2017年11月8日水曜日

11/5「悪い農夫をどうする?」マタイ21:33-46

                          みことば/2017,11,5(主日礼拝)  135
◎礼拝説教 マタイ福音書 21:33-46                   日本キリスト教会 上田教会
『悪い農夫をどうするか?』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
21:33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。                  (マタイ福音書 21:33-44)
                                               

 《神さまがどういう神さまなのか、私たちがどんなふうに生きていくことができるのか》を教えようとして、主イエスがたとえ話を使って話しています。たとえ話ですから、その中で何か何をたとえているのかを考えながら、1つ1つ思い浮かべながら読んでいきます。ぶどう園は何のことを言っているんでしょう。あの主人は誰のことでしょう。農夫たちは。次々と送られてきたしもべたちや、殺されてしまった跡取り息子は誰のことだろうかと。
  主人は、とても素敵なぶどう園を造り、「じゃあ、よろしく頼んだよ」とそれを農夫たちにまかせて出かけていきました。そこには例えば、摘み取ったぶどうをしぼって、ぶどうジュースやワインを造るための作業場があります。それが「酒ぶねの穴」ですね。「垣根や、見張りのためのやぐら」があるのは、動物たちがぶどうを食べに来たり、荒らしまわったりしないように、またぶどうドロボウが夜中にやってきて大切なぶどうを盗んでいったりしないように、交代で夜通し見張り番をするためです。つまり、とてもよい素敵なぶどう園だったわけです。収穫のときが近づいて、主人はしもべたちを何人も何人もぶどう園に送って「さあ、おいしいぶどうがいっぱい実ったかい? ぶどうジュースやワインも作れたかな」と質問させます。でもとても良いぶどう園を任された農夫たちは、その主人から送られてきたしもべたちを捕まえて袋叩きにし、殺し、石で打ち殺したりしつづけました。そんなことが何回も何回もつづいて、おびただしい数のしもべたちが無残に殺され、最後に主人は自分の独り息子をぶどう園に送ります。「わたしのこの息子なら、きっと敬ってくれるだろう。ちゃんと話を聞いて、大切に扱ってくれるだろう」と。農夫たちは話し合います。「これは主人の跡取り息子だ。さあ殺して、彼の相続財産をすっかり全部オレたちのものにしてしまおう」。そして息子を捕まえ、ぶどう園の外に引き出して殺してしまいました。
 ぶどう園の主人は神さま。次々と送られてきてしもべたちは、神の言葉を告げる預言者たち。とうとう殺されてしまったあの跡取り息子は、救い主イエスのことです。神さまが造った素敵なぶどう園。それは、この世界。この世界にあるすべてのものは、みんな全部、神さまのものなのです。じゃあ、そのぶどう園を「よろしく頼むよ」と神さまから任されて働いているとても悪いよこしまな農夫たちは、誰のこと? クリスチャンだけじゃありません。わたしたち人間みんなのことです。
 ぶどう園で毎日毎日働きながら、あるとき、その農夫たちの何人かは思いました。「素敵な立派なぶどう園だなあ。これを自分のものにしたら、どんなにいい気分だろう」「いや。これは、もともと最初から自分のものだ。自分たちだけのものだ」。そして主人のもとから使いの者たちが次々やってきても、知らんぷりしました。乱暴に追い返したり、ひどい目にあわせたり、跡取り息子さえ殺してしまいました。主人のぶどう園を全部残らずすっかり自分たちのものにするために。自分だけのものにするために。「このぶどう園の主人が帰ってきたら、農夫たちをどうするだろう。あなたはどう思う?」(40)とイエスさまが質問しました。このたとえ話を聞いていた人たちは思いました。「主人が帰ってきたらどうするだって。・・・・・・悪い農夫たちをひどい目にあわせて、皆殺しにし、そのぶどう園は、ほかのちゃんとした農夫たちに貸すだろう。きっとそうすると思う」。みなさんも考えてみてください。もし、この自分がぶどう園の主人だったらどうするだろう、と。悪い農夫たちをひどい目にあわせて、袋叩きにしたり殺したりし、そのぶどう園は、ほかのちゃんとした農夫たちに貸す。もちろん、そうです。あなたも、きっとそうするでしょう。履歴書を眺めたり面接のとき、せめて2、3年の試用期間の間にちゃんと彼らの小悪さや不適格性を見破れなければ賢い経営者、人事担当者とは言えません。そんな悪い農夫たちなど初めから雇わなければ良かった。雇ってみるとしても、あまりに簡単に信用しすぎです。信頼のおける人物にきびしく監督させ、仕事ぶりを細かく監視させ、少しでも怪しい素振りが見えればその時点で左遷したり窓際の閑職に追いやったり、即刻クビ。それが合理的な会社経営ではありませんか。あるいは使いの者を1人2人送ってみた段階で、もう彼らの魂胆は見え見えです。何人も次々と使いの者たちを送り、とてもとても大切な跡取り息子までも送ったりせずに、警察か軍隊でも派遣してやっつけてしまえばよかったのに。こんな有様では経営者失格だあ。――だいたい、こんなふうに考えるでしょう。私たちなら。そして、普通の人間ならば。
だから、41-42節はものすごく難しいのです。主イエスはおっしゃる。「あなたたちなら、そう考えるだろう。そして、聖書をあまりちゃんと読んだことがないから、そんなことを考えるのだろう」。神さまの考えることは、私たち人間の考えることとだいぶん違います。だからこそ、私たち人間の目には、神のなさることは不思議に見えるのです(イザヤ55:8-9)。私たちが普段いつもしたり考えたりすることとまったく違って、けれど神さまは、そうはしませんでした。だって、あの跡取りの独り息子は、殺されるときに「あの彼らを、とても悪い農夫たちをゆるしてあげてください」って言ったんですよ。乱暴され、馬鹿にされて殺されて、その十字架の上で、「父よ。彼らをおゆるしください。あの人たちは、自分が何をしているのか分からないのですから」(ルカ23:34)。そして主人は、自分勝手な悪い農夫たちをゆるしてあげました。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。詩編118:22-23からの引用です。この捨てられた石が、私たちの主、救い主イエス・キリストです。あの農夫たちは『ぶどう園』という名前の神の国を、またキリストの教会を、キリスト者という家を建てる者たちだったのです。彼らは、イエス・キリストという跡取り息子をひどい目に合わせて殺し、そのようにして捨ててしまいました。彼らが捨てたこのイエス・キリストというお方こそ、この《キリストの教会。1個のキリスト者》という家の土台の石となりました。あまりに驚くべきことが起りました。
 44節も少し難しいです。「またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。だれが、この石の上に落ちたのでしょう。この石は、誰の上に落ちたのでしょうか。あのロクデモナイ悪い農夫たちでしょうか。そして、「彼らは打ち砕かれ、押しつぶされて殺され、その後に、きちんきちんと収穫を納めるほかの誠実で忠実な心正しい農夫たちに貸し与えられた。それが、この私たちだ」と、あなたはそう言うのでしょうか。主イエスはまた繰り返して、こうおっしゃるでしょう。「あなたがたは聖書を読んだことがないのか。ないから、まだそんなことを言いつづけるのか」と。困りましたね。私たちはぶどう園の労働者たちです。どんな労働者たちでしょうか。あなた自身は、正直なところ、どんな労働者ですか? 
 たとえ聖書をあまり読んだことがなくても、それでも、自分がどんな労働者なのかということは分かります。胸に手を当てて、深呼吸を何回かしてみて、つくづくと自分自身を振り返ってみて、私たちはむしろ、あの悪い農夫たちによく似ています。そっくりではありませんか。「その石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。だれがこの石の上に落ちたのでしょう。この石は、いったい誰の上に落ちたのでしょう。今日の礼拝の《罪のゆるし》の言葉は、ヨハネ福音書8:1-11から告げられました。人々に捕まえられ、ひっぱってこられたあの女は、もちろん悪い農夫でした。極めつけの、とびっきりに悪い農夫の代表であると言うことができるでしょう。あの女に投げつけようとして、人々は手に手に石を持っていました。神の正しさ、自分自身の正しさやふさわしさという名前の石を。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。その通りにするために。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。ロクデナシのとてもとても悪い農夫たちは、この世界に溢れています。テレビのニュースやワイドショーでも新聞記事や週刊誌でも、悪い農夫たちについての報告が次々となされます。私たちの身の回りにも、悪い農夫たちが山ほどいるでしょう。「あんなことをするなんて、どうかと思う。いったいどんな育てられ方をしたらああなるのか、親の顔が見てみたい。なんてわがままで自分勝手で、思いやりがないのか。あまりに悪すぎる」などと私たちは呆れます。その人々に投げつけようとして、手に、《私の正しさ。私のふさわしさや立派さ》という石を握りしめながら。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そのとき、なにか堅く大きなものの上にドサッと投げ落とされたような気がしました。あるいは自分の上に、大きな大きな重いものが圧し掛かってきたような。その言葉を聴いた者たちは、708090年とずいぶん長く生きてきた年寄りから始めて、1人また1人と立ち去ってゆきました。それまでは、誰もが皆この自分こそがふさわしい正しい良い農夫だと、うっかり思い込んでいました。ここにいるこの私たち一人一人もそうです。『神の正しさ。私自身のふさわしさ、正しさ立派さ』という石は、あの彼女に対してこそ投げつけられるべきで、あの彼女こそが石の上に落ちて打ち砕かれ、押しつぶされるべきだと、私たちもそう思い込んでいました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。石を4個でも5個でも、好きなだけ拾って、気がすむまで思う存分に投げつけるがよい」。まず、ずいぶん長く生きてきた年上のおじいさんおばあさんたちが、ハッと気づきました。「ああ。そういえば、私もひどく身勝手だった。自分のことばかり考え、意固地になって自分の体面や面子ばかりを気に病み、偉そうに思い上がって、人を思いやることがとても少ない私だった。どうしてその私に、石を投げつける資格があるだろう」と。心が痛みました。悔いて、恥ずかしそうに立ち去っていく年長の者たちを見て、次には5060代の者たちが、さらに3040代の者たちが、若い父親たち母親たちが悔いて、自分自身を恥じてその場を立ち去っていきました。いろいろなことを体験し、苦労もし、喜びも辛さも惨めさも心細さも味わってきたとは、そのことです。長く生きてきたとは、そのことです。年長の者たちのその姿を見て、若者たちも。やがてついには、小学生の子供たちさえ、「そういえばボクだって。この間も、お友だちについ意地悪をしてしまったし、わがままだったし、自分さえよければそれでいいと思って、困っているお友だちにも知らんぷりしていた。文句ばっかり言っていた。困らせたり、悲しませたりしても、なんとも思わなかった」と。ごらんください。その人たちの上に、ついにとうとう石が落ちたのです。「罪のない者が」という石が。「あなたは自分は正しくて立派だなどとまだ言い張るつもりか。罪など犯したこともないなどと、どういうつもりか」という石が。ついにその人々は打ち砕かれ、彼らの正しさや身勝手さが押しつぶされました。おめでとう。打ち砕かれた、悔い改めた魂を、あの彼らはついにとうとう贈り与えられました。驚いて見回している女に主イエスは問いかけます。「女よ、あの自分こそは正しいつもりだった自惚れて思い上がっていたヨコシマな農夫たちはどこにいるのか。あなたを罰して石を投げつけようとする者は一人もいなかったのか」。「主よ、だれもございません」。イエスは言われました。「私も、あなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。そのとき、あの婦人もまた、『主イエスが支払ってくださった救いのための代価』という大きな大きな石の上に落ちたのです。『主イエスの引き裂かれた体と流し尽くされた血潮』という重い石が彼女の脳天に落ちて、彼女の中の古い自分がペシャンコに押しつぶされ、まったく新しい自分がそこから生まれ出ました。「私もあなたを罰しない」とおっしゃるこのお独りの方こそが、彼女にとって、かけがえのない土台となり、その土台の上に立って、彼女は『神さまの御心に従って私は生きてゆくという家』を建て上げ始めます。神の国は《自分は正しいと思いこんで自惚れていたロクデナシのとても悪い農夫たち》からいったん取り上げられ、けれど再びまた、その同じロクデナシのとても悪い農夫たちの手に委ねられました。それはこの私たちのことです。
私たちはふさわしい実を結びます。季節ごとに収穫を、あの主人に対して納めます。そのふさわしい実、その収穫とは、「罪深い私を、にもかかわらず主がゆるしてくださった。こんな私をさえ罪に定めないために、そのためにこそ、主イエスは十字架について復活してくださった」という実りです。「本当に申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」という悔いし砕けし魂だったのです。

ふさわしい実りや、神へと納めるべき季節ごとの収穫について、また、私たちの礼拝献金や維持献金やさまざまな献げものや奉仕や働きもまた、その1つ1つがすべて、「ありがとうございます」という感謝の献げものです。人に親切にしてあげることや年老いた親の介護をして暮す日々についても、聖書ははっきりと証言しています。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」、また「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51:18-19,130:3-4)。もろもろの不義に目を留めないでいただき、山ほどの不義といたらなさと罪深さをゆるしていただいた、しかも一日また一日とゆるされつづける私たちです。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。これがキリストの教会であり、ここに1個のキリスト者が、改めて新しく生まれつづけています。