2017年11月15日水曜日

11/12「招かれる者は多いが」マタイ22:1-14

                                  みことば/2017,11,12(主日礼拝)  136
◎礼拝説教 マタイ福音書 22:1-14                       日本キリスト教会 上田教会
『招かれる者は多いが』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
22:1 イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、2 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。3 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。4 そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。5 しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、6 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。7 そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8 それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。9 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。10 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。11 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、12 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。14 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。(マタイ福音書 22:1-14)
                                               


  まず1-2節。「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである」。この私たち一人一人のためにも、救い主イエスご自身がたとえ話で語りかけておられます。神がどんな神であり、その神のご支配のもとに生きる者たちの幸いと祝福がどんなものであるのか。その幸いな者たちがどのように生きることができるのかを教えようとしてです。私たちすべての人間とすべての生き物たちは婚宴に招かれたお客です。神を信じる者も信じない者たちも、すべての人間と生き物たちがその喜ばしい婚宴に招かれ、祝福と救いへと招かれつづけています。とくにクリスチャンは、その王さまの王子であられる主イエスと結婚して、新しい家庭を築き上げようとする、現にこれまで主イエスとの新しい家庭を築き上げつづけてきた、花嫁でもあります。そのことを、よくよく覚えておきましょう。
  3-8節。旧約聖書の時代からつづく、神とその民とされたイスラエルの歴史です。王であられる神さまのしもべである預言者たちが、婚宴に招かれていた人々を、つまり先祖と私たちを呼び集めようとしつづけます。けれどその人たちは来ようとしなかった。そこで他の預言者たちが王のもとから次々と遣わされて呼ばわりつづけました。「食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください」と。はじめに招かれ、また繰り返し何度も何度も招かれつづけていたのは、神の民イスラエルです。「食事の用意ができました。すべての用意ができました。さあ、おいでください」。さあ、おいでください。祝福に満ちた喜ばしい救いと解放のときが間近に迫っているからです。すべての預言者たちによる招きがつづき、積み重ねられ、やがて救い主イエスご自身によって、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15と。福音と、神の国の中身もまたはっきりと告げ知らされました。恵みに値しない、まったくふさわしくない罪人を、けれども憐れんで救う救いであると。主の律法が先祖と私たちのうちに置かれ、心に記され、刻み込まれる。ついにとうとう主は先祖と私たちの神となり、私たちは主の民となる。小さな者から大きい者まで誰もが皆、主が主であられることを知り、どんな主であり、主の御心はどのようであるのかをはっきりと知るようになる。主が私たちの不義をゆるし、もはやその罪を思わず、私たちもまた罪と古い自分自身から救い出されて、神の御心にかなう歩みをしはじめると(エレミヤ31:33-34,ローマ6:1-11参照)
  けれどもなお先祖と私たちは主の招きに応えようとせず、なかなか主のもとへと立ち戻ってこようとしませんでした。知らんぷりをしたり、自分の畑に出かけ、自分の商売や大事な約束や他の用事があるなどと口実を並べ立ててそれぞれの道へと出かけてゆき、またほかの者たちはこれらの預言者たちを捕まえて侮辱を加えたうえで殺してしまいました。7-8節「そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった」。神の民イスラエルの王国は人間の王が立てられて四代目で南北2つに引き裂かれ、やがて北王国イスラエルが、つづいて南王国ユダも滅ぼされ、都の城壁も神殿も町も焼き払われ、打ち壊されて廃墟とされました。ここでよく分かっている必要があるのは、たまたまどこかの悪者たちが彼らを打ち倒したのではなく、王である神ご自身がご自分の民をきびしく懲らしめ、悩みの中に据え置いた、ということです。「悔い改めて、主なる神のもとへと立ち返れ。そうでなければお前たちは滅びる」と何十年も何百年も呼ばわりつづけ、けれど、神を信じて幸いに生きるはずの人々は、どうしたことか神さまを二の次、三の次にし、後回しにしつづけて、少しも耳を貸そうとしなかったからです。なんということでしょう。それが、先祖と私たちの歴史です。そのとおり。先祖も私たちも、あまりにふさわしくなかったからです。

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  さて、9-14節はかなり難しくて、ここに込められている神さまご自身の御心を受け止めるためには、心を鎮めて、よくよく思いめぐらせねばなりません。9節以下、「だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。そこで、僕(しもべ=召使い)たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。初めから招かれていたユダヤ人たちはふさわしくなかった。だからそのふさわしくない彼らは退けられ、その代わりに、「王の僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきた。それで婚宴の席は客でいっぱいになった」。そのように婚宴の席に連れてこられ、席に座らせられたのが、今日のキリスト教会であり、私たちクリスチャンであるというのです。選り好みも区別も分け隔ても何もなく、街の大通りに出かけてきたしもべたちが出会った者たちが片っ端から、善人も悪人も、親切な人も意地悪な自分勝手な人たちも、賢くて役に立つ人も、あまり賢くなくて、たいした役に立たない人もどんな人でも、ただただ連れて来られた。このことを、私たちは覚えておきましょう。「何か取り柄や見所があって、だから、この私は神さまから招かれた」と思っていた人もたくさんいるでしょう。私たちの性分や好みにも合わず、とうてい受け入れ難いことですが、なにしろ聖書自身がこう語っているのですから、気に入らなくてもシャクにさわっても、このまま受け取らねばなりません。しかも、主イエスが直々に、「こういうことだった」と仰った。しかも、この箇所だけがそう主張しているだけではありません。聖書全体が、「本当にそのとおりだ」とこの報告を強く支持しています。例えばローマ手紙3:22以下は、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(だからこそ)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。価なしに、神の恵みによって、義とされつづける。そのとおり。
  ここで一番の難問は、『婚礼の客としての礼服』問題です。「僕(しもべ)たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。奇妙なことです。すごく難しいでしょう? 善人でも悪人でもみな集めてきた。しかも、道で出会った人たちをそのまま直ちに連れてきて、婚宴の席に座らせた。では、礼服を着ている人たちは、いつどこでそのふさわしい礼服を用意し、どうやって調達したのか。たまたま礼服を持っている人たちもいたとしても、家に取りに帰って着替える余裕はありませんでした。ですから、以前から持っていた自分の持ち前の礼服や晴れ着などではありません。その礼服は、高いお金を払っても買えませんし、どの店にも売っていません。神の国の、憐れみ深く正しい王からの気前の良い贈り物であるからです。王ご自身が用意して、手ぶらで着の身着のままでやってきた者たち一人一人に分け隔てなく区別なく一人一着ずつの礼服を贈り与え、それを着せてあげたはずです。そのほかに、ふさわしい礼服を用意する方法はありません。招かれて婚宴の席に座らされた者たちは、一人残らず全員が、王によって用意していただいた『神の国の祝宴にふさわしい礼服』を着させられていたはずでした。それなのにどうして、着せていただいたはずの礼服を着ていない、贈り物としていただいた礼服を脱ぎ捨て、投げ捨ててしまった、あまりにふさわしくない不届きな者たちがいるのでしょうか?
  そして、『神の国の祝宴にふさわしい礼服』とは、いったいどういう礼服なのか。それは、主イエスを信じる信仰です。クリスチャンにとって、良い行いは他のどこからでもなく、ただただ主イエスを信じる信仰から芽生え、育ってゆくはずのものだからです。それでもなお、旧約聖書の時代に先祖たちの多くが神に背き、神の恵みと祝福からこぼれ落ちてしまったように、今日のキリスト教会の中でも、この私たちの間でももちろん、まったく同じことが起こりえます。だからこそ 主イエスがわざわざこのたとえ話を、私たちに向けても語り聞かせておられます。せっかく神の国の祝宴へと招き入れられ、祝宴の席に座らせていただきながら、なおその格別な祝福や恵みを受け取り損ね、その恵みからこぼれ落ちてしまう者があっては困るからです。神の国の王からせっかく直々に招き入れられた私たちですから、汚れと邪悪さにまみれた古い罪の自分を脱ぎ捨て、つまらない怒りや妬み、悪意、不品行と貪欲と、心の中の恥ずべき思いと口からついつい出て来る恥ずべき言葉を脱ぎ捨ててしまいたいからです。ぜひ何としても、新しい生命へと移し入れられたいのです(コロサイ手紙3:5-10,ローマ手紙6:1-11。喜ばしい晴れ晴れとした礼服を、それぞれ一人一着ずつ着せかけていただいた『神の国の祝宴にふさわしい礼服』を着せかけられたまま着つづける私たちでありたいからです。それこそが神ご自身の心からの願いであるからです。
  古い罪の自分を脱ぎ捨てて、キリストを着せかけられたのだ、と聖書は証言します。それこそが、『礼服』の中身であり正体です。「あなたがたは皆、イエスキリストにある信仰によって、神の子なのである。キリストのうちに沈め入れられる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのである」「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ガラテヤ手紙3:26-27,ローマ手紙13:11-14参照)。主イエスを信じて生きていこうと決心し、洗礼を受けたあの最初の日にキリストを着せかけられた私たちです。だから、うっかり脱ぎ捨てたりせずに、それをそのまま着ていようではないかと。そのためにこそ、キリストは丸裸になってくださいました。私たちにご自身を着せかけてくださるために。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-。ご自分の栄光も尊厳も生命さえ脱ぎ捨てて、すっかり虚しくなり、おのれを低くし、御父への従順の限りをつくしてくださったお独りの方がおられます。私たちもまた、同じくそのように新しく生きることができるために。あなたのためにも私のためにも、それを成し遂げてくださいました。「二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ6:24と習い覚えてきました。『二人の主人問題』はそのまま直ちに、『二着の礼服問題』でもあります。仕えることのできる主人が独りだけなら、もちろん礼服も晴れ着も一人一着限りです。『キリストの礼服』を着せていただいたままに生涯ずっと着ているのか、それとも『古い罪の自分』(ローマ6:1-23参照)という汚れて汗臭くて嫌な臭いのするボロボロの服にしがみつきつづけるのか、そのどちらかです。両方を重ね着することは誰にもできません。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである。「自分が自分が」と言い張りつづけて、サタンと自分の腹の思いの奴隷にされ、言いなりに従わせられようとするとき、そのとき、私たちは『キリストの礼服』を今にも投げ捨てようとしています。いいえ、そうであっては困ります。死と滅びへと至らせるボロボロで薄汚い服をポイと脱ぎ捨てて、生命と格別な幸いへと辿り着くことができます。生命と格別な幸いを一日また一日と受け取りつづけて、晴れ晴れ清々として生きて死ぬことができます。あなたも私も共々に。