11/26 こども説教 ルカ16:19-31
『貧しいラザロと金持ち』
+【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
(2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、誰でも必ず良い実を結ぶようになる。神こそが、主イエスを信じる者たちに、それをしてくださる】
16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20
ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22
この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。・・・・・・27
そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。(ルカ福音書16:19-31)
昔々あるところに、ある金持ちがいました。毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの家のすぐ玄関先に、ラザロという名前の貧しい人が座り込んでいました。全身ができ物でおおわれていて、その上、お腹が減ってお腹が減って、「誰かが何か食べ物の残りくずでも恵んでくれないかなあ。ああ腹が減った、腹が減った」と淋しい心細い気持ちで暮らすうちに死んでしまいました。神さまの使いたちがラザロを、アブラハムがいる場所に連れていってくれました。そこは、神さまがご支配なさっている天の国です。金持ちもやがて死んで、彼は、死んだ人たちが苦しみつづけるヨミという名前の地獄に連れていかれました。死んで苦しみつづける金持ちが「私を憐れんでください」とアブラハムに呼びかけました。25節以下、アブラハムは答えました。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」。じゃあ、せめて、まだ生きている私の兄弟たちに知らせてください。私のようにならないように、悔い改めて神さまに喜ばれる暮らしをするように伝えてください。「いいや、それでも彼らは悔い改めないだろう。お前がそうだったように、あの彼らも耳を傾けようとしないだろう」とアブラハムは答えました。
それなら私の家族は、どんなふうに生きて死ぬことができるでしょうか? お姉ちゃんたちや、父さん母さんは? 学校の仲良しの友だちは。私の大切な夫や妻や、あの息子たちや娘たちは。孫たちは? あ! そもそも、この私自身はどうだろう?
+【補足/(1)ただ恵みによって救われる。
(2)救われたものは、隣人を自分自身のように愛する者へと少しずつ
少しずつ作り替えられてゆき、良い実を結ぶようになる。神が、それをしてくださる】
誤解されやすい、とても難しい問題をふくんでいます。この箇所や、マタイ福音書25:31-46などを読むと、まるで「人に親切にしたり、良い行いをしたら救われて天国に入り、そうでなければ地獄に落とされる」かのように思えます。心を鎮めて、聖書全体がどう語ってきたのかと、つくづく思いめぐらせねばなりません。礼拝説教のメッセージから、日頃の信仰の教えから、この私自身はどう習い覚えてきただろうかと。聖書が語るとおりに、(1)「ただ恵みによって、主イエスを信じる信仰によってだけ救われる。良い行いをどれだけしたか、しなかったのかとは、まったく何の関係もなしに」(ローマ手紙3:21-27,同4:5,同5:6-11,コリント手紙(2)5:17-21,ヨハネ福音書3:16-18,使徒2:37-39,同16:30-31,テモテ手紙(1)1:12-15)です。また、誰が救われ、誰が滅ぼされるのかを、私たち人間ははっきりとは判断できません。「誰が天に上るか、誰が底知れぬ所に下るだろうかと言ってはならない」と戒められ、洗礼を受けた信仰者の中にさえ救いからこぼれ落ちる者さえいると釘を刺されます(マタイ13:25-30「麦と毒麦」)。神のみがご存知であり、私たち皆が深く慎まねばなりません。(2)「良い行いなどどうでもいい」と乱暴に切り捨てているのではありません。「罪のゆるし」と語られつづけてきた福音の中身は、「罪人をゆるして救う神であり、だから生涯ずっと罪深いままで良い」などと放置されるのではありません。それでは何の救いでもなく、信じることが絵空事になってしまうではありませんか。そうではなく、「罪のゆるし」は罪からの解放であり、罪を犯さない者へと新しく造り変えられてゆくことです。救われ、恵みを受けた結果として、神ご自身が、こんな私たちをさえ善いものへと造り変えてくださいます。主イエスを信じる者たちは、必ず善い実を結ぶことができます。私たち人間には逆立ちしても、100年200年かかってもできません。いくら頑張っても、堅く決心しても、断食しても滝に打たれて厳しい修行を積み重ねてもできません。なぜなら人間は神ではなく、たかだか人間にすぎないからです。けれど神ご自身こそが、この私たちのためにも、それを成し遂げてくださいます。「神にも人様にも逆らいつづける罪」と、「私が、私が」と頑固に言い張りつづける腹の思いの奴隷状態から、救い出していただけるのです。神の御心に従って生きることが、私たちにもできます。神が、させてくださるからです(ローマ手紙6:1-8:17,マタイ19:25-26「だれが救われることができるだろうか?」。イエスは言われた、「人にはできないが、神にはなんでも出来ないことはない」。)。