みことば/2018,4,1(イースターの礼拝) № 156
◎礼拝説教 使徒行伝 8:26-40 日本キリスト教会 上田教会
『よろこびの旅路』
8:26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、
エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてて いる)。27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピ ヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官である エチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、28 その帰途についていた ところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。 30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の 声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ね た。31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりま しょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポに すすめた。32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、
「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、
毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。
33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。
だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、
彼の命が地上から取り去られているからには」。
34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれの
ことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人の ことですか」。35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエス のことを宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官 が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんの さしつかえがありますか」。37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごこ ろから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は 「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕38 そこで 車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが 宦官にバプテスマを授けた。39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポを さらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこ びながら旅をつづけた。 (使徒行伝 8:26-39) |
26-31節。エチオピア人の宦官は、礼拝に出かけて行くときにも帰るときにも、「荒れはてた道。さびしい道」(26節)を通っていました。彼が歩いて生きてきた道それ自体が、「荒れはてた道。さびしく心細い道」でした。ところで、「宦官(かんがん)」という職業を知っていますか。その人は国中の全財産の管理をします。大きな権力と特権と財産を一手に握ります。何でも思い通りにできます。女王さまに仕える総理大臣、兼財務大臣、兼国務大臣というわけです。だから、『国をすっかり奪い取って自分のものにしてしまおう』などと悪い考えを抱かないようにと、大事な所をチョン切られて、子供や家族を持つことがしずらいようにされました。それが宦官です。何でも手に入り、何でも思い通りになり、けれども彼は、埋め合わせのできないほどの寂しさや心細さを抱えて生きるのです。何を喜びや支えとして、どうやって生きてゆこうか。何のために生きていけるだろうと。だから、この1人の人も神さまを心底から求めました。遠いエルサレムに礼拝に来て、その帰り道、馬車に乗りながら、聖書を読んでいました。声に出して大きな声で読み上げていたのは、書いてあることが簡単にスラスラ分かったからではありません。つっかかり、引っかかりしました。度々、首をひねり頭を抱えました。なんだかピンと来ないから、だからこそ、そこに書いてあることをぜひ自分も理解したいと願って、それで大きな声で。イザヤ書の53章を彼は読んでいました。馬車の後ろから追いかけてきて、その彼に声をかける者がありました;「もしも~し、ちょっとオ、あなたは読んでいることがお分かりですか?」「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして分かりましょう。分かるはずがないじゃないですか」と宦官は答えました。「さあ、私の横に座って、この私に手引きをしてください。頼みますよ。ちゃんと分かるように、腹に収まるように、聖書をはっきり説き明かしてください。さあさあ」。そのようにして、宦官のためのキリスト教入門講座、あるいは洗礼や信仰告白の準備会が始まりました。
きっかけはイザヤ書53:1-13。それで、この箇所と並べて、今日はごいっしょに読みました。あの日のあの宦官と同じように、私たちも、これまで何度も何度もこの箇所を読んできました。私たちも、あの日のあの宦官と同じく質問します;「お尋ねしますが、ここで預言者は、誰のことを言っているのですか」(34節)と。すると、主の弟子は口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについての福音を、イエスが差し出しておられる福音の全体を彼に告げ知らせました。それじゃあ、私たちも尋ねましょう。小羊のように命を取られた独りの方があった。それは、いったい誰について語られているのか。それでもなお、なかなか自分自身を省みることをせず、自分のことをすっかり棚上げしており、ついつい小さな評論家のような気分でいる私たちです。「誰のことを言っているのですか」。もちろん、救い主イエスのことです。しかもその救いの御業は、こんな私のためでさえあった。もし、それを知るなら、その1回の聖書の説き明かしはその人の役に立ったことになります。その人自身を救い出しつづける信仰が芽生えてスクスクと育ちはじめるかも知れません。誰のことを言っているのか。《救い主イエスのことである》《多くの人々のための主イエスの福音である》;いいえ。それを知るだけでは、まだまだ不十分です。ぜんぜん足りません。《救い主イエスのこと。多くの人々のためであるだけでなく、この私自身をも罪と悲惨から救う福音である》と知るのでなければ、その1回の聖書朗読も、説き明かしも礼拝も、ほとんど何の意味もありません。だから私たちも、聖書のどのページを開き、どの箇所を読むときにも、「誰のことか? まさか、それは私のことでは」と同じく問いかけます。「世間の人々は。一般的に人間という者は。今時の若者たちは」と涼しい顔をして、分かったような顔をして解説している私たちです。あの人やこの人がかなり主に背いており、あの彼は不十分でいたらない、などと思っています。けれどその一方で、この自分自身がとても罪深いとも、神さまにも隣人にも家族にもはなはだしく背いているとも、正直な所あまり思っていません。例えば、あの最後の食事の席で主イエスから「ここに、あなたがたの中に、私を裏切る者がいる」と告げられたとき、初めて心が痛みました。「まさか、それは私のことでは」「私のこと。あなたでしょう」「もしかして私のことですか」。例えば最初の聖霊降臨日に、「はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またキリスト(=救い主)となさった」と告げられて、自分自身の胸を深く突き刺された人々が、「私たちはどうしたらいいのですか」と問いかけました。「まさか、私のことでは」と私たちも折々に自分自身に問いかけ、「どうしたらいいのか」と同じく問いかけます(マルコ14:19,使徒2:36-39)。この私のためにも確かにある主イエスの福音をこの手に確かに受け取るまで、私たちは問い続けます。まさかそれは私のことではと。あの方を軽蔑し、無視していたのは、それは私ではないか。彼が打ち砕かれ刺し貫かれたのは、それは、この私のためではなかったか。彼が担ってくださったのは、この私自身の過ちと背きではなかったかと。あの彼を屠り場に引いてゆき、あの彼の毛を刈り、彼をひどくはずかしめつづけている。それは、もしかしたら私のことでは、と。どうしたらいいのかと。
36-40節を読みましょう。馬車を止めて道端の川で、あの宦官は洗礼を受けました。「ここに水があります。私が洗礼(=バプテスマ)を受けるのに、何の差し支えがありますか」。質問しているわけでもなく、同意を求めているのでもありません。問うまでもなく、もちろん誰もそれを妨げることはできないし、妨げることは誰にも許されません。1人のクリスチャンがこうして誕生しました。誕生しつづけます。洗礼は入口であり、出発点です。まだ洗礼を受けておられない方が、やがて洗礼を受け、この差し出されている格別な恵みにあずかる日が来ることを、私たちは願っています。他の誰より、神さまご自身こそが、そのあなたのためにも心から願っておられます。洗礼を受ける、神さまを信じて生きはじめるということは、難しい試験に合格することとはだいぶん違います。「信仰がほぼ合格点に達した。これくらいなら、いいんじゃないか」という合格証書でもありません。洗礼を受ける、また小児洗礼を授けられていた者がやがて信仰を言い表し、大人のクリスチャンの仲間入りをするということは、「救い主イエス・キリスト。この方を本当に信じて生きていこう。生きていきたい」という願いを明らかにすることです。そこから、主イエスを信じて生きる暮らしが始まっていきます。『主イエスを信じて生き始めよう』という決断を神さまの前でも人々の前でも隠さず表す。パンと杯を受け取る心構えも、これと同じです。私のために十字架を負って、まったくの無条件で、こんな私のためにさえ救いを準備してくださったイエス・キリスト。このお独りの方を信じて、受け止めること。これだけが信仰告白や洗礼に向かってゆく、私たちの側の備えです。
私たちはあの宦官のように洗礼を受けて、クリスチャンとしていただきました。その前と後とでは、私たちの生活や私たちの歩む道は変ったでしょうか。それとも同じでしょうか。変わったところもあり、変わらないところもある。寂しい、荒れ果てた道から、賑やかな舗装道路に変わったでしょうか。何不自由ない平穏で安楽な、恐れも不安も悩みのない道へと変わったでしょうか。いいえ、そうではありません。同じく、心細さがつきまとい、荒れ果てたものがしばしば道を塞ぎます。「どうしたらいいだろうか」と溜息をつき、頭を抱えることがしばしばある道ですね。「ああ。こんな時にピリポ先生がなお留まっていてくれたら」、と正直なところ思います。それでも、エチオピア人の宦官たち。愛情深く親切なピリポや、力強く責任感あふれるピリポ先生がたとえ10人くらいいて朝も昼も晩も聖書を明快に説き明かしてくれたとしても、それが40年くらい続いたとしても、それでもなお私たちは満ち足りることができません。「夜だ。暗闇だ。真っ暗闇だ」とつぶやき続けるでしょう。だからこそ私たちは、日曜日の度毎に新しく礼拝へと向かいます。水曜日の度毎に祈祷会へと向かいます。声に出して、一言一言を噛みしめるようにして聖書を読みます。読んでいることがスラスラ分かるからではなく、そうではなく、ぜひ分かりたいと願うからこそです。語りかけてくる神さまと親しく出会いたいと願うからこそ、私たちは、ますます一途に祈り求めます。そうした祈りの格闘の只中で、私たちは、ついに手引きしてくれるものの声を聞き分けます。イエスと私たちについての福音を告げ知らせてくれるものの声を、とうとう腹に収めます。1回の礼拝の中で、1回の祈りの中で、あるいは聖晩餐のパンを食べ、杯を飲み干しながら、1人のキリスト者は不意に気づきます。かつて神の民ではなかったこの私が、不思議なことに、今や神の民とされている。神の民の一員としていただいた。かつては、憐れみなど受け取らなかった私たちが、今や、神の憐れみを受け取り(ペトロ手紙(1)2:10)、ただ受け取っただけではなく、それを大切に抱え込んでいる。「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」としみじみ味わい、喜び祝い、深く感謝さえしている。望み得る材料が手元にほんのわずかしかない現状の中で、なお主にこそ望みを置き(ローマ4:18)、信頼を寄せています。
◇ ◇
エチオピア人の宦官たち。読んでいることがお分かりになりますか? しかも、クリスチャンとされたあなた自身こそが、今では伝道者ピリポの役割を担わされています。え? びっくりしないでください。ほら、あなたの前に心寂しい宦官たちが待ち構えているではありませんか。手引きを求めて。それぞれの現場で、子供たちの前で、あるいはそれぞれの家族を前にして、職場や町内で、この自分が何をどうすべきか分かりますか。もちろん分かりますね。だって、なぜなら、あなた自身のための神さまご自身からの手引きが続いているからです。手引きされ続けている私共だから、私たち自身が誰かを手引きしてあげることもできます。していただいてきたように、誰かにしてあげることもできます。じゃあ試しに、こう言いはじめましょう;「私たちを見なさい。この私のことも、よくよく見てください」と。「私たちには金も銀もない。たいした賢い私ではないし、格別に物知りな私でもない。何か優れた立派なものを持っているというわけでもない。けれど持っているものを、あなたにもあげよう。ナザレのイエスを。この、ピカイチの、飛びっきりに素敵なおかたをあげよう。ぜひあげたい。ナザレの人イエスの名によってあなたも立ち上がり、あなたも歩きなさい」(使徒3:6)。「手引きしてくれる者がいなければどうして分かるでしょう。分かるはずないでしょう」と、あなたの大切な家族が言っています。あなたの愛する夫が、妻が。あなたの愛する息子や娘が心底から訴えています。あなたがとても大切に思っている1人の友達が。倒れた者も、つまずいている者も、疲れて弱り果てている者も立ち上がり、そこから改めて歩き始めなさい。あなたにだって出来ます。なぜなら、この私たちだってそのように、ただただイエスの名によって立ち上がり、そのように歩き始めたからです。立ち上がりつづけ、イエスの名によってこそ歩きつづけています。それで、だからこそ私たちはクリスチャンです。《ナザレの人イエスの名によって》;それは心強い。それは広々している。それは豊かであり、晴々清々している。ナザレの人イエスの名に望みを置き、ナザレの人イエスの名によって歩く私たちです。一足、また一足と歩き続ける私たちです。喜びと希望にあふれた旅路が、またここから始まってゆきます。