、いったいどこから来たのでしょう。何によってだったでしょうか。「私が肥料をちょうどいい塩梅で与えたから。私が骨惜しみせず、苦労して雑草をむしってやったから。私が土をよく耕したから。だから。わたしはこれこれのことをした。だから」とは、あの彼らは言いません。一人の農夫は知っています。一人の親は知っています。ただ神さまからの恵みによったのだと。一人のクリスチャンも、もちろんよくよく心得ています。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、そのようにして驚きながら、まるで思いがけない贈り物のようにして受け取ってきた(ローマ手紙4:18)。子供たちや農家の人たちが、収穫を手にして「わあ」と歓声をあげるようにしてです。そのとおり。自分の若さや体力、自分の賢さや有能さによってではなく、自分の正しさやふさわしさによってでもなく、自分の誠実さや自分の信仰の深さや浅さによってでもなく他の何によってでもなく、ただ恵みによって、私は今日こうしてあるを得ていると。
 ――でも、もう少していねいに語りましょう。何によって、私たちは聖書に書いてあることがよく分かり、『神さまがどんな神さまであるのか。主イエスの福音とは何か。この世界が何者であるのか。神の慈しみの眼差しの只中にあって、私がいったい何者であるのか』を何によって知るのでしょうか。何によって、祈りが祈りとして聞き届けられるでしょうか。何によって、私たちはクリスチャンとされたでしょうか。聖書を毎日よく読んで、だから私は聖書のことがよく分かるようになる、のではありません。いつも熱心に祈って、正しくふさわしく祈って、だから祈りが聞き届けられる、のではありません。礼拝に毎回欠かさず出席して、よい行いをし、人に親切にし、骨惜しみせず働いて、だから、その人がふさわしいクリスチャンとされる、のではありません。よく働いた者がその働きに応じて報いられ、ふさわしいものがそのふさわしさに応じて扱われた、のではありません。正しい者や強く大きな者たちが、そのまま正しく強く大きいとされた、のではありません。決して、そうではありませんでした。ふさわしくないまま、私たちは迎え入れられたのでした。私たち一人一人のためにも、驚くべきことが成し遂げられて、それで私たちはここにいます。もし、真実な神がおられて、その神が顧みてくださるなら、その人は神さまからの語りかけを聞き届けはじめます。「年をとった者が新しく生まれることなど、ありえない。できるはずがない。私は決して神の国を見ることがない」(ヨハネ福音書3:1-9参照)と心を頑固にして淋しく絶望していた人であっても、たとえものすごく意固地で偏屈な人であっても、もし、真実な神がおられて、その神が顧みてくださるなら、その人は心安く晴れ晴れとして、生きて働いておられます神の御前に膝を屈めるようになります。人にはできないことも、神にはできるのです。その人のためにもぜひしてあげようと、神はすでに準備万端なのです。
 19-21節です。あのザカリヤは、神殿の聖所の中で手間取っていました。他にも、手間取った人たちがこの聖書の中には一杯います。放蕩息子も手間取ったし、あの放蕩息子の兄さんもマルタもかなり。モーセもずいぶん手間取りましたし、二の足を踏んで、何度も後戻りしましたね。そうそう、主の弟子トマスも、ずいぶん手間取りました。復活した主イエスが弟子たちの前に現れたとき、トマスは留守でした。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ福音書20:25)と彼は断固として言ったのです。そして不思議なことに、その疑い深いトマスこそが真っ先に、主の御前に膝をかがめました。「わが主よ、わが神よ」と叫んで、喜びにあふれました。
 神の出来事を受けとめようとして、けれど手間取っている人々がいます。あなたがそうかも知れません。いいえ、この私自身が。神が生きて働いておられるなどとは信じられない日々があり、神がはたしてこの私をちゃんと顧みていてくださるのかと戸惑い、疑う日々もあります。けれども、その手間取っている人を責めてはなりません。まごついている自分自身に失望してはなりません。あのときも神殿の庭で待っていた人々は、「何をいったいグズグズして手間取っているのか」と呆れてうんざりしていました。いいえ、いくらでもいつまででも呆れさせておけばいい。好きなように思わせておけばいい。なにしろ神殿の聖所の中では、あの彼と神さまとの一対一の格闘がなされているのですから。手間取る者たちは、格闘をしているのです。聖所からようやく出てきたザカリヤは、あの男は、話すことができませんでした。かろうじて身振りで示すだけで、一言も口がきけませんでした。まだまだ格闘がつづいているのです。その赤ちゃんが生まれるまで1010日、そして産後の一週間、つまり一年近くも、あの彼は手間取りつづけます。私たちも手間取ります。いつまでかかるのかを私たちは知りません。ほんの数ヶ月なのか、数年なのか数十年なのか。けれども神が知っておられます。その人の手間取りを、その人の恐れや疑いを、神ご自身がよくよく知っていてくださいます。戸惑い疑うことは決して恥ずかしいことではありません。足踏みをし、行きつ戻りつをし、後戻りをすることさえも。行きつ戻りつし、足踏みをした場所は踏み固められて、やがて堅固な土台となるでしょう。あなたは、きっと揺るぎなく確固として立つでしょう。

                          

 ひとつ疑問が残ります。神殿の聖所の中で起こった出来事を、いったい誰がみんなに報告したのでしょうか。「あなたは口がきけなくなる。このことの起こる日まで、ものが言えなくなる。時が来れば成就する主の言葉を信じなかったのだから」20節)と告げられたとき、神の御使いとあの男のほかには、そこには誰もいなかったのです。では、それを誰が報告したのでしょう。――あの彼ではありませんか。一年近くたった後で、彼が自分で報告したのです。「皆さん聞いてください。いきなり、そんなことを言われました。私も妻もじいさんばあさんになった、できるはずがない。とても信じられないと答えました。そして、叱られた。『神にできないことは何一つない。けれど、あなたは信じなかった』と。主の御力がこの私にも及んで、それで私は口が利けなくされた。やがて恵みの時が来て口と舌は解かれた。それから、その日以来、自由に好きなようにペラペラ喋ることが出来るようになったかといえば、決してそうではなかった。それ以来この私は、他のことは一切話すことができない。ただただ神への感謝を申し上げ、ただただ神への信頼をこそ語るほかなくなった私である」。
 信仰をもって生きていても、もちろん悲しむ日々はあります。どうしたらよいのかと困り果て、頭を抱える日々も来ます。けれど、悲しむままでは終わりません。卑屈にいじけるときもあります。けれど、谷のように貧しく身をかがめ、卑屈にちぢこまるとき、その小さくされた私に呼びかけてくださるお独りの方がおられます、「顔を上げなさい。背筋をピンと伸ばしなさい」と。うっかりして、山や丘のように高ぶって他人を見下すとき、その偉そうな私を叱りつけてくださるお独りの方がおられます、「あなたは身を低く屈めなさい」と。険しく狭い曲がりくねった道のように、かたくなに意固地になるとき、その私に優しく語りかけてくださるお独りの方がいてくださいます、「あなたは平らになりなさい。もっともっと広くなりなさい。そんな曲がりくねった凸凹道じゃ、誰も安心して通れないだろう」(イザヤ書40:3-5,ルカ福音書3:3-6参照)と。誰もが誰に対しても、恐れることもおじけることもなく、恥じ入ることもなく、誰をも恥じ入らせることもなく、虚勢を張ることもなく、なんの気兼ねも遠慮もなく、背筋をピンと伸ばす。そのためには、まず私たちこそが深く慎んで、低く低く身を屈めましょう。しもべとして、心安く晴れ晴れと身を屈めましょう。今までは、あまりに自惚れて頑固で頭が高すぎましたから。河原に転がっている丸くてすべすべした小石のように、滑らかに平らになりましょう。あなたにも、この私にさえ、それはできます。何によって? どんなふうにして? ただ主ご自身の豊かさと主の憐れみ深さと、主の真実さによって。本当に、できるでしょうか。それはけっこう難しい。おおごとです。でも大丈夫。安心してください。意固地でかたくなな私たち人間には逆立ちしてもできませんが、私たちの主なる神にはできます。神さまには、できないことは何一つないからです。あなたのためにもこの私のためにも、主なる神はすでに準備万端だからです。



2018年10月22日月曜日

10/21こども説教「約束を待って祈る」使徒1:12-14


 10/21 こども説教 使徒1:12-14
 『約束を待って祈る』

1:12 それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。     (使徒行伝1:12-14

  つい先週の礼拝の中で聞いたことですが、主イエスは弟子たちが見ている前で天に上っていき、しかも「それと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11と御使いたちが約束しました。その前に、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:4-5,ルカ24:49と主イエスご自身から命令されていました。天の御父からの約束とは、主イエスを信じる彼ら弟子たちに聖霊なる神がくだってきて、彼ら一人一人の体に宿って、主イエスを信じて生きるための力が与えられるということです。それで命令どおりに、エルサレムの都から離れないで、約束を信じて待って、あの弟子たちは祈りつづけています。皆さんも、神さまに祈ることがありますか? もし、せっかく祈るのなら、神さまが祈りをちゃんと聞いて、かなえてくださると信じて祈るのが良いでしょう。あのときの、あの彼らのように。少し前に、主イエスは言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネ福音書15:16

   【補足/祈る理由と目的】
神さまに十分な信頼が寄せられ、信じる者たちが神の御心かなって生活してゆけるためにです。もし、御父に十分に信頼できるなら、よく聞き従うことができ、願い求め、幸いと助けを受け取り、さらに強く深く信頼を寄せ、ますます聞き従って生きる者とされてゆきます。そうではないなら、信じたことが無駄になってしまうでしょう。聖書の初めから終わりまで、ずっと、「恐れるな。恐れるな」と神の民は神から励まされつづけます。神の民がずっと臆病で弱虫でズルくありつづけた理由は、神になかなか信頼しきれないで、脇道へ脇道へとそれてゆくからです。もし、神に十分に信頼できないなら、『神ではない様々な人やモノを恐れつづけて』生きるほかありません。それは、とても心細く淋しく、あまりに惨めな生きざまです。「わたしの信仰を増し加えてください。必要なだけ十分に神に信頼できるようにならせてください」と、あなたも祈り求めましょう。必ずきっと願いはかなえられます。本当にね。


10/21「年老いて、なお望みがある」ルカ1:5-18


                         みことば/2018,10,21(主日礼拝)  185
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:5-18                       日本キリスト教会 上田教会
『年老いて、なお希望がある』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。11 すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。18 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
                                           (ルカ福音書 1:5-18)


 このルカ福音書が報告する最初の出来事は、ザカリヤという名の一人の祭司の前に、突然に主の御使いがあらわれたことでした。今週、来週と、2回に分けてご一緒に読み味わいます。御使いが彼に告げたこと。それは、神の恵みの力によって息子が与えられ、その子は神さまのために大切な役割を果たすようになることでした。聖書は、『約束された救い主が来られるとき、それに先立って一人の預言者が立てられ、救い主を人々が迎え入れるための道備えをする』と予告していました(マラキ3:1)。そうした一連の預言を最後に、ほぼ400年もの間、神はピタリと口を閉ざしたのです。ずいぶん長い神の沈黙です。そして、とうとうその約束が実現するときが来ました。

 中身に入る前に、基本的なことをおさらいしておきます。6節で「正しい人」「落ち度なく行っていた」、また17節でも「義人(=ただしい人)の思いを持たせて」とあります。人間について聖書の中でこのように語られるとき、このような言葉は文字通りにではなく、ずいぶん割り引いて聞かねばなりません。なぜなら、「正しい人は一人もいない」し、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」(ローマ手紙3:9-,創世記8:21とはっきり告られているからです。これが聖書の、つまり神ご自身からの基本的な人間理解です。正しい人も落ち度のない人も誰一人いないと弁えたうえで読むのでなければ、すっかり読み間違ってしまいます。「正しい人。落ち度のない人」という時、その正しさは「とても良い真実な神を信じて生きていきたいと願っている」という程度の意味です。覚えておきましょう。
さて6-7節。あの夫婦は、神を信じ、神に従って生きようとする人たちでした。けれども子供が与えられませんでした。それは、今日の私たちが想像するよりももっと重く厳しい試練でした。なぜなら『与えられる子供を通して神の祝福が具体的に実を結ぶ』と、その当時の人々は教えられていたからです。『子がないことは神の祝福が与えられていないしるしだ』と当時の人々は考えました。いいえ、この夫婦だけではありません。私たちにもまた担いきれないような重荷を背負わされ、試練や悩みが襲う日々があります。逃れる道がどこにも見出せない日々があります。八方ふさがりで、だれにも理解されず、だれも支えてくれず、どこにも解決が見出せないと思える日々があります。苦しむその人は、「よりにもよって、なぜ、この私が」と苦しみ、「ただ自分独りだけがこんな辛さに耐えている」と思うことでしょう。けれど、担いきれない重荷や試練はそれぞれにあったのですし、あちこちに数かぎりなくあります。苦しむ人はすっかり絶望し、世間や周囲の人々や運命をうらみ、呪うようになるかもしれません。いじけて、ひがみっぽくなるかもしれません。無気力になり、ただ流されてゆき、あるいは捨て鉢になって死と破滅を願うようになるかもしれません。けれど、その中のほんの一握りのものたちは、そこで神へと向かいました。その痛みと辛さの只中で、貧しく身を屈めさせられる日々に、けれどそのようにして、神へと向かう人々がいます。ほんの一握りの人々が。そして、その人々は悩みと苦しみの只中で、生きて働いておられる神と出会ったのです。
  10-14節。香は一日に二度、神殿の中でたかれました。香の煙があがるのを見て、人々は祈りました。空に昇っていく煙、それは、天に昇ってゆく祈りのしるしでした。その昇ってゆく煙のように、私たちがささげる祈りもまた昇っていって、ぜひとも天の御父のもとへと届いてほしい。主の御使いが一人の男の前に現れて、神の言葉と神の現実を告げました。男は不安になり、恐怖の念に襲われました。なぜなら、神の言葉と神ご自身の現実だからです。私たちには私たちの言葉があり、私たちの現実があります。互いに語り合ったり、独りでつぶやいたり、思い巡らせたりし、計画したり実行したりして、私たちは私たちの事柄をそれぞれに持ち運んで日々を生きてゆきます。けれども突然に、神の現実が私たちの現実の前に姿を現しました。『あなたたちがそれぞれに生き、それぞれに立ち働いているだけではなく、いやむしろ神ご自身こそが生きて働いておられるではないか』、と宣言されるのです。
  13節。不安になり、恐怖の念に襲われたこの人に語られた最初の言葉に、耳を傾けましょう。「恐れるな、ザカリヤよ。あなたの祈りが聞き入れられたのだ」。恐れるな? いつ、彼は恐れたのでしょうか。この人は、突然にあらわれた神の使いに対して、たしかに今、恐れています。けれど、それだけではありません。実は、これまでずっと恐れつづけ、とても心細かったのです。年老いた人々がやがてくる自分や連れ合いの死を、重い病いを、孤独や先行きの不安や様々な不都合を恐れるだけではありません。若い頃から、小さな子供の頃から、不安と恐れは私たちに付きまといます。いくら正しそうで、非の打ちようがないように見える人であっても、たくさんの友だちに囲まれていても、父さんと母さんが優しくても厳しくても、家が豊かでも貧しくても、いくら仕事が順調でも、よい学校への入学が決まっても、かわいい赤ちゃんが無事に生まれた後でも、すくすく育った後でも、愛情深い家族に囲まれていても、健康で丈夫で、今は元気はつらつとしているとしても。今、この人は神の御前に立たされ、まるでいま初めてのようにして、神を畏れはじめています。神さまの御前に立たされて、その時に私たちが感じるおそれは、いったい何でしょうか。神さまの眼差しが注がれ、その光に照らし出されて、私たちの内面の弱さ、脆さ、罪深さがあばかれ、突きつけられます。私たち自身の汚れや不十分さ、神の御前にはとうてい立ち得ない価のなさを思い知らされます。その通り。神の御前では、おそれるほかない私たちです。しかも兄弟たち。神がおられない所などなく、神の御前ではない別の他の所など、どこにもないのです。それなら、私たちはどうしたらいいでしょう。――けれど神に栄光あれ。感謝をいたします。なぜなら、神さまと私たち人間との間に、ただお独りの力ある執り成し手が立てられたからです。私たちの救い主イエス・キリストが。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6とおっしゃいました。もし、だれかが神の恵みのもとへぜひ辿り着きたいと願うなら、この主イエスこそ、神の御もとに辿り着くための確かな、ただ一筋の道です。もし誰かが、『神はどんな神だろう。その神さまの御前に、この世界はどんなものであり、また私は何者なんだろうか』と思い悩み、それを知りたいと願うならば、主イエスこそその真理を告げる方です。もし誰かが、神の恵みとゆるしのもとに揺るぎない晴れ晴れとした生命をえたいと願うならば、この主イエスこそが、その人に格別な生命を与える方です。主イエスを通るなら、誰でもきっと辿り着ける。主イエスに聞くなら、誰でも知ることができる。主イエスから受け取るなら、誰でもきっと、喜ばしく生きるようになる――それが聖書からの、神ご自身からの約束です。私たちはこのお独りの方を信じ、この約束を信じて、生きることをし始めました。
 10節。神殿の庭に立って待ち構えている大勢の人々が、香の煙が立ち昇っていくのに重ね合わせて祈っていました。神に仕えるその働き人もまた、祈っていました。昇っていく煙のように、私たちの祈りと願いもまた高く昇っていって、ぜひとも天の神さまのもとまで届いてほしい。けれども彼は、いざ《神の現実》が目の前に差し出され、「あなたの祈りが聞きいれられたのだ」と告げられたとき、戸惑ってしまいます。兄弟たち。目に見えるものが私たちの目を奪い、心を奪います。目の前のそれぞれの手厳しい現実が、しばしば私たちを圧倒します(コリント(2)4:18-。どんなふうに生きてゆくことができるでしょう。目に見えるものによってではなく立ち、足を踏みしめ、目に見えるものによってではなく歩むことなど、この私たちにどうやって出来るでしょうか。年老いた者たちも。子供も若者も。お父さんお母さんも。何によって、私たちは神の現実を知ることができるでしょう。13節。「その子をヨハネと名付けなさい」と命じられました。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その一人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。だからこそ私たちは待ち望み、夢をみます。例えばもし、愚かな一人の人が、他の誰彼の賢さをうらやむのでなく、周囲の人々の人間的な賢さに聞き従い、引き回されてゆくのではなく、神の賢さにこそ信頼し、神にこそ願い求めて、安らぎと確かさを受け取ることができるならば。もし、貧しく身を屈めさせられた一人の人が、ほかの誰彼の豊かさや力強さに圧倒されるのを止め、「人様が私をどう思うだろう。どう見られるか」と気に病むことを止め、「なぜなら彼らも私も人間にすぎず、恐れるに足りず、信頼するにはなおまったく足りない」と心を神へと向け返すならば。なにしろ神の豊かさと力強さに信頼し、その神さまがこんな私のためにさえ、ご自身の豊かさと力強さを発揮してくださることを願い求め、そのあわれみと慈しみとに一途に目をこらして生きようと腹をくくるなら。もし、意固地でかたくなな一人の人が、ちっぽけな誇りと小さな小さな体面を何より重んじるその人が、けれどなお、「こんな私のためにさえ神の独り子は」と仰ぎ見るなら。神であられることの栄光も尊厳も生命さえ惜しまず、かなぐり捨ててくださった方の十字架の御下に立つことができるなら。そこで、「おゆるしください。わたしは自分が何をしているのかさえ知りません。自分が何者なのか、どこから来て、どこへと向かおうとしているのかさえよく分からない。主よ、私を憐れんでください」と、もし膝を屈めることができるなら。
  多くの人々にとって、最も恐ろしい相手は人間であるらしいです。家族や親戚や同じ地域に住む人々の目や耳や、彼らからの評価も気にかかります。当たらず障らず、できるだけ穏便にと願います。だからこそ全世界のための救い主であられます主イエスは、「たかだか人間に過ぎない者たちを恐れてはならない。体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れてはならない」「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(マタイ福音書10:26-28,ヨハネ福音書16:33と私たちを励まします。しかも だからこそ救い主は死んで復活し、その復活の新しい生命を差し出しつづけておられるではありませんか。世界中のすべての被造物のために、この私たちのためにも。――そこでようやく、そのとき、まるで初めてのようにして私たちは、贈り物を贈り物として、恵みをただただ恵みとして受け取りはじめます。そこで感謝と喜びに溢れます。差し出されつづけていたものを確かに受け取って、がっちりと握りしめて、そこでようやく私たちは知るでしょう。《主なる神の御下へと立ち帰り、立ち帰りして、そのようにして楽しみも豊かさも与えられつづける私である》と。《与えられ、受け取りつづけて、そのようにして私は今日こうしてあるを得ている》と。主の恵みは、こんな私のためにさえ、今ようやく十分に働く。つまり、いままでは私たち自身の強さと小賢しさが、私の臆病さが神の力を邪魔していたが、また体面と体際と格式にどこまでも拘る頑固さが神ご自身の力を阻んでいたけれども、この私自身の弱さと低さの中で、ここでようやく神の力は十分に発揮される。ついにようやく、主の恵みはこんな私にさえまったく十分(コリント(2)12:7-。主の慈しみの只中に生きる私たちであると。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。

2018年10月10日水曜日

10/7こども説教「天の御父からの約束」使徒1:1-5


 10/7 こども説教 使徒1:1-5
  『天の御父からの約束』

     1:1 テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、2 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。               (使徒行伝1:1-5

  外国人であるテオピロという人に向かって語りかけられています。彼がキリスト教の神や信仰のことをぜひ知りたいと願っているからです。ていねいにすっかり話してあげれば、しかも神さまがこの人をよくよく助け、導いて、信じさせてくださるならば もしかしたら、この人も神を信じて生きることができるかも知れないからです。ルカ福音書(=第一巻)をすっかり読んだ彼に向かって、その続きが語られます。
  救い主イエスは十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その三日目に墓からよみがえりました。その復活の姿を40日間にわたって、弟子たちに見せてくださり、彼らに大事なことを命令しました。4節。「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。天の御父からの約束とは、主イエスを信じる彼ら弟子たちに聖霊なる神がくだってきて、彼ら一人一人の体に宿って、主イエスを信じて生きるための力が与えられるということです。しかもキリスト教会ではそのときと同じことがずっと続けられています。今でもそうです。バプテスマとは洗礼のことです。水道のごく普通の水を使って洗礼を授けられた者たちは、それだけでなく聖霊なる神がくだってその人に宿り、主イエスを信じて生きるための力が与えられます。クリスチャンたちは皆そのようにして、神の力を贈り与えられて新しく生きることをしはじめました。ここにいる私たちもそうでした。

    【補足/洗礼】
     人間たちが行っているただの儀式で、形ばかりのことだと思っている人々も大勢いるでしょう。そうではありません。人間にできることはせいぜい水で洗礼を授けることくらいです。けれど神がそれを用いて、約束どおり、聖霊なる神をその人々の体の中に宿らせてくださいます。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(コリント手紙(1)3:16-17,ローマ手紙8:1-11参照)。


10/7「確実なことを」ルカ1:1-4


                        みことば/2018,10,7(主日礼拝)  184
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:1-4                         日本キリスト教会 上田教会
『確実なことを』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。    
                              (ルカ福音書 1:1-4)


  1節。「私たちの間に成就された出来事」について福音書の記者は報告しはじめます。それは、神ご自身であり、救い主であられるイエス・キリストについての出来事です。キリスト教の信仰は、誰かが自分の頭の中で考えついたことや思いめぐらせたことではなく、現実に起こった出来事の上に積み上げられてきました。神さまが生きて働いておられるからです。そのことを私たちは見落としてはなりません。最初の頃の福音伝道者たちは、この驚くべき、そして単純な事実を人々に告げることをこそ自分の第一の役割としました。その目で見たこと、耳で聞いたこと、伝えられたことを、彼らは語りつづけました。神の独り子が地上に降ってこられ、私たちのために生き、私たちのために死んで葬られ、私たちのために墓から復活してくださったこと。彼ら弟子たちが見ている目の前で天に上っていかれたこと。また、そのとき、白い服を着た御使いたちが弟子たちにこう語りかけました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1:11)。神の国の福音は、告げられた初めにはきわめて単純明快なものでした。
  「最初から親しく見た人々であって、御言に仕えた人々」。元々の言葉では、「~御言葉に仕えるしもべとされた人々」。はじめの弟子たちがそうだったというだけでなく、伝道者たちがそうであるというだけでなく、私たちクリスチャンは皆、見て聞いて伝えられて知った人々であり、だからこそその神の現実と神の言葉に仕えるしもべとされています。しもべたち同士です。それを決して忘れてはなりません。だからこそここには、上座下座の区別はなく、「おカミは。それに比べて我々シモジモのモノたちは」などという分け隔てもなく、「立派だ。大きくて強い、格別にしっかりしている」などと崇められるべき人は誰もいないし、見下される人も誰一人もあってはならず、「それに比べて私は」などと卑屈にいじける人も一人もあってはなりません。これからもそうです。どんな特別の権威も格式も指定席もなく、誇る者も恥じ入る者もなく、ただただ『神の現実と神の御言葉に仕えるしもべ』という安らかな場所が、神を信じて生きるすべてのクリスチャンのために用意されています。主のものである教会。主のものとしていただき、主に仕えるしもべである私たちです(ローマ手紙14:1-4参照)
  3節「すべての事を初めから詳しく調べていますので、それを順序正しく書きつづって」報告する、と福音書記者は言います。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、これら四つの福音書が記されたのはおよそ紀元60年頃でした。十字架の出来事からすでに30年近くもの年月が過ぎ去りました。ほかのすべての聖書の記録者たちと同じく、この福音書を記録したルカという人もまた、神さまの霊のお働きによって必要な事柄を知らされ、導かれて書いたのだと分かるならば、それで十分です。これらの福音書も使徒行伝も他のどの聖書証言も、だからこそ、生身の人間の手を用いて書かれながら、なおそれを越えて、神の言葉とされています。揺るぎなく断固として神の言葉でありつづけます(テサロニケ手紙(1)2:13,ペトロ手紙(2)1:21,テモテ手紙(2)3:15-17参照)
  また3節。「テオピロ閣下よ。ここに詳しく書きつづって閣下に献じることにしました」。このルカ福音書と使徒行伝は、同じ一人の人物にささげられています(使徒1:1。テオピロがどんな人物なのかを、私たちはよく知りません。ユダヤの国を植民地支配していた当時のローマ帝国の上級役人であり、このキリスト教の信仰に少し関心や興味もあって、ルカの親しい支援者だったらしいです。この第一巻目(=ルカ福音書)ではとても格式ばって改まった口調で「閣下」などと呼びかけていたものが、第2巻目(=使徒行伝)では親しい友人同士のようにただ「テオピロよ」と。福音書を差し出されてじっくり読んだ後、また「ここはどういう意味なんですか」「ああ、それはね」と折々に親しく説き明かしを受けつづけた後で、もしかしたらテオピロは洗礼を受けてクリスチャンになったかも知れないと想像する人たちもいます。そういえば、日本でも同じような人々が大勢いました。「肩書や身分序列などどうでもいいじゃないか」と思える広々とした自由な場所へ、テオピロもここにいるこの私たちも少しずつ近づいてゆきます。
  4節「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります」。この福音書記者にとっても、テオピロや私たちにとっても、願っていることは同じです。すでに何度も繰り返し聞いて受け取っている教えが確実なものであることを、ぜひ十分に分かりたい。「頭ではなんとなく分かりますが」なんていつまでも言い続けているばかりでなく、心でも、普段の自分自身のいつもの暮らしぶりや人との付き合い方や腹の思いによってもよくよく分かりたい。なぜなら私たちは、目を眩ませるもの心を惑わせるもの、私たちを心細くさせるものに幾重にも取り囲まれて暮らしているからです。それで度々、友人たちや家族からも「へええ、おかあさんって確かクリスチャンのはずなのに、そんなふうに考えたり感じたりするんだ。なるほどねえ」などとガッカリされたり、首を傾げられたりもするからです。
 さて質問。キリストの教会に、なぜ人は来るのでしょう。あなた自身は、なぜ来ましたか。何があれば、ここで人は満たされるでしょうか。この後ごいっしょに歌います讃美歌85(讃美歌21-227番)も、信仰をもって生きる私たちの旅路を心強く導いてきた格別な歌の一つです。歌の通りでした。お手数をかけますが、讃美歌85番を開いていただけますか? 歌詞の1節から4節までを読み味わいましょう。「(1)主の真理こそが海辺の岩のようだ。逆巻く荒波にも、大波がザブーンザブーンと打ち寄せつづけても、主の真理というこの大きな岩はビクともしない。(2)主の恵みは浜の砂粒のようだ。その数を、いったいどうして数え切ることができるだろうか、できるはずもない。(3)世の中の様子も社会のあり方も人間関係もどんどんどんどん移り変わってゆく。この自分自身の身の上も生活も、このあとどうなってゆくのか、はっきりしたことは何も分からない。確かに弱く危うい私だ。それでもなお、ただただ主なる神さまに信頼を寄せ、心を尽くして主にすがって格別な平安をいただこう。必ずきっと、そうしていただける」。この歌を「ああ。そうだったのか」と受け止め、噛みしめた者は、例えば「この岩の上にわたしの教会を立てる」(マタイ福音書16:13-20と主イエスが約束してくださった言葉をどう受け止めているでしょう。主イエスの問いかけに答えて主の弟子シモンは答えます。「あなたこそ生ける神の子キリストです」。するとイエスは仰いました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、どんな人間でもなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(=岩男)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはできない」。主イエスがご自分の教会をその上に建ててくださると約束してくださったその『岩』とは何なのか。いくつかの解釈がありうるとしても、主のまことはというこの讃美歌を知り、心に刻んできた者たちにとっては、『岩』の中身は明白です。信仰深いあの彼? 断固として主に従う彼の信仰心や忠誠心? いいえ、まさか。主の真理そのものこそが、逆巻く荒波にも、大波がザブーンザブーンと打ち寄せつづけてもビクともしない、大きな岩ではありませんか。主イエスご自身とこのお独りの方を信じる信仰こそが、私たちの救いの岩、砦の塔、避け所ではありませんか(申命記32:4,15,サムエル記下22:2-3,31:2-3,42:9,89:26,イザヤ26:4,ローマ9:33,コリント(1)10:4,讃美歌455,457,449,468,474。石っころのように固い頭の頑固で分らず屋の人間たちなら山ほどいます。けれど、何が起きてもビクともしないような、岩のように揺るぎもない人間など誰一人もいない。揺るぎもない信仰心を獲得しえた人間も一人もいません(ローマ手紙3:9-26)。ペテロとは「岩」という意味です。「岩男」と主イエスによってアダ名をつけていただいた(ヨハネ1:42あのペテロもまた、岩どころか、小さな小さな砂粒のような人でありつづけます。けれどなお、弱く危ういペトロや私たちであるとしても、それでもなお、心を尽くして主にすがる者たちを神さまご自身が生みだし、その人々に格別な力を与えてくださる。与えつづける。主の真理とその恵みを待ち望んで、望みつづけて、そこでようやく、こんな私たちであっても安らぎを得る。主のまこと、主の恵み。これこそが只一つの安心材料です。しかも讃美歌85番は、ここで私たち自身の弱さ、危うさ、脆さに加えて、私たち自身が根深く抱え持つ『罪と悲惨さの問題』を真正面から差し出しています。歌の4節目、「つもれる罪、深き汚れ、ただ主を仰ぎて救いをぞ得ん」。罪とは、神に逆らって「いいや、私は。私は」と頑固になり、どこまでも我を張りつづけることです。神さまによって差し出される救いは、この自己中心・自己正当化の罪と悲惨からの救いでありつづけるからです。これこそ、とても大事です。キリスト教信仰の中心部分にある大きなテーマです。
  しかもなお、神さまの救いの現実が私たちの只中で実現したのです。それぞれに告げ知らされ、習い覚え、主なる神を信じて生きてきたとおりでした。ピリピ手紙2:5-11は、本当には何を証言していたのか。「(救い主イエスは)十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」と告げていたではありませんか。固執なさらず、自分を虚しくし、へりくだって、御父への従順を徹底して貫き通したと。4040夜さまよった荒れ野でも悪魔の誘惑をすべて退け、十字架の上でも「降りてこい。救い主なら自分で自分を救ってみろ」とバカにされても笑われても、そこから降りないでくださった。罪人を救うために、自分を自分で救わないことを断固として選び取って。その前夜、ゲッセマネの園では、いったい何が起こったでしょう。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ福音書26:39。御父への徹底した従順、そこにしがみつきつづけてくださった。御父とのつながりと信頼は、そこでも堅く保たれつづけました。だからです。主イエスこそただ一本の道であり、一つの真理であり、生命です。この方を通るなら誰でも父のもとへと辿り着けるし、この方に聞くなら誰でも知るべき真理を知り、格別な生命を受け取れると(ヨハネ福音書14:6-7。救い主イエスは十字架につけられて死んで葬られ、三日目に墓から復活なさった。私たちもまた古い罪の自分と死に別れて、新しい生命に生きると約束されています(ローマ手紙6:1-16参照)。コリント手紙(1)15:14-は語りかけます;「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。「キリストに望みを抱く」とは、どういうことでしょう。私たちは、この世のいつもの現実生活の只中でももちろんキリストに望みをかけています。しかも、心の中のどこか片隅の小さな御守りやちょっとした気休め程度ではなく、この世の生活の中だけでもなく、その後にも望みをかける。信じていれば何の心配もないというのではありません。良いことも悪いことも起こる。人生を都合よく気軽にヒョイヒョイ渡ってゆくための魔法や特効薬など、あるはずもない。では主イエスを信じる私たちは、いったい何を願うでしょう。何があれば、安らかに心強く生きて、やがて満ち足りて死んでいくことさえできるでしょう。ほら、死んで復活してくださった救い主イエスが、弟子たちの前に現れたあの復活の朝のことです。自分たち自身の弱さや危うさ、周囲の人々の強さを恐れて、ビクビクして縮こまっていた弟子たちは、あのとき、どんなふうにして主イエスからの平安を受け取ったでしょうか。彼らの真ん中に主イエスが立ってくださり、てのひらの釘跡、脇腹に刻まれたヤリの刺し傷を見せていただいて、十字架につけられて死んだイエスがたしかに復活なさったとまざまざと知らされてでした。そこでようやく、喜びがあふれ、主イエスの平安を受け取っていました。私たちもそうです。主イエスは語りかけます、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」。そして、「あなたがたに平安があるように」(ヨハネ福音書14:27, 20:19,21)。いつも、どんなときにもあり続けるように。