2017年11月15日水曜日

11/12こども説教「不正な家令をほめる主人」ルカ16:1-12

 11/12 こども説教 ルカ16:1-12
 『不正な家令をほめる主人』
               +【補足/神への山ほどの借金=罪】

16:1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。・・・・・・8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。    (ルカ福音書16:1-12)

たとえ話ですね。金持ちの主人は、神さまです。主人の財産をあずけられた召使い(=家令)は、私たちすべての人間です。まず、『とてもよい財産を山ほど持っている私たちですけれど、その一つ一つが自分の持ち物ではなく、すっかり全部、主人の財産であり、主人のものだ』と、よくよく覚えておきましょう。あずけられている財産。一日分ずつの自分の生命。これは自分のものではなく主人の財産です。貯金通帳の中身も家屋敷や土地も畑も、家族も、大事なオモチャや本や素敵な洋服もなにもかも、すっかり全部、自分のものではなく、あずけられている主人の財産です。びっくりしたでしょ? 本当のことですよ。主人の財産を無駄遣いしていることがバレて、クビにされようとしています。困りました。「そうだ。友だちを作っておこう。主人に仕える仕事をクビにされて追い出された後、その友だちが、私を助けて面倒を見てくれるかも知れないから」。今にもクビにされかけているその召使は、主人に借金をしている人たちを一人一人呼び出して、会計帳簿を書き直して、それぞれの借金を割り引いてあげました。そしたら、主人はそのやり方がとても賢いと喜んでほめてくださいました。私たちにも同じことをするようにと勧められています。9節「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。その友だちが、あなたを、永遠のすまいである神さまの家に招き入れてくれるから」。『不正の富』という言葉遣いが分かりにくいでしょう。それは、私たちがいま手にしている神さまのものである財産です。「不正の~」とは、『自分の手の中にあって、自分のもののように見えるけれども、でも自分のものではない』という意味です。その財産を精一杯に使って、神さまにそれぞれたくさん借金をしている仲間たちの借金をなんとかして減らしてあげて、友だちを作る。そうしたら、その友だちが、あなたや私を神さまの家に招き入れてくれる。・・・・・・とても難しいことが言われました。じゃあ2年でも3年でも、10年でも20年でも、それはどういうことだろうかと、よお~く考えてみましょう。同じことを、この私たちも、今からでもし始めましょう。


      【補足/神への山ほどの借金=罪】
         まず最初に、「『不正の富』とは自分の所有物ではなく、自分に権利があるわけでもない、ただ神からゆだねられている神ご自身の財産だ」と種明かしをしておきました。私たちが手にしているすべての良いものや財産は、みな全部が『神のものである財産』です。それなら、神の御心にかなって運用することこそがふさわしい。これが出発点です。主の祈りの第5の祈願も、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」の『罪』を、少し前には『負債=借金』と言い表していました。マタイ福音書18:21-35のたとえ話こそがその大きな根拠・土台であるでしょう。王にばくだいな借金のある家来が王のもとに呼びつけられ、借金の返済を求められた。家も土地もすべての財産も売り払い、自分も家族も奴隷として身売りしてもなお全然足りない。「待ってください」と頼んだ。王はその家来を可哀想に思って、借金をすっかり全部、帳消しにしてやった。けれど帰り道にその家来は自分にわずかな借金のある友と出会い、「すぐに全部を返せ」と脅し、牢獄に閉じ込めた。ふたたびその家来は王のもとに呼びつけられて、きびしく叱られた、悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」
         この二つのたとえ話は、神の同じ一つの御心を告げ知らせています。あわれんで、私たちの『罪=借金』をすっかり丸ごと帳消しにしてくださる心優しい神であると。自分への借金も、みな全部、神への借金です。マタイ18章では、友の『罪=借金』をゆるしてやらなかったから、神は「悪い僕、不届きなしもべだ。わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」ときびしく叱る。ここでは、仲間たちの『神への罪=借金』を減額してあげて、「よくやった」と神に喜ばれています。神からゆだねられている財産を、「神を愛し、互いに愛し尊び合って生きる」ために使うことができるなら、その財産を神の御心にかなって、適切に使ったことになりますね。それこそが神の家に招き入れられる秘訣であると。その知り合いや隣人たちこそが、お前を神の国へと招き入れてくれると。

         罪をゆるすことができるのは、神さまだけです。罪をゆるし、神に逆らう罪から解放してくださるために、救い主イエスは世に来られました。そのゆるし方は、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである」(コリント手紙(2)5:18-20,ローマ手紙3:21-27)という無条件の、ただ恵みによる、ただ憐れんでゆるすというゆるしです。復活の朝、主イエスはその『罪をゆるす』職務を弟子たちに託しました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ福音書20:21-23)。神があの召使たちやあなたや私に対して、いつ、どういう場合に、心を痛めたり怒ったり、きびしく叱ったりなさるのか。どういうときに、喜んでくださるのかも分かります。主人である神を愛するためには、隣人を自分自身のように愛し、尊び、憐れみ合うことが必要不可欠でありつづけます。「神を愛し、隣人を愛し尊べ」と命じる神の律法は、そのまま直ちに、この私たちも「神を愛し、隣人を愛することができる」という神の福音そのものでもあったのです。神に聴き従って幸いに生きることができるし、すでにそこは神の国の領域の内側です。いかがでしょう。これで、すべての謎の糸がほぐれたでしょうか?