みことば/2017,12,3(待降節第1主日の礼拝) № 139
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:34-40 日本キリスト教会 上田教会
『いちばん大切な
第一の戒め』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。35
そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38
これがいちばん大切な、第一のいましめである。39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 (マタイ福音書 22:34-40)
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主イエスの福音が語られるとき、そこに波風が立ちます。わたしたちの心の中にも、いつもの普段の在り方にも、大きな波が打ち寄せ、激しい風が吹き寄せます。もうずいぶん前のことです。先輩の牧師が、葉書を1枚書き送ってくれたことがありました。こう書いてありました;「暗闇が、わたしたちの現実を深く厚く覆っているように思える日々がありますね。けれど福音が福音として語られるとき、どんな暗闇も引き裂かれ、そこに光が差し込みます」。
さて、サドカイ派の人々もパリサイ派も、その当時、この聖書の神さまを信じる人たちの中で深く尊敬される人たちでした。一目も二目も置かれ、大きな信頼を寄せられていました。けれど主イエスが語る福音は、あの彼らが語り、教えていた信仰理解とはずいぶん違うものでした。
あの彼らは腹を立てました。なんだか、おもしろくないのです。サドカイ派の人たちが主イエスと論争して、大勢の人が見ている前で、こっぴどくやり込められました(23-33節)。その噂を聞いて、今度は、パリサイ派の人たちも集まってきました。サドカイ派とパリサイ派とは、本当は、その考え方も教えの内容もお互いにずいぶん違っているのです。互いに、相手とは正反対のことを教えてもいました。それなのに、主イエスを憎む思いでは一緒です。なんとしてでも、あのイエスをやり込めてやりたい。言い負かして、こっぴどく恥をかかせてやりたい。自分たちの正しさや立派さを、どんなに優れているのかを、そうやってもう一度、皆の見ている前ではっきりとさせたい。そうやって、今までのように、多くの人たちから「先生、先生」と尊敬され、一目も二目も置かれ、大きな信頼を寄せられたい。彼らは、主イエスの前に立ちはだかります。
36節。主イエスと、その福音を試そうとして、彼らはこう質問しはじめます。「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。37-40節。主イエスは答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい』、これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」(申命記6:5,同10:12,同30:6)。この2つの掟こそが律法の心です。それこそ、一番大切な肝心要です。私たちは、よくよく覚えておきましょう。いちばん最初には、この『神さまからの律法』は、モーセがシナイ山の上で神さまからいただき、2枚の石の板に刻まれた10個の約束でした(出エジプト記20:1-17)。けれど長い年月が過ぎ去るうちに、その10個の約束は600にも800にも膨れ上がり、やがて、味もそっけもない細々した規則や細則や条例へと姿も中身もすっかり変えられてしまったのです。誰が変えたのでしょう。神さま? いいえ、もちろん人間がです。元々は『神さまからの約束事』だったものを、いつのまにか、『自分たち人間同士の約束事』へと、すっかりすり替えてしまいました。やがて人々は、いったい何のためにその規則に従い、どういうつもりでそのルールを守っているのか、さっぱり分からなくなってしまいました。ですから、「山ほどある律法の中で、いったい、どの戒めが最も重要でしょうか」。
40節。「これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」。ここで「律法全体と預言者」というのは、直接的には旧約聖書のこと。むしろ、聖書全体のことです。たしかに旧約も新約も聖書66巻全体は、この2つの戒めに基づいており、この2つに集約された『神さまからの願いと約束と、神さまがしてくださったこと』のために書かれています。また、私たちがこの神さまを信じて、神さまに従って晴れ晴れとして生きてゆくことも、ただただ、この2つの戒めにかかっています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』、これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二も、これと同様である」。いちばん大切な第一の戒め。これと同じように大切な第二の戒め。それじゃあ第一の戒めと第二の戒めは、だいたい同じ程度に大切なのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。はっきりした順番があり、順序があり、なにしろ第一の戒め。その後で、それに続いて、第二の戒めです。もう何年も昔のこと。ある先輩の牧師は、「はいはい。神を愛することと隣人を愛すること、2つはだいたい同じくらいに大切です」と言いました。「まったく同列、同格、どっちが先でも後でも、なんの違いもありませんよ。神さまを心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず隣人を愛するようになります。逆もまた正しい。隣人を心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず、この神さまを愛するようになります」と言いました。ぼくは、「いいえ、違うでしょう」と反論しました。
先輩の言い分の半分は正しい。けれど、残りの半分は間違っていました。神さまを心から愛する人は、自然に、自動的に、必ず隣人を愛するようになる。ここまでは正しい。なぜなら、その神さまは私たちを心から愛してくださる神さまだからです。あなたや私のことだけじゃなく、他のすべての人のことも愛して止まない神さまです。あなたや私が内心では気に入らない人のことも、神さまはとても大切に思っておられます。あなたや私が、ついうっかりして軽んじたり、傷つけたり踏みにじったり、憎んだり怒ったり軽蔑したりしてしまうその相手のことも、神さまは、私たちを愛し尊んでくださるのとまったく同じに、愛し尊んでおられます。そうだとすると、「神さまを愛している」と口先では言いながら、それとは裏腹に、「あの人は気に食わない。虫が好かない。どうして、あんなことを」と軽んじたり、毛嫌いしたり、押しのけたりしてしまう私たちは、「それでは少しも神さまを愛していることにはならないじゃないか。口先ばかりじゃないか。あなたは、神さまを、すっかりないがしろにしているじゃないか」と突きつけられます。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、その人は偽り者です」「わたしは正しい。正しい。と拘りつづけながら、あなたは神を偽り者としているではないか」「礼拝や献げものやその大切な奉仕の前に、けれども、あなたにはすべきことがあるだろう。まず出かけていって、仲直りをしなさい」「あなたのことで、その人が心を痛めるならば。その人が心苦しく、淋しく悲しく思うならば。その人のために、キリストは死んでくださったのだぞ。分かっているのか」(ヨハネ手紙(1)1:10,4:20,マタイ福音書5:23,ローマ手紙14:15)と。そのことを知らされつづけていますので、神を心から愛する私たちは、隣人を愛し尊ぶ私たちに変えられていきます。自然に、自動的に、必ず。神ご自身こそが、私たちをそういう私たちにならせずにはおきません。少しずつですけれど、そういう私たちとされていきます。
けれど、「逆もまた正しい」と言えるのかどうか。「隣り人を心から愛する人は、自然に、自動的に必ず、この神さまを愛するようになる」のかどうか。いいえ、そうとは限りません。そういう場合もある。そうではない場合も多い。また、「それじゃあ神を知らないはずのあの人たちは、隣り人を愛していないのか」。いいえ、そうではありませんね。この聖書の神を知らず、けれどなお隣り人を心から愛し、尊ぶ無数の人々がおり、今もこれからもおりつづけることを、私たちは知っています。そうであるとして、この私たちは、この聖書の神を他の何にも優って愛するのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしたちの神である主を。それなら私たちは、どんなふうに暮らしていきましょうか? 「家族や仲間たちや隣人を愛し、精一杯に人と付き合い、骨惜しみせずよく働き、それからその後で、時間の余裕ができたときに、少しは神さまともお付き合いをする?」。いいえ、とんでもない。もし神を信じて、神さまから恵みと幸いを受け取りつづけて生きていきたいと本気で願うのならば、そうではありません。「第一に、なにより神を愛すること」と聖書は告げました。「なにしろ神が第一」と世々の教会は習い覚えつづけてきました。わざわざそう言うのは、水は低いほうへ低い方へと流れ落ちるからです。私たちはその水のようです。例えば、「神をできるだけ大切にしましょう。少なくとも三番目か四番目くらいには大切に思えるほうがいいでしょう」などと考えはじめます。もし、その程度に留まれるなら、それでもいいかも知れません。けれど、たいていの場合、もっともっと低い所へとどんどん流れ落ちていきます。他に大切な用事や仕事や約束事が次々と出てきて、ふと気がつくと、神を愛することが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけていき、やがて間もなく神のことを少しも思う隙のない、自分自身の腹の思いと周囲の人間たちのことばかり思い煩いつづける、心細く虚しい生活の中に沈み込んでしまうかも知れません。それは恐ろしいことです。「第一に、なにより神を愛すること」は、「しなければならない」という努力目標としてなら、誰にも決して守ることなどできないでしょう。そうではなく、「すべての良いものが、ただ神さまのもとから恵みによって贈り与えられている。ああ、本当に」と実感した者にしか意味をもちません。「神さまからの戒めと祝福のもとでこそ、大切な家族や隣人たちを愛することも、互いに喜び合い、重んじ合うことも、私は少しずつ習い覚えていく」と気づき、「神さまからの恵みを受け取りつづけて、幸いに生きて死んでゆくこともできる。そのための土台がこれだ」と自分自身のこととして分かった人にしか、それを願って生きることなどできません。しかも、あなたも私も、神さまを信じて生きてくる中で、そのことを習い覚えてきたではありませんか。神ご自身から、「本当にそうですよ」とつくづくと教え込まれつづけてきたではありませんか。例えば夫婦が夫婦として、一個の人間同士として愛し合い、尊び合い、一緒に生きることを互いに喜び合いつづけるのは、なかなか難しいことです。「愛している」と言いながら、自分の思い通りに言いなりに従わせたくなります。良かれと思って、けれど相手を苦しめたり、困らせたりしてしまうこともあります。「愛される」ことも難しいです。ゆるすことも信頼することもできなくなって、たとえ長年連れ添った夫婦であっても親子であっても、親しい仲間同士であっても、それでもなお相手が何を考え、何を願っているのかもすっかり分からなくなって、淋しく背を向け合う日々が来るかも知れません。親しい友人同士も同じです。誰でもとても弱くて、心細くて、独りで生きてゆくことなどできません。助けてくれる者が傍らにいてくれなければ。何が起きても、どこからでも、必ず助けてくださる神さまこそがすぐ傍らにいてくださらなければ。しかも兄弟姉妹たち、片時も離れず、ずっといてくださったではありませんか。私たちの主なる神ご自身が。だからこそ私たちは、大切な連れ合いや子供たちを愛し、仲間たちや隣人を自分自身のように尊び、神さまにも人様にも感謝し、そのように幸いに生きることができます。例えば、信仰をもたない連れ合いがいて、神さまのことにあまり関心をもってくれない子供たちがいるとして、それでもなおその家族や大切な連れ合いと仲良く、互いに尊重し感謝し合って一緒に末永く幸いに暮らしてゆくための秘訣は、なんと不思議なことに! 『神にこそ信頼を寄せ、聴き従い、神を第一として私たちが生きること』です。私たち人間にできることでありませんが、神にはできるからです。神さまが、こんな私たちにもさせてくださるからです。神さまとすでに出会ってしまったからです。神を信じて生きることを私たちは選び取っているからです。耳を傾け、神にこそ一途に聴き従いつづけて。それが私たちの毎日の暮らしの土台です。
主であられる神さまが、たしかに、生きて働いておられます。私たちにとってもっとも良いものを願い、用意し、贈り与えてくださる神さまがおられます。他のどこからでもなく、ただただ天地を造られた神から、私たち自身のための助けが必ず来ます。主こそが私たちの思いを励まし、戒め、私たちの心を夜ごと諭し、生命の道を教えてくださる。そうであるからこそ、私たちは揺らぐことがない。――これが、聖書自身からの最後の最終的な答えです(テモテ手紙(1)1:15-16,ピリピ手紙2:6-11,詩16:7-11)。だからこそ神さまによくよく信頼し、周囲の人間たちにではなく、自分の腹の思いに聴き従ってでもなく、神さまの御心にこそ聴き従って一日また一日と暮らすことを習い覚え、困ったことや苦しみの只中にあっても神にこそ助けを1つ1つ願い求め、支えられ、助けられつづけて生きることができるなら、もしそうならば、その人たちはとても幸いです。自分自身と家族のためにも、大切な子供たちのためにも、それをこそ心から願い求めます。