11/5 こども説教 ルカ15:25-33
『怒り悲しむ兄を』
15: 27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。 (ルカ福音書15:25-32)
帰ってきた弟のためにあんなに大喜びに喜んでいる父さんの姿を見て、兄さんはうらやましくなりました。さびしくて、ねたましくて、悔しくて、腹が立って腹が立ってしかたがなくなりました。いままで我慢して積もり積もっていた山ほどの不平不満が、とうとうバア~ンと爆発して、溢れ出てきました。29-30節の兄さんの言い分を聞いてください、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。こういう淋しさや悔しさを味わったことがありますか。こういう悲しい気持ちになったことがありますか。ずっとお父さんの家にいて、お父さんといっしょに暮らして、けれど兄さんは迷子になっていました。いつのまにか、どんなお父さんなのか、どんなに大事に愛されてきたのかがすっかり分からなくなっていました。本当は、十分すぎるほどの豊かな贈り物を与えられつづけてきました。けれど、「何もしてもらっていない」と、今では思い込んでいます。あの兄さんは。
お父さんから愛されつづけてきた、とてもとても幸いな息子たち、娘たちよ。お父さんの言葉に、よくよく耳を傾けましょう、31節、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」。
【補足/神さまに対して怒っている淋しいクリスチャンたち】
聖書の中にたくさん登場します。その誰も彼もが、この兄さんと
そっくりです。例えばカイン兄さん、預言者ヨナ、ぶどう園で朝早くから働いた労働者
たち、マルタ姉さん、弟子のユダ(創世記4:1-16,ヨナ書4:1-12,マタイ福音書20:1-16,
ルカ福音書10:36-42,)、そして私たち。
ここまできて、ようやく、3つのたとえ話を語り始めるきっかけになっ
た場面に戻ることができます。主イエスが当時は軽蔑され、ないがしろに扱われていた
遊女、取税人、「罪人」と人々から見なされていた人々と親しく付き合い、語り合い、
いっしょに愉快に食事さえしていました。その姿を見て、苦々しく不平を言っていた
人々のことに。1-3節、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄って
きた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事
をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった」。自分たちこそ
は正しくふさわしいと思い込んで他者を見下していたパリサイ人や律法学者た
ち。彼らこそが、あの野原に残された99匹の羊であり、主人の手の中にあって
も嬉しくもなんともない9枚の銀貨であり、父の心を見失って悲しみ怒ってい
た兄の正体です。「自分は正しく何の落ち度もないのに、きわめて不当な扱い
を受けている」と言い張るところに、彼らの共通点もあります。「わたしは何か年
もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに」と兄は主張し、
「私こそが十分な良い献げものをささげたのに」とカインは傷つき、「朝早くから汗水たらして
働いたのに」「私ばかりに働かせて」などとぶどう園の朝早くからの労働者たちやマルタ姉さん
は眉間にシワを寄せ、ねたみます。それは同時に、キリスト教会の中にくすぶりつづ
ける淋しく物悲しいクリスチャンたちをはっきりと写し出す鏡です。