2018年4月23日月曜日

4/22「ペテロの挫折」マタイ26:69-75


              みことば/2018,4,22(復活節第4主日の礼拝)  159
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:69-75                   日本キリスト教会 上田教会
『ペテロの挫折』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。                                     (マタイ福音書 26:69-75


主イエスが裁判を受けている間に、ここで、私たちは痛ましい出来事に直面します。ペテロという名の、1人の熱心で忠実な弟子の挫折と裏切りです。あの彼は、「イエスなど知らない。何の関係もない」と3度、自分と主との関係を否定します。弟子たちの全員が主を見捨てて逃げ出したのでした。ただ主イエスだけが捕まえられ、裁判にかけられます。主イエスの弟子たちの1人、ペテロは、あの逮捕の際にいったんは逃げ去りながら、それでもこっそりと後を追って来ました。大祭司の屋敷の中庭で、火に当たる人々の間に紛れ込んで、こわごわビクビクしながら、ペテロは座っています。捕えられた主がどんな目にあうのかと、その裁判の成り行きを見守るために。その屋敷で下働きをしている娘たちの1人が、その彼に目を留めます。「あ。この人のことを知っている」。じっと彼を見つめます。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた。そうでしょ」。「本当だ。確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」「私も見た」「そうだ、この人だ」。次々に問いただされ、ジロジロ見つめられ、「違う、違う。何のことかサッパリ分からない。そんな人は知らない。人違いだろう」と彼はシラバックレてしまいます。
  彼ペテロは、弟子たちの中でもリーダー格で兄貴分的な存在でした。仲間たちからも信頼されていた力強い断固とした働き人が、けれども救い主に背を向けています。「これが、あのペテロか。私たちがよく知っていたあの同じ人物か」と、私たちは驚き呆れます。彼にも、主イエスを信じる信仰の様々な出来事があったのです。姑の熱を癒していただき、山の上で主の栄光の姿を目撃し、湖の上では危うく溺れそうになところを主に助けられました(マタイ福音書8:14,8:23,14:22,17:1-8。いろいろあった長い旅路を、あの彼は主イエスに従って歩んできました。主イエスに聞き従うことや信頼することを少しずつ学びとり、この方こそ信頼に足る方だと心に刻んできました。その主を「知らない。何の関係もない。赤の他人だ」と、1度ならず2度3度と言い放ってしまいました。彼のつまずきは、ほんの小さな試みから始まりました。時刻は、真夜中をとうに過ぎていました。大祭司に仕える下働きの娘がひとこと質問しました。69節、「あなたも、あのガリラヤ人イエスと一緒だった」。刃物を喉元に突きつけられて、ではありません。大勢の強盗や兵隊たちに取り囲まれて、ではありません。小さな無力な一人の娘の一言が、彼を追いつめました。力強い、断固とした彼の信仰を打ち砕くには、その、ほんの小さな一言だけで十でした。あまりに簡単なことでした。
 けれど、この出来事は告げます;人間がどんなものであるのかを。その意思や決断がどんなに脆く不確かなものであるのかを。たとえ最善の、誠実で堅固な、揺るぎのない人物であっても、その信仰が弱り果て、衰え、ついにつまずいて倒れるときが来ると。だからこそ聖書は、ペテロのつまずきと失敗ばかりではなく、主に仕えるたくさんの働き人たちの弱さを、つまずきと破れを、手痛い挫折と失敗をくりかえし報告してきました。74節。夜明けを告げて、鶏が鳴きました。ペテロは、ほんの数時間前に主イエスから言われたあの言葉を思い出しました。「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」26:34。本当にそうだった。ペテロは、いきなり激しく泣き出しました。その落胆、その涙の中身はなんだったでしょう。「ダメな、どうしようもない私だ。私は失格だ」と彼は、自分で自分を裁いています。私たちもそうです。身近な家族や兄弟や誰彼を裁いているだけでなく、しばしば自分自身を自分で裁いてしまっています。しかも互いに容赦なく裁き合うための材料をそれぞれ山ほど抱えています。不誠実。ごうまん。自分勝手。とても優柔不断。頑固で、意固地でかたくなでと。
  不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。そうでなくても良かったはずなのに、大勢ではなく、ごく少数。格別に賢く優秀な強い者たちがではなく、ごく普通のどこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが、神さまからの招きを受け取りました。また、そのことをよくよく覚えておくようにと度々うながされました(申命記7:6-11,8:17-20,9:4-5,コリント手紙(1)1:26-31。立ち塞がる圧倒的多数の強大な者たちを前にして、彼らは、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさを痛感させられました。「自分は強い。豊かで賢い。自信がある」と思っていた者たちも同じ目にあわされました。何度も何度も打ち砕かれ、みじめさと心細さをつくづくと味わされました。「なんて弱く、ふがいない私か。あまりに小さくふつつかで、もろい私だ」と。あのペテロのように。それは一体、なぜでしょう。罪深くあまりに弱い私たち人間を、けれど神さまは愛して止まなかった。私たちを徹底してゆるすために、その弱さと貧しさをよくよく知ってくださるために、どこまでも見捨てず見放さないでいてくださるために、そのために神ご自身である救い主イエスが身を屈めねばなりませんでした。救い主イエス・キリスト。この方は恥を受け、軽蔑され、ツバを吐きかけられ、捨て去られ、十字架の木の上に生命さえ投げ出しました。その鞭打たれ、槍で刺し貫かれ、引き裂かれたからだと、そこで流し尽くされた尊い血潮が、私たちの目の前に差し出されています。いま崖っぷちに立たされているこのペテロのことでは、気を揉んだり、心配してあげる必要は何もありません。なぜなら、やがてペテロは良い羊飼いである救い主イエスのもとへと無事に連れ戻されてゆくからです(ヨハネ福音書10:11-18,21:15-19,ペトロ手紙(1)2:25。そのことは、また別のときにお話しましょう。私たち自身や私たちの大事な家族、友人たちも、あの彼のように聖書の神さまを信じて生きることの崖っぷちに立たされる日々が来るでしょう。恐ろしくて、心細くて心細くてしかたのない日々がやって来るでしょう。そのとき、主イエスへの信頼が保たれるのかどうか。他のモノへの信頼や恐れの中に紛れ込んでしまわないかどうか。なにしろ主イエスへの全幅の信頼。それこそ、私たちにとっての肝心要、また生命線でありつづけます。

 主の弟子ペテロは、この時までは、《わたしは弱い》などとは思っていませんでした。誰かほかの人たちのことを言っているのだろうと高をくくっていました。弱くてふつつかな人間は世間に大勢いるとしても、この自分だけは例外だ、別格だと。あの十字架前夜に泣いた時までは、そう思っていました。けれど突然に鶏が鳴きました。「そんな人は知らない。会ったこともない。何の関係もない」とシラバックレテいるうちに。彼は外に出て、激しく泣きました。ここにいるこの私たちにも、鶏が鳴く時が来るのでしょうか。主イエスを知らないと言い、外に出て泣くときが来るのでしょうか。
  その通り。もちろん、私たちのためにも鶏が鳴く時が来るでしょう。もしかしたら明日か明後日にでも。さて、ほんの少し前に、主イエスご自身がはっきりとおっしゃいました。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」(マタイ10:32-33。確かに、そう仰った。で、その通りなのですか? いいえ、そうではありませんでした。1500ページものこの分厚い書物を隅から隅まで調べて確かめてみなければ分かりませんか。いいえ。主イエスがどんな方で、何をしてくださったのか。自分の胸に手を当てて、私たちをこれまでどう取り扱ってくださったのかを思い出しさえすれば、誰にでも分かります。しかも、「主イエスなど知らない。会ったこともない、赤の他人だ」と言い張りつづけた、あの主の弟子ペテロを知っているのですから。ペテロを、主イエスがどのように取り扱ってくださったのかをよくよく覚えているのですから。主は、あんな彼を、見捨てることも見放すこともなさいませんでした。びっくり仰天です。そこで十分に驚いてびっくり仰天した人々なら、「人々の前で私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」という恐ろしい言葉を聞いても、青くなったり黄色くなったり赤くなったりはしません。だって、なにしろ主イエスを信じて、このお独りの方に信頼を寄せて生きてきた私たちですから。では質問。「人の前でわたしを拒む者、知らないと言う者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むし、私もその者を知らないと言う」とは、どういうことですか。その通りですか。主イエスもその人を知らないと仰るのか、そうではないのか。
 自分の子を愛して止まない親のような神さまでありつづけます。大切に思っているその子のために、かなり厳しい言葉を何度も何度も告げねばならないとしても、それでもなお、語った通りに「知らない。もう今日からは親でもなければ子でもない」と主は見離してしまうのか。いいえ、そうではありません。分かりますか。情け容赦のないその厳しい言葉と、その心の中とは裏腹です。ですから、どんな神さまなのかをよくよく習い覚えてきた人にしか、聖書を安心して適切に読むことはできません。あなたは、どんな神さまなのかを知っていますか。どういう神さまだと習い覚えてきましたか? 私たちの主なる神は、私たちの弱さをよくよくご存知でした。知っているどころか、他ならぬこの神ご自身が私たちを、弱く脆く、限界ある存在としてお造りになりました。人は、土の塵から造られたのです。あなたも土の塵から造られたのだし、この私もそうです(創世記2:7,3:19,90:3,103:14,104:29-30,ヨブ10:9,伝道の書12:7,エゼキエル書37:9。堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人間など誰一人もいませんでした。しかも、その弱く危うい壊れモノのような私たちのために、主はいったい何をしてくださったでしょう。あのペテロのために、何をしてくださったでしょう。「主イエスなど知らない。私には何の関係もない」と繰り返し偽り、そのふがいない自分に絶望して泣いたペテロを、けれども主は、見捨てることも見放すこともなさらなかった。あの大声で泣いて闇の中に駆け去っていった場面が、彼の生涯最後の場面ではありませんでした。主はペテロを、あの暗がりに放置することはなさいませんでした。彼はゆるされ、再び抱え起こされ、神の恵みのもとへと連れ戻されます。ペテロだけではありません。「聖書は主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折をくりかえして報告してきた」と先程話しました。こう言い直さなければなりません。『弱さをさらし、つまずいて挫折する度毎に、けれども彼らはゆるされ、忍耐され、助けられ、支えられつづけた。倒れる度毎に、抱え起こされつづけたのだ』と(マタイ27:3-,使徒1:18,創世記9:18-,12:10-,20:1-,26:1-,出エジプト記16:1-,17:1-,民数記11:10-,21:4-,サムエル下11:1-,列王上11:1-,ルカ22:47-。ペテロもユダも同罪でした。ここにいるこの私たちもまったく同じです。もし、ゆるしと憐れみの神さまに出会うことが出来なければ、私たちもふがいない自分自身に絶望し、「偽善者め」と自分で自分を裁き、自分自身で自分を滅ぼしてしまうほかありませんでした。あのユダのように。けれど神は、私たちを憐れんでくださいました。その憐れみはあまりに深かった。

              ◇

 だから今日こそ、私たちは頑固な心を脱ぎ捨てることができます。「私が私が」と、言い張りつづけなくても良いと知らされた私たちです。「私の願いや他誰彼の考えや好き嫌いではなく、ただただ神さまの御心をこそ成し遂げてください」と願い求めつづける私たちです。主イエスを通して神さまにこそ服従し、神さまに対して従順であり、それ以外のモノに縛られず、屈服しないでいられると。ただ口先で言うばかりでなく、心でもそれを感じ取り、理解し、受け入れることのできる私たちにされていきます。神さまがそれをしてくださるからです。そのようにして神さまは、私たちクリスチャンに自由と平和と真理とを贈り与えてくださるのでした。もし誰かが、「イエスこそ主である」と人々に向かっても自分自身の魂に向かっても告げ知らせ、「私は主イエスに聴き従って生きる」と腹をくくり、「イエスこそ私が歩んでいくためのただ一本の道筋、受け取って生きるべき一つの真理、一つの生命である。ああ本当に」とつくづく思い知らされるとするならば、そのとき、その人にいったい何が起こったのでしょうか。そのとき、その一人の人のために、いったい誰が、何を、したのでしょう。神さまが、その一人のためにも、すべてすっかり成し遂げてくださいました。その人自身が難しい本を何冊も読んだからではなく、先輩の誰かや伝道者に丁寧に熱心に教えられたからでもなく、その一回の礼拝が素晴らしく感動的だったからでもなく、ただ、神さまこそがその人に教えてくださったのです。兄弟たち、分かりますか? 
主イエスの弟子ペテロもそうでした。無学な、教養にも知識にも乏しかった、あのごく普通の人間がどうして「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ福音書16:16と告白できたのか。トマスもどうして、「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ福音書20:28と主イエスの御前に喜びにあふれて膝を屈めることができたのか。その頑固で疑い深い人にさえも、神さまご自身が教えてくださったからです。神さまこそが私たちの頑固な心を打ち砕いて、膝を屈めさせてくださったからです。悲しみ嘆く私たちの心に、神さまこそが、再び喜びと感謝を贈り与えてくださったからです。そのように憐れみ深く取り扱われつづけて、それで、こうして私たちは今日あるを得ております。祈りましょう。