2018年12月28日金曜日

12/23こども説教「自分の力によってではなく」使徒行伝3:11-16


 12/23 こども説教 使徒行伝3:11-16
 『自分の力によってではなく』

3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。       (使徒行伝 3:11-16


  足の不自由な男と、主の弟子たちは出会いました。最初には、弟子たちは「私たちを見なさい」3:4と言っていたのに、けれど今度は正反対に、「なぜ私たちを見つめているのか。見るべきところが違うでしょう」と言い始めます。じゃあ、どうしたらいいのでしょう。困りましたね。12節、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか」。そして15-16節、「神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである」。この不思議なことをしたのは、何から何まで全部、ただ神さまがしてくださった。だから せっかく目を凝らして見るなら、神さまにこそよくよく目を向けたらいいじゃないか。そのとおりです。ですから私たちもあの彼らと同じように、まず「私たちを見なさい」と言い、次には「違う違う。私たちや他いろいろの素敵な大きな立派そう見える人々をではなく、神さまにこそよくよく目を向け、ただただ神さまにこそ聞き従いなさい」と語りかけつづけます。他の人たちに言ってあげるだけではなく、まずむしろ自分自身にこそ、よくよくそう言い聞かせつづけます。そうでないと、神さまを信じているつもりで、けれどいつの間にか別の何かや人間たちを信じてしまうかも知れないからです。神にこそ聞き従うのでなく、神ではない別のモノの言いなりにされてしまうかも知れないからです。


12/23「大きな喜びが与えられる」ルカ2:8-20


                 みことば/2018,12,23(クリスマス礼拝)  194
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:8-20                          日本キリスト教会 上田教会
『大きな喜びが与えられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。  (ルカ福音書 2:8-20)

  今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、1人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけではなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和と幸いをもたらす。と聖書は語ります。さて、それならこの嬉しい知らせを、誰が真っ先に耳にしたでしょう。8節。それは羊飼いたち、そして羊たちです。羊って、どういう生き物でしょう。他の動物と比べてみると、羊がどういう生き物なのかが少し分かります。生き物には、それぞれ自分の身を守って生き延びてゆくための武器や道具が与えられています。けれど羊には、熊のような強い腕もなく、するどい角や牙があるわけでもなく、逃げ足が速いわけでもなく、ウサギのように何でも聞き分ける良い耳があるわけでもありません。とても弱くて、あまりに無防備な生き物です。それで強い腕や角や牙や良い耳や速い足の代りに、羊には愛情深い良い羊飼いがいてくれます。羊が安心して晴れ晴れとして生きてゆくためには、ただただその羊飼いだけが頼りです。さて、弱くて心細いのは羊ばかりではありませんでした。その世話をする羊飼い自身は社会の一番底辺に暮らす貧しい人たちです。生活もとても不安定て、先の見えにくい心細い暮らしです。彼らはしばしば疲れ果て、がっかりして落胆しました。羊たちに草を食べさせながら、山や谷をめぐって旅をするように生きる。悪天候の日々があり、野の獣たちが羊を狙って襲いかかってきます。羊ドロボウも闇に紛れて忍び寄ります。羊飼いたちは羊を守って寝起きを共にし、寒空の下で野宿もし、眠い目をこすりこすり夜通し番をして生きるのです。実は私たちも、彼らの労苦や心細さを知っています。小さな子供たちも若者も、家族を養って暮らす父さん母さん達も年配の人たちも。危険な旅をしつづけて野宿をするように、夜通し寝ずの番をするようにして、私たちは家庭を守り、家族や自分自身を養って生きてゆきます。「山の向こうの次の土地には良い草がたくさんあるだろうか。うちの羊たちときたら『この草はまずい。固くてスジっぽい。少なすぎる。食べ飽きた。ほかの、上等な草を。もっとうまい水を』などとブツブツ文句ばかり言う。さあ困った。今日は、あの羊たちに何を食べさせてやろうか。熊や狼は襲ってこないだろうか。これから、どうやって私たちは暮らしていこうか」と心を砕いて、しばしば深く思い煩いながら生きています。私たちと、この羊飼いとは、すると、なんだかよく似ていますね。
 天使たちは「恐れるな」と告げました。恐れつづけてきた彼らでしたし、恐れるべきことが山ほどあります。「恐れるな」;それは、《恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう》という神さまからの招きです。神さまからの約束と招き。この救いの約束を私たちは信じて生きることをし始めました。だから、私たちはクリスチャンです。
 10-12節。民全体に与えられる大きな喜び。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくはありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」といじけて下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。「すべての民に与えられる、みんなのための喜び」。しかもそれは、あなたのためにも用意されている、というのです。《神を知ること》は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも明け渡されます。それで教会の入口脇の案内板には、『誰でも自由に来てみてください』と、いつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられます。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招きます。
 キリストの教会とは、何者でしょう。クリスチャンとは、いったい何者でしょうか。もちろん、何者でもありません。ただ、「恐れるな」という神様からの呼びかけを聞いた者たちです。「恐れるな」と告げられて、恐れている自分に気づかされ、恐れるほかない山ほどの事柄に取り囲まれた、とても心細い自分であることを突きつけられ、「恐れることのないあなたとしてあげよう」というその神様からの約束を信じた者たちの集団です。「大きな喜び」と語りかけられ、そこで、自分がそれまで拘っていた喜びや恐れが案外にちっぽけな安っぽい、コロコロと移り変わってゆくあまりに不確かな喜びや恐れだったじゃないかと突きつけられた者たちです。例えば1人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい一人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい一人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。上がったり下がったりし、満足したり不満に思ったり、安心したり心配になったり、一喜一憂しつづけてきた私たちです。「恐れることにないあなたとしてあげよう。自分が恐れないばかりか、他の誰をも恐れさせたり、恥じ入らせることのない晴れ晴れとしたあなたとしてあげよう」「自由な、広々とした世界に連れだしてあげよう」「朽ちることのない、虫に食われたり、泥棒に盗まれたり、しぼんだりしない平和と喜びとを与えよう」と告げられて、その招きに応えて生きることをし始めた者たちです。差し出されつづけてきた、その招きの声を腹に収め、差し出されつづけていた神さまの御手を握り返す者たちがいます。「どうぞよろしくお願いします」と。そのようにして、世界中のあちらこちらで、1人また1人と、クリスチャンが生み出されていきます。新しくクリスチャンとして生きることをしはじめようとするその人をご覧ください。彼は、いったい何者でしょうか。『誰でも自由に来てみてください』と招かれ、その招きを受け取った人です。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひと招かれ、なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招かれ、「はい。どうぞよろしくお願いいたします」と、ワクワクしながら、喜び勇んでその手を握り返した人です。その人の、その願いはかないます。神さまが、その人のためにも成し遂げてくださるからです。
  天使たちは言いました、12節、「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。御使いたちとともに天の軍勢が神を讚美して歌います。14節、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。他の何よりも高いところで、神に栄光がある。そのことと、地上の私たちが毎日の生活を生きるこの世界に平和があること。それは1つの出来事です。世界のすべてをお造りになった神にこそ信頼が寄せられ、神さまこそがほめたたえられ讚美され、神の御心にかなってぜひ生きていきたいと願う者たちが一人また一人と起こされてゆく。やがてこの赤ちゃんが、救い主イエス・キリストが、弟子たちにどのように神に祈るのか、どのように毎日を暮らしてゆくことができるのかを教えました。救い主イエスがおっしゃいました。こう祈りなさい、「天におられます父なる神さま。願い求めます。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの国をこの地上に来らせてください。あなたの御心にかなうことが天の高いところで成し遂げられるばかりではなく、この地上に、世界中に、私たちが生きる毎日の暮らしの只中にさえも着々と成し遂げられてゆきますように。この私自身も、自分や他誰彼の考えや思いに従ってではなく、ただただ神さまの御心に聞き従って生きることができますように」(「主の祈り」前半3つの願い。ルカ福音書11:1-4参照)。だからこそ、そこで生み出されていく喜びはほんの何人かのものたちだけの喜びではなく、分け合ったり、手渡されたり、差し出されたりしつづけて、多くのものたちのための大きな喜びとされてゆきます。だからこそ、その喜びの知らせは恐れつづけて生きてきたもっとも貧しい心細い者たちに、羊たちを守って暮らす羊飼いたちに真っ先に告げ知らされました。そこから、大きな喜びの知らせが告げ知らされつづけ、末広がりに広がってゆくように。なぜなら、強がって見せても、誰もがみな心細く暮らしているからです。互いに恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりしつづけて暮らしているからです。恐れない私たちとされ、何者をも恐れることなく、誰かを恐れさせることもなく、互いを喜び合って心安く生きる私たちとならせたいからです。それが、神さまご自身の願いです。

             ◇

 20節です。見聞きしたことがすべて語られたとおりだったので、あの彼らは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。帰っていった。どこへでしょう。自分の家へです。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。「なんだ。帰ってしまったのか」と馬鹿にしてはいけません。見くびってはなりません。帰っていったそれぞれの場所で、そこで、いよいよ神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。ゆるされがたい多くの背きをゆるされ、受け入れがたいふつつかさを、身勝手さやかたくなさを、けれどなお受け入れていただいた私たちです。それで、だからこそ、こんな私たちさえここにいます。貧しさもいたらなさも、それはお互い様でした。貧しく至らない者同士です。確かに。また、だからこそ恵みとゆるしのもとにある平和を積み上げ、築き上げていくための悪戦苦闘が、今日ここから、いよいよ始まっていきます。私たちも、安心して神さまに向かって呼ばわります。「助けてください。どうか支えてください」と。一緒に生きるあの小さな羊たちと共にです。神様に向けて「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」と感謝や願いを噛みしめます。あの大切な羊たちと共に。
 山や谷を巡り歩く旅路は、まだなお続きます。ここで忘れてはならないことは、この旅路は主が群れの先頭を進み、しんがりをまもって共に歩んでくださる旅路であるということです。「主は羊飼いとしてその群れを養い、その腕に子羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ書40:11,52:12参照)





12/16こども説教「金や銀はないが」使徒行伝3:1-10


 12/16 こども説教 使徒行伝 3:1-10
 『金や銀はないが』

     3:1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。7 こう言って彼の右手を取って起してやると、・・・・・・9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。(使徒行伝 3:1-10


主イエスの弟子たちが祈るために神殿に入ろうとしました。すると、神殿の入口のところに足の不自由な男が抱えられてきました。彼は毎日そこに運んできてもらって、入口に置かれ、出入りする人たちからお金や食べ物を恵んでもらって、それで生活していました。彼は主イエスの弟子たちにも、「何か食べるものやお金を恵んでくれませんか」と声をかけました。弟子たちは答えました、4-6節です。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。金や銀はないけれどというのは、それだけでなく、このかわいそうな人を助けてあげられるような、何か役に立つ良いものをほとんど何ももっていないということです。
けれど主イエスの弟子たちは、お金や食べ物などよりも千倍も万倍も役に立つ、その人を本当に助けて支えてくれる、飛びっきりの格別に良いものを持っています。主イエスの弟子であるなら誰でももっていて、もちろん私たちもその同じものを持っています。だからこそ、「私たちを見なさい」と語りかけたのです。「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。救い主イエスを信じる信仰です。その信仰によって立ち上がったり、歩いたり、毎日を暮らしていったりすることです。それで、あなたも立ち上がれるし、歩くことさえできる。この私たち自身も そうやって立ち上がらせていただいた。歩きまわったり、毎日を暮らしたりしている。それは、とても心強い。それはとても嬉しくて安心。それは元気や力や生きる勇気も湧いてきて、とても晴れ晴れしている。「もし良かったら、あなたもどうぞ」と差し出しました。


12/16「家畜小屋のエサ箱の中に」ルカ2:1-7


        みことば/2018,12,16(待降節第3主日の礼拝)  193
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:1-7                    日本キリスト教会 上田教会
『家畜小屋のエサ箱の中に』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。 (ルカ福音書 2:1-7)


  今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけではなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和をもたらします。この方こそが、私たちが幸いに生きるための飛びっきりの格別な王様になってくださった、と聖書は語りつづけます。
  まず1-3節。「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った」。そもそも、このイスラエルのとても小さな国は、アフリカ、アジア、ヨーロッパ世界を結ぶ交通の要所にあり、中心点にありました。アッシリヤ、バビロニヤ、ペルシャ、ローマといった世界を支配した超大国が次々にこの地域に襲いかかり、入れ替わり立ち代り支配したのは、この地域を手に入れることができれば、世界支配を揺るぎないものとすることができたからです。そうした支配者たちが自分たちのものとしたすべての植民地の人口調査を命令するのは、彼らの利益のためであり、権力と支配を確かなものとするためであり、具体的には自分たちの国を豊かにするための税金をそれらの植民地から集めるためです。時にはその名簿をもとに、強制的に兵隊たちをかき集めたりします。もちろん人口調査は社会のため人々のために、良いことに使われる場合もあります。どれくらいの数のどんな人々がどういう暮らしをしているのかとつぶさに調べて、その人々が健康で文化的な最低限度の生活を保障され、人権と人格を重んじられて、安全に幸いに暮らしているのかどうかと心を配り、配慮し、必要なだけ十分に手を差し伸べて、共々に幸いに生きるためにその調査が用いられるなら、そうであるならば、それはとても良い人口調査だと言えるでしょう。けれども、そうではない場合も多いでしょう。大きな権力を握った支配者たちは、ただ自分たちの利益と好都合のために、彼らの労働力を安く便利に利用し、人手不足の現場でただモノや道具のように使い捨てにし、無責任に無慈悲に踏みつけつづけるかも知れません。例えば日本の、とても評判の悪い外国人技能実習制度、それに伴う出入国管理法改正のようにです。恥ずかしいことですが、わが国の外国人技能実習制度は、長時間労働や賃金の不払い、雇用主による暴力など、数々の人権侵害の温床となってきました。国際貢献、実習生の技能習得と、そのふるさとの国々の発展のためなどと聞き心地のよい美しい看板を掲げながら、この国の政府と私たちの多くは、使い勝手の良い、安い労働力としか見なしていません。「そんなひどい仕打ちは止めなさい。好き勝手にコキ使い、搾り取りつづけるだけの奴隷扱いは止めなさい。彼らもあなたがたと同じ人間なんですよ。心が少しも痛まないんですか。目を覚ましなさい」と国連人権理事会、国際労働機関、日本弁護士連合会などからも度々きびしい勧告と指摘を受けています(本文末尾に注)状況はますます悪化してゆきます。もし見過ごしにしつづけるならば、この私たちにも大きな責任があります。しかも外国人労働者とその家族ばかりではなく、多くの日本人もまた過酷な労働条件、不安定で心細い生活環境の中に据え置かれつづけています。さて、ここでも、超大国のきびしい支配が及ぼうとするとき、そこに神さまからの憐れみと救いの手が差し伸べられます。喜びの知らせを最初に告げ知らされたのは、羊飼いたちでした。しかも、その彼らは社会の片隅の、もっとも低い底辺に心細く暮らす人々でした。
  やがて主の御使いたちが羊飼いたちに語りかけます、12節、「あなたがたは幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」と。それが私たちのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この一人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。神さまは、私たちのことが大好きです。あなたのこともとても大好きなのです。だから、どんどんどんどん近づいてきてくださった。分かりますか。夫婦や親子、また友だち同士も同じでしょ。もし、仲良しで大好きなら、いっしょにいることができればどんなに嬉しいでしょうか。神さまは私たちに近づいてきて、一緒にいようと願ってくださった。ぜひ一緒にいたいと。それで低くくだって、生身の赤ちゃんの姿で来てくださったのです。例えば一人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい一人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい一人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。それで、うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。けれど主はおっしゃるのです、「あなたは大切な人だ。あなたの価値に私は気づいている。ちゃんと認めている。他の誰も気づかなくても、誰一人として認めてくれなくたって、私こそがあなたに目を留めている。大事に思っている。でも、あなたはそれでは不服か? 物足りないのか?」。「誰にも理解されず、誰もそばにいてくれず何の支えも見出せない孤独は、確かにある。これまでにもあったし、今もこれからもある。その通りだ。けれども私はあなたを理解し、あなたのすぐ傍らに立ち、あなたを支える。あなたがどんなに遠くに離れていっても、見なさい、そこに私はいる」。「あなたを見放すことも見捨てることも、この私はしない」と主はおっしゃいます。
 もうずいぶん昔のことです。遠い外国に住む誰かが、こういう詩を書いて、子供や大人たちに読んで聞かせました。『子どもは習い覚える』という詩です――

 子どもは、批判ばかりされて育つと人をけなす者になる。
いがみあいの中で育つと力づくで奪い取る者になる。
からかわれて育つとオドオドする者になる。
馬鹿にされて育つと卑屈にいじけるようになる。
ねたみに囲まれて育つと人をねたむようになる。
けれども子どもは、支えと励ましを与えられて育つと満ち足りて喜ぶ者になる。
正直さと公平さを見て育つと真実と正義を愛する者になる。
励まされて育つと自信を持つ者になる。
ほめられて育つと人に感謝する者になる。
存在を認められて育つと自分が好きになる。
努力を認められて育つと目標をもって生きる者になる。
気前よく分け与えられて育つと、同じように、気前よく分け与える者になる。
静かな落ち着きの中で育つと平和な心を持つ者になる。
守られて安心して育つと、自分自身を信じ、他の人のことも信じられる者になる。
まわりから受け入れられて育つと世界中が愛であふれていることを知る者になる。
                    (『子どもは習い覚える』ドロシー・L・ノルテ)

  そうそう、せっかくだから、一つ質問しましょう。素敵な良い贈り物を誰かにあげるのと、素敵な良い贈り物を誰かから貰うのと、どっちが好きですか? 素敵な良い贈り物を誰かにあげるのも、素敵な良い贈り物を誰かから貰うのも、どっちも、とても嬉しいですね。誰かに贈り物をして、すごく喜んでもらったことがありますか。じゃあ、誰かから素敵な贈り物をもらって、すごく嬉しくて、わーいって大喜びに喜んだことがありますか。聖書は証言します、もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(ローマ手紙8:31-32。「ああ本当に、聖書に書かれていたとおりだなあ。嬉しい、嬉しい」とつくづく喜んだときがぼくにもありました。ええと、あった、あった。あのときと、あのときと、あのときと。
 ・・・・・・思い浮かべてみてください。家畜小屋のエサ箱の中に寝かされた一人の赤ちゃんをごらんなさい。あの、最初のクリスマスの夜の一人の格別な赤ちゃんを。弱い人が強い人を恐れるように、その弱い人は強い神をも恐れるのです。小さな人が大きく豊かな人の前で惨めさを味わうように、その小さな貧しい人は大きく豊かな神様の前でも、惨めに身をかがめるかも知れません。周りにいる強くて豊かでご立派そうに見える人々によって打ち砕かれ、身を屈めさせられてきた人は、神の威厳やその力強さや輝くほどの栄光によっても、打ち砕かれてしまうかも知れません。「人様の前でも神さまの前でも、こんな私なんかはとてもとても恐れ多くて」などと。いいえ そんなことがあってはなりません。だからこそ、この救い主は小さな一人の赤ちゃんの姿で、ただ布切れ一枚にくるまれただけの裸の姿で来てくださったのです。わざわざ家畜小屋の惨めなエサ箱の中に、だからこそ安心してニッコリして身を置いてくださったのです。裸の小さな赤ちゃんを見て、恐ろしくてビクビク震える人はいません。そのニッコリ笑ったり泣いたりスヤスヤ眠っている寝顔を見て、いじけたりすねたりする人はいませんね。やわらかい頬っぺたやその小さな指に思わずそっと触れてみたくなるかも知れません。そうです。慈しみ深い神は、私たちを打ち砕きたくはないのです。私たちに惨めな思いをさせたり、恐れおののかせたくはないのです。むしろ、愛と恵みによって慰めてあげたいと願っておられます。ぜひ力づけてあげたいと願って、そのために、一人の赤ちゃんの姿で来られました。家畜小屋の貧しいエサ箱の中に、わざわざ身を置いてくださった。ですから、もしそうしたいと願うならば、あなたもこの私も、この方を信じて生きることができます。どんなに貧しく淋しい人とも喜びを分かち合おうとし、一緒に生きようとし、そのあまりに救い主イエス・キリストは神である身分を捨て去りました。神であることの華やかな栄光も尊厳も力も、そんなものはもうどうでもいい、要らないと、ポイと投げ捨ててくださいました。ごらんください。それが、馬小屋のエサ箱の中に寝かされた一人の赤ちゃんです。あなたを慰めようとして。
 救い主イエス・キリストがこの地上に降りてきてくださいました。神ご自身の栄光が、いよいよ私たちの目の前に突きつけられました。それはもちろん、神さまの栄光、神様ご自身の素晴らしさのことです。それらは、あの最初のクリスマスの夜の出来事が起こる以前には、私たち人間には思いも浮かばないことでした。だって、それまでは、自分がどれだけ素晴らしいか。周りにいる誰彼が、自分と比べてどれだけ素晴らしいか、そうでもないかと、自分自身と人間たちのことばかりを朝から晩まで考えめぐらせて暮らしていたんですから。なんとつまらない、なんと愚かで惨めな生き様でしょう。けれども、神の正しさや素晴らしさ、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。神の慈しみ深さ、神の知恵と賢さ、それはあの家畜小屋のエサ箱の中にあったのです。つまらない小さな奴だと人から思われているような人を、それから自分勝手で我がままで、偏屈で意固地で、意地悪な一人の人を晴れ晴れとした救いの中へと導き入れることができるほどの、神の素晴らしさです。神さまからも一緒に生きるはずの人々からもはぐれ、戻るに戻れないと呻いていた一人の小さな人を、神の恵みとゆるしのもとへと再び連れ戻すことができるほどの、神の素晴らしさ。神の慈しみ深さ。私たち人間のちっぽけな知恵や賢さ、独りよがりな正しさを軽々と飛び越えていく神の賢さと知恵です。それは、あの家畜小屋のエサ箱の中にありました。


(注)(①国際連合人権理事会の専門家による訪日調査では制度を廃止し、雇用制度に変更すべきと報告された。2009,7,12-17 ②2010,3,31。国際労働機関のフィラデルフィア宣言や総会で採択されている184条約に反している部分がある。アムネスティ・インターナショナル日本支部は技能実習制度を労働力補充の「入口」として、労働者の普遍的権利あるいは基本的人権さえをも制限した使い勝手のいい労働者を受け入れるシステムとして固定化するものとした。「国際規約にもとづく自由権規約委員会、最終見解発表2008,10,31。③「改定入管法・入管特例法、住基法の成立に対する抗議声明 2009,7,8。④日本弁護士連合会は、201210月に東京弁護士会に送付を受けた投書を契機として調査を行い、201411月に、長野県南佐久郡川上村で農業技能実習の監理業務をおこなっていた川上村農林業振興事業協同組合・厚生労働大臣・法務大臣に対して、技能実習生に対する人権侵害があったとして、改善を求める勧告書を提出している。「技能実習生に対する人権侵害についての勧告書(2014,11,28
 ⑤≪緊急声明≫外国人の人権をふみにじる「新たな受け入れ」改定法案を廃廃案とし、包括的な移民政策・人権政策への転換を求める。20181127日 日本政府は「新たな外国人材受け入れ」のため、在留資格「特定技能」の新設と、法務省外局としての「出入国在留管理庁」の設置を図る「出入国管理及び難民認定法」と「法務省設置法」の改定案を閣議決定し、国会に提出した。きわめてずさんな制度設計であるこの改定案に対しては、国会内外で批判されている。問題の核心は、とりあえず受け皿を設けて、外国人を新たに何万人受け入れるかではない。また、その受け皿を精緻なものにするかどうか、ではない。日本国家および日本社会はこれまで外国人をどう受け入れてきたのか、そして今後、どのような多民族・多文化共生社会を構想し具体化するのか、それが問われなければならない。その検証がなされなければ、立法措置ではなく政令・省令によって政府(および経済界)が伸縮自在に受け入れ拡大/縮小・停止できる「新たな入管体制」の下で、外国人に対する人権侵害が続くことになり、日本は国際人権機関からも国際社会からも「人権後進国」として指弾され続けるであろう。それは日本にとって不名誉であるばかりか、これからの日本社会を担う、日本および外国にルーツをもつ青年たちの夢と可能性を阻むことになる。政府は、こうした市民社会のさまざまな取り組みと外国人の声、国際人権機関の勧告を無視して、この30年間近く「外国人管理」を強化する法改悪を重ねてきた。そして今回出された改定案は、その是正と改善ではなく、さらなる管理強化のもとでの「新たな外国人労働者受け入れ」であり、ひいては「新たな入管体制」であるが故に、私たちはその廃案を求めざるをえない。
1.まず、外国人の権利を保障する基本的な法制度を構築しなければならない
そもそも日本が国際人権規約(自由権規約・社会権規約)に加入する際(1979年)に外国人人権基本法と国内人権機関が、人種差別撤廃条約に加入する際(1995年)に人種差別撤廃法が立法化されなければならなかった。それにもかかわらず、政府および国会はそれを怠った。法務省が2017年3月に公表した『外国人住民調査報告書』に見る過酷な人種差別の実態を踏まえ、また自由権規約委員会や社会権規約委員会、人種差別撤廃委員会など国際人権機関からの度重なる勧告に基づいて、日本はまず基本的な人権法制度を整えなければならない。すなわち、➀外国人住民基本法を制定すること、➁人種差別撤廃基本法を制定すること、➂パリ原則に基づく国内人権機関を設置すること、➃移住労働者権利条約をはじめ未批准の国際人権条約に加入することである。
2.外国人技能実習制度をただちに廃止しなければならない
今回の入管法改定案における「特定技能」という新たな在留資格は、現行の「技能実習」制度を前提として、それを補完・拡充するものとしてある。しかし外国人技能実習制度は、「人材育成を通じた開発途上地域への技能の移転による国際協力を推進する」という目的とは裏腹に、実際には技能実習生は低賃金労働者として搾取・抑圧されている。法務省が調査した『失踪技能実習生の現状』の集計によっても、「低賃金」「低賃金(契約賃金以下)」「低賃金(最低賃金以下)」と回答した技能実習生が67.2%となっており、また彼ら彼女らの回答の中には、89%が本国では送り出し機関に支払う資金(保証金や手数料、不当に高額な渡航費用)を「借金」して渡日していること、さらに日本の職場では日常的に暴力を受けたり帰国を強制されるなど、人権侵害の明らかな事例が散見される。このように、建前と実態とが乖離する一方の外国人技能実習生制度は、ただちに廃止すべきである。
3.在留資格「特定技能」を新設するという入管法改定案を廃案としなければならな
入管法改定案における「特定技能1号」は、現行の技能実習生と同様、家族の帯同を認めないとしている。特定技能1号も2号も、法務省の説明では「入国・在留を認めた分野での転職可」としているが、法案には明記されていない。また、直接雇用の他、派遣労働もあり得るとしている。さらに、技能実習生制度と同様に、本国での送り出し機関/日本での受け入れ機関から、悪質な仲介業者を排除する法文上の規定はない。賃金については、技能実習制度では(実態と乖離しているとはいえ)「日本人が従事する場合の報酬の額と同等以上」と定められているが、特定技能については法務省令で定める、としているだけである。その上、受け入れ機関のパスポートの取り上げや強制帰国を禁止する規定もない。
4.「出入国在留管理庁」を設置するという法務省設置法の改定案を廃案としなければならない
これまで法務省入管局は、外国人に対する管理を強化し続けてきた。さらに今回の改定案は、在留管理を強化すると共に、「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を実施していく関係省庁間の「総合的調整機能を持つ司令塔的役割を果たす」ために、法務省の外局に「出入国在留管理庁」を設置するとしている。いま法務省が主導して作成中の「総合的対応策」には、「意見聴取・啓発活動、生活者としての外国人に対する支援、外国人材の円滑な受入れの促進に向けた取組、新たな在留管理体制の構築」という4本柱を立てているが、もっぱらに注力しようとしているのは明らかである。
そもそも法令において「管理」という言葉は、「公権力が、人の生活関係に介入して、その意思にかかわりなく、又はその意思を排除して、外部的にこれを規律する措置を意味する」(林修三・高辻雅己ら編纂『法令用語辞典』学陽書房)というものである。人間を直接対象として「管理する」ことを法目的として掲げている法律は、入管法とこの法務省設置法だけである。そのような意味でも、「管理」をかかげる官署が、「共生のための総合的対応策」を策定し運用することなどできるはずはない。
5.包括的な移民政策・人権政策へと転換しなければならない
すでに日本で暮らしている外国人住民は270万人以上となり、外国にルーツをもつ日本国籍者は少なくても160万人以上となる。政府がいくら否定しようとも、すでに日本は「移民社会」であり「多民族・多文化社会」なのである。それにふさわしい法制度を早急に整えなければならない


2018年12月10日月曜日

12/9こども説教「救われる者たち」使徒2:40-47


 12/9 こども説教 使徒2:40-47
 『救われる者たち』

2:40 ペテロは、ほかになお多くの 言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。   (使徒行伝 2:40-47

  キリスト教会のさいしょの頃の様子が紹介されています。天と地の一切の権威を授けられた救い主イエスが弟子たちに、こうお命じになりました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい」(マタイ28:18-20と。それで、弟子たちは命じられ、教えられてきたことを、教えられたとおりに教え、命じられたとおりに命じつづけます。まず、「この曲がった時代から救われよ」と語りかけられました。何がどう曲がっているのかといいますと、神さまの御心が私たち人間によって、それぞれ勝手に曲げられ、御心にかなわないことがなされてゆきます。「救われる」とは、自分勝手にわがままに生きようとするその誘惑に負けないように立ち向かって、神さまの御心にかなって生きようと願いつづけ、神さまに信頼し、聞き従って生きることです。46節で、「心を一つにして」礼拝をし、聖晩餐のパンと杯にあずかり、神を讚美したことが告げられていました。さて、どうしたら「心が1つに」なるでしょう。3人いたら3つの心、6人いたら6つの心です。自分や誰彼の心のとおりにではなく、自分勝手にでもなく、それらを引っ込めて、ただただ神さまの御心に従おうとするとき、そこでようやく「心が1つに」なります。そのためにこそ昔も今も、私たちは神さまを礼拝をし、聖晩餐のパンと杯にあずかり、神を讚美しつづけます。

   【補足/心を一つに】
「一つ心になって」(ピリピ手紙1:27,2:2,4:2)とたびたび勧められます。難しいことです。偶然に趣味や考え方が一致してというのではなく、我慢して、「はい。その通りですね」と渋々従うことでもなく、力が強く声の大きな人の意見に嫌々ながら流されてゆくのでもなく。それは、ただただ主なる神さまによって深く戒められ、主に対する慎みと信頼とを回復させていただいて、そこでようやく兄弟たちは、神に従って生きようとする者たちとされました。


12/9「暗黒と死の陰にさえも」ルカ1:67-80


                     みことば/2018,12,9(待降節第2主日の礼拝)  192
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:67-80                      日本キリスト教会 上田教会
『暗黒と死の陰にさえも』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:67 父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、
68 「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。
神はその民を顧みてこれをあがない、
69 わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。
70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い
  出すためである。
72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる
  契約、
73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、
74 わたしたちを敵の手から救い出し、
75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださ
 るのである。
76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。
主のみまえに先立って行き、その道を備え、
77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。
78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。
また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
  79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くで
    あろう」。            (ルカ福音書 1:67-80)

  ザカリヤとエリサベツ、年老いた一組の夫婦の姿に目を凝らしつづけてきました。ずっと長い間、心の底から願いつづけてきた大切な願いがとうとう神さまの恵みによって叶えられると告げられて、けれどザカリヤはそれを信じることも受け取ることもできませんでした。「私たちはずいぶん年を取っている。だから、こんな私たちには出来るはずもない」(1:18)と。それでザカリヤは、約束の赤ちゃんをその手に抱くときまでは口が利けなくされてしまいました。それはただの罰や懲らしめではありませんでした。では何? 本当に大切なことを語りはじめるために、そのための準備の時間を与えられたのです。
  ザカリヤはあのとき神殿で、「その子をヨハネと名付けなさい」(1:13)と命じられていました。だから、エリサベツも彼も、「ヨハネとする。それは好き嫌いの問題ではなく、しきたりや作法や社会常識に倣って決めることでもなく、皆がどう思うかどうしたいかと周囲の人々の意見に従って決めることでもない。なにしろ神さまがそうせよとお命じになるで、だから私たちは主なる神さまにこそ従って、ヨハネと名付ける。そう名付けなければならない」。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その一人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。一個のキリスト教会がその地に根を張って伝道をしつづけ、群れが養われつづけてきたことも、私たちが神を信じて生きる者とされ、そのようにして一日一日を暮らし、職を得てそれぞれの働き場で働き、家庭を築きあげてきたことも、健康を支えられ、幸いと喜びを与えられつづけてきたことも、それら一切は、ただただ《主は恵み深い》という現実によったのです。さて、68-79節の讃美の歌を味わいましょう。主は恵み深い、という歌です。
 68-75節。あの赤ちゃんの父であるザカリヤは、「聖霊に満たされ、預言して言った」;聖書66巻全体がそうであるように、ザカリヤというごく普通の、どこにでもいるいような生身の人間の口を用いて、神ご自身が、ご自身を明らかに示しています。また、その御前に、この私たちがどういう者たちであるのか。その幸いと祝福の内容を、神さまご自身が、この私たちに告げようとしておられます。
 69節。「救いの角」は、救い主ご自身であるイエス・キリストのことです。「ダビデの家に」。そして73節、「すなわち父祖アブラハムにお立てになった誓い」;ダビデの家系・血筋から、救い主が起こされる。それはアブラハム契約へとさかのぼる旧約聖書、新約聖書を貫く同じ一つの契約です。《神さまと神の民との間に交わされた救いの契約》です。「救ってあげますよ」と神さまが招き、手を差し伸べてくださり、先祖と私たちは「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」とその招きに応え、差し出されたその手を握り返したのです。これが救いの契約、そこで神と先祖との間に、またその同じ神さまと私達との間にも同じ一つの契約が結ばれました。70節、「古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように」;旧約聖書の証言そのままに、それが神ご自身によって成し遂げられました。その聖なる契約の本質は『主の憐れみ』です。「憐れみ。憐れみ。憐れみ」(72,78)と執拗にクドクドと3回繰り返されていることを、私たちはよくよく肝に銘じねばなりません。救い主によって成し遂げられるこの救いの御業の全体は、主の憐れみによってこそ貫かれ、すっかり覆われているのです。
 71節「私たちを救い出すためだ」と断言しています。72-73節、主は我らの先祖を憐れみ、また私たちをも憐れみ、その憐れみをもって誓ってくださった救いの約束をちゃんと覚えていてくださるというのです。それならば、私たちもまた、「神さまが先祖と私たちを憐れんでくださって、だから」という肝心要をはっきりと心に刻み、よくよく覚えておく必要もありますね。74-75節、「私たちを救い出し、生きている限り、みまえに恐れなく仕えさせてくださる」。ここです。私たちが現に確かに救われたこと、救われつづけて今日ここにあるを得ておりますことには、はっきりした目的があったのです。あるいは、その確かな恵みには、はっきりとした、誰にでもすぐ分かるはずの実りが伴ってあるのです。《恐れなく主なる神さまに仕える》ことこそが目的であり、救いと恵みの結果です。神さまに仕えつづける中で私たちは救われ、罪深さや自分勝手さ、心細さ、心が頑固になってしまうことから解放され、いつの間にか根深く抱えつづけてしまったそれぞれの《恐れ》から解き放たれつづけます。もし一回の礼拝が、そのことを兄弟らと共々に味わう格別なときとなるなら幸いです。これこそが、その一回の礼拝の根本の目標・願いとなり、一つ一つの営み、その人の生活の目標や願いとなります。例えば、来年1月末の定期総会の日に、私たちは長老や執事をどのように選挙すべきでしょうか。「これもまた、我らの神の憐れみの心による」し、その憐れみを心底から本気で受け止めながらの選挙でなければならないと弁え、心得ながら、その一つ一つの選挙に取り組むのです。この私が一票を投じようとするあの相手は、「この一つの働きをもってさえ、恐れなく主に仕える」と、そのことをこそ願い求め、神さまこそがきっとそうしてくださると確信する中でこそ、その投票用紙にその人の名を書きしるすべきです。「はい。喜んで、主に仕えさせていただきます」(ヨシュア24:1-22)と、その人はきっと晴れ晴れして応えるだろうと。また、私もその人に対して精一杯に自分の責任を果たしてその人を支え、慰め、その人が苦境に立つとき、私はその人の傍らに立って、一緒に、精一杯にその重荷をその人といっしょに担おうと。こうしたことを心底から受け止めることができるかどうかが、キリストの教会にとって、私たち一人一人のクリスチャンにとって、決定的な分かれ道となります。「これは、我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって」という福音の宣告を、私たちは決して建前や単なる形だけ名ばかりのスローガンとしてはなりません。共々に、恐れなく主に仕える。今ここで、それをしている。いつどこにいても、誰と何をしていても、教会でも家にいても道を歩いていても、あなたのいつもの職場でも、そこでそのようにして恐れなく主に仕えることであり、それへと私たちを向かわせると目を凝らしながら。75節で、「御前に、恐れなく仕えさせてくださるのである」と語られました。「主に仕えることは、義務・使命・努力目標であることを遥かに超えて、軽々と飛び越えて、ただただ恵みの贈り物」だったのです。
  75節。主なる神さまに仕えることは、生涯、生きている限りつづきます。それは、御前に「清く、正しく、恐れなく」成し遂げられつづけます。「清く、正しく、恐れなく」という三つの在り方は、「神さまの御前に」という前提をもちます。主なる神さまの御前にあって、だから、そこでようやくと。しかも、正しくて完全無欠な人間など独りもいないのです(ローマ3:9,創世記8:24-。高潔で清らかな者などただの一人もなく、正しいものもなく、けれど、にもかかわらず清く正しく。どういうことでしょうか。77-79節「罪のゆるしによる救いをその民に知らせるのであるから。これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。罪のゆるしという、決して欠くことのできない大前提がありつづけます。罪のゆるしあってこそ、その上に足を踏みしめてこその私たちです。「どうぞゆるしてください」とゆるしを請い求め、「ありがとうございます」と受け取り、ゆるされつづける中でこそ、そこでだけ、「清く、正しく、恐れなく」という在り方がかろうじて成り立っています。決して清いわけじゃなく、正しいわけでもなく、恐れるほかない私たちです。強がって見せても、やせ我慢して取り繕っても、本当は誰でも皆とても心細いのです。じゃあ、私たちはどうしたらいいでしょう。だからこそ私たちはみな神の憐れみの計らいの只中に置かれている。
 78-79節。「私たちの足を平和の道へ導くであろう」;平和の道も、ここまで味わい確認してきたこととまったく同様です。神さまからの憐れみと、そのようにして成し遂げられる「罪のゆるしによる平和の道」です。神の憐れみの計らいの只中にある「平和の道」です。十字架におかかりになる前の晩に、主イエスは弟子たちにおっしゃいました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。また、弟子たちが人々を恐れて家の中に閉じこもっていたとき、復活の主があらわれて、「安かれ」と語りかけ、手と脇の傷を見せてくださいました。さらに「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書14:26-27,20:19-21と。弟子たちが二人ずつ組にして町々村々へと遣わされたときにも、彼らは「平安がこの家にあるように」と言うように命じられました。聖書は証言しました、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」(コリント手紙(2)5:17-20平和の道。安らかであること。それはもちろん、第一に神さまとの平和です。だからこそ、お互いどうしの平和や安らかさともなったのです。神さまに敵対し、逆らっていた私たちとこの世界が神と和解させられ、神さまとの平和のうちに生きる者とされます。それは救い主イエス・キリストにおいて成し遂げられました。しかも私たちは、その平和の使者とされています。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。つまり、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任を世界にも私たち自身にも負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。私たちの罪過の責任を私たち自身に負わせることをしなかった。それは、神に背く罪と反逆のすべて一切を救い主イエスが十字架の上で担ってくださったからでした。だからこそ、その十字架のしるし、てのひらの釘跡、脇腹の槍で刺された傷跡を見せられて、そこでようやく弟子たちは主イエスの平和を受け取り、その格別な平和によって喜びにあふれました。そのようにただ恵みによって、ただ憐れんでいただいて、神との平和の中に招き入れられた私たちですから、その神さまからの平和を携えて出てゆき、その平和を持ち運びながら生きる者たちとされました。それが、私たちが平和の使者とされていますことの中身です。神との平和、人々との平和。それを差し出す前にまず私たち自身がそれをよくよく受け取り、味わい、魂に深々と刻みつづけねばなりません。だからこそ、すでに救い主イエス・キリストを信じて生きてきた私たちに対して、改めて、新しく命じられます。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。まず、あなた自身こそが受け取りなさい」と。