みことば/2017,12,10(待降節第2主日の礼拝) № 140
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:41-46 日本キリスト教会 上田教会
『ダビデの子孫であり、
しかも神?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、42
「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。44
すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。46
イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。 (マタイ福音書 22:41-46)
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パリサイ派の人たちとの対話が続いています。主イエスが彼らに問いかけます、「あなたがたはキリスト(=救い主)のことをどう思うか。誰の子なのか」と。彼らは、「ダビデの子です」と答えました。重ねて、主イエスは問いかけます。43-45節、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」」。『』は、詩110篇1節からの引用です。
直ちに、主イエスに敵対する者たちは押し黙ってしまいました。一言も言い返すことができなかったからです。かと言って、「わが主よ、わが神よ」と主の弟子のトマスのように主イエスの前にひれ伏して、喜びにあふれて信じはじめることさえもできなかったからです。サドカイ派の人々もパリサイ派の人々も、どちらも聖書を熱心に読んで研究していました。「やがてダビデの子孫の中から救い主が遣わされてくる」(イザヤ9:2-7,同11:1-9,エレミヤ23:5-6,同33:14-18,エゼキエル34:23-24,同37:24,詩89:20-37)と預言されつづけていたこともよく知っていました。けれどその救い主は、ただダビデの子孫にすぎず、自分たちと同じ人間の一人であるとしか認めることができませんでした。「ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいる」。神ご自身から教えられて(=御霊に感じて)イスラエルの王が誰かを「わたしの主」と呼ぶならば、その相手は、生身の人間の王をはるかに超えた権威と力をもった存在、つまり神ご自身であるということです。聖書自身は、そのことをはっきりと証言しつづけていましたが、彼らは聖書をあなどり、軽んじて、神ご自身である救い主がこの世に遣わされてくるなどとは思ってもみませんでした。ましてや、目の前に立っているそのイエスという方がその方であるなどとは。たしかに、旧約聖書が約束していたとおりにやがて来られるはずの救い主はダビデの子孫として生まれる。しかも、そのお方は「ダビデが私の主と呼ぶ」とおりに、被造物にすぎない人間をはるかに超えた存在である神ご自身である。天の御父の右の座につき、御父から天と地の一切の権能を授けられた王として、この世界をご支配なさる。やがてご自身に敵対する者たちすべてを自分の足元に置くことになる(マタイ11:27,同28:18,ピリピ2:10-11,コリント(1)15:24-26)。46節、「その日からもはや、進んでイエスに質問する者もいなくなった」。主イエスを言い負かすことができないと痛感させられて、いったんは引き下がりながら、しかもなお彼らはイエスをかたくなに拒んで、救い主イエスを殺して、葬り去ることを決心します。
讃美歌Ⅱ編195番(賛美歌21-522番)の「キリストには代えられません」をこの後で歌います。ずいぶん前に死んでいった一人の友だちがこの歌を大好きでした。もう好きで好きで、朝も昼も晩もずっと口ずさんいるって言ってました。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。けれど、この歌の心はそれだけではありません。むしろ、信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわっているように思えます。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富や宝を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。繰り返しの部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態のようです。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。他の讃美歌も同じ一つの心で歌います、「十字架のほかには誇るものあらず、この世のもの皆、消えなば消え去れ(=もし消えるっていうんなら、いいですよ、それでも。構いませんから、どうぞ、さあ消え去ってくださいな)」(讃美歌142(2))。主イエスご自身は仰る、「どんな召し使いも二人の主人の両方共に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」(マタイ6:24,ルカ16:13)。そして気がつくと、心が2つに引き裂かれた、ほどほどのクリスチャンが出来上がっていました。あのイソップ童話のコウモリのようなクリスチャンです。動物たちの間では、「私も動物です。仲良くしましょう」。鳥たちの間では、「ほら見てください。私も鳥です、羽根を広げてパタパタ飛ぶこともできますから」。お前はいったいどっちなんだ。何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけて、気がつくととうとう動物でも鳥でもない、どっちつかずのただ要領がいいだけの生ずるいコウモリが出来上がっていました。心を鎮めて、よくよく考え、自分で自分に問いただしてみなければなりません。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。誰にもできるはずがない。だからこそ、この祈りの人は、「このキリストが私に代わって死んでくださった、本当にそうだ」と、自分自身に言い聞かせ言い聞かせしています。一途に、目を凝らしつづけています。
さて、「救い主イエス・キリストが私に代わって死んでくださった。私が神の子供たちの1人とされるためだったし、こんな私をさえ罪と悲惨さから救い出すためだった」と私たちも知りました。それならば、救い出された私たちはどこへと向かうのか。どこで、どのように生きるのかとさらに目を凝らしましょう。代わって死んでいただいた。それなら私たちは、もう死ななくていいのか? あとは、それぞれ思いのままに好き勝手に生きていけばいいのか。いいえ、そうではありません。やがていつか寿命が来てそれぞれに死んでゆくというだけではなくて、クリスチャンとされた私たちは毎日毎日、死んで生きるのです。古い罪の自分を葬り去っていただいて、新しい生命に生きる者とされた。毎日毎日、死んで生きることが生涯続いてゆく。洗礼の日からそれが決定的に始まりました(ローマ手紙6:1-18参照)。『毎日毎日、死んで生きる』というその大事なことは、これまであまり十分には語ってくることができませんでした。いいえ、よく語ってこなかっただけではなくて、うっかり見落としていたのだと思えます。『古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる』ことが苦しすぎて、嫌だったので、わざと見ないふりをしていました。まったく申し訳ないことです。救い主イエスが代わって死んでくださったので、それでまるで自分は死ななくていいことにされたかのように、そこで救いの御業がすっかり完了して、終わってしまったかのように、だから後はそれぞれ好き勝手に自由気ままに生きていってよいかのように、勝手に思い込んでいました。だから、私たちはたびたび煮詰まりました。たびたび途方にくれて、道を見失いました。実は、主イエスの最初の12人の弟子たちも皆そうでした。十字架の死と復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって旅路を歩みながら、主イエスは弟子たちに何度も何度も、ご自分の死と復活についてあらかじめ予告しつづけました。受け入れる準備をさせておきたかったのです。十字架前夜の最後の晩餐の、あのパンと杯の食事も同じでした。パンが引き裂かれるように、私の体は十字架の上で引き裂かれ、ぶどう酒が配られるように、私の血潮も流し尽くされ、あなたがたの上に注がれる。イエスは言われました。「よくよく言っておく。人の子(=イエスご自身のこと)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」(ヨハネ福音書6:53-57)。けれど弟子たちは、なかなか信じることも受け入れることもできませんでした。なぜなら、主イエスが死んで復活なさることはただ主イエスお独りだけのことに留まらなかったからです。弟子たち皆も、主イエスに率いられて、古い罪の自分を殺していただき、葬り去っていただいて、それと引換のようにして新しい生命に生きはじめる。それは恐ろしいことでした。ただただ恐ろしくて、嫌なことでした。誰かが私の身代わりとなって死んでくれた。それだけでは、力も勇気も希望も湧いてくるはずがありません。私のために苦しんで死んでくださったその同じお独りの方が、ただ苦しんで死んだだけじゃなくて、この私のためにもちゃんと復活してくださった。やつれて、息も絶え絶えになって死んでいこうとする方に共感や親しみを覚えることはできても、けれど信頼を寄せたり、その方に助けていただけるとは誰にも思えません。死んで三日目に復活させられた方をもし信じられるなら、そのお独りの方に全幅の信頼を寄せることができます。この自分自身も、主イエスに率いられて、古い罪の自分自身と死に別れ、新しい生命に生きることになる。そこに大きな希望があり、喜びと平和と格別な祝福がある。これが、起こった出来事の真相です。十字架の上のやつれて息も絶え絶えのその同じ主が同時に、復活の主でもあると信じられるかどうか、それがいつもの別れ道です。ああ、だから、「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいのです。そしてその歌の心は、「私に先立って」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。私たちもついにとうとうキリストに固着し、死守する秘訣を体得しました。やったあ。『このお方で心の満たされている今は』、と。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。神さまはキリストと共に私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。
◇ ◇
「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」という主イエスご自身からの質問に対して、この私たち自身は、どう答えることができるでしょうか。彼の人格について。彼の働きと成し遂げてくださった救いの御業について。彼の十字架の死と復活について。弟子たちが見ている前で天に昇っていかれたことについて。御父の右の座につき、天と地の一切の力と権威を授けられた王としてこの世界と私たちを治め、ご支配なさりつづけて働かれていることについて。自分自身の腹の思いと好き嫌いといつもの「私が私が」という生臭い自己主張をさえねじ伏せ、足元にギュ~ッと踏みつけて、イエスこそが唯一無二の主人であり王であられる。彼の慈しみ深さと憐れみについて。私たちは、このお独りの方に全幅の信頼を寄せているのでしょうか。この方こそが、他の何にもまして私の支えであり、拠所であり、頼みの綱であると確信しているのでしょうか。彼こそが私の救い主であり、格別な良い羊飼いでありつづけてくださり、「イエス・キリスト。この方による以外に救いはない。私たちを救いうるお方は、天下の誰にも与えられていない」(使徒4:12)と自分の魂に刻み、晴れ晴れとして告白する私たちでしょうか。これこそが極めて深刻な問いかけでありつづけます。救い主イエス・キリスト。このお独りのお方のもとに安らぎ、このお方に十分に満たされるのでなければ、私たちには、この世のどこにも心の休まる場所がないはずだからです。生きた信仰によって主イエスとこの自分自身が結び付けられるのでなければ、聖書を読み、キリストについての出来事にどれだけたくさん耳を傾けつづけても、それは虚しいだけです。もう一度、ご自身からの問いかけに耳を傾けましょう;「あなたがたは救い主のことをどう思うか?」