みことば/2017,9,10(主日礼拝) № 128
◎礼拝説教 マタイ福音書 20:17-28 日本キリスト教会 上田教会
『仕えるしもべになりなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。21
そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。22
イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。23
イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。24
十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
(マタイ福音書 20:20-28)
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17-19節と20節以下をつづけて読みました。20節冒頭「そのとき」と報告が始まります。主イエスの弟子2人とその母親が主イエスに願い事をしはじめたそのタイミングが大事な意味を持っています。主イエスがご自分の死と復活を3度目に予告した直後に、そこでと。「3度予告した」というのは聖書に馴染み深い言い方で、ただ3回仰ったという以上に、300回も3000回も何度も何度もしつこく繰り返して、という意味です。その挙句に、その矢先に彼らはこういうことを願い出る。また22節の主イエスとその弟子たちとのやりとりにも注目しましょう。「私が飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるか」「はいはい、できます。パンでも杯でも、いくらでもいただきますよ」。なんという軽はずみ、主イエスは十字架の苦しみと死を『杯』と仰った。けれど、そんなことを少しも考えもしない。主イエスのあまりに苦い救いの御業を聞き流しつづけ、すっかり棚上げして、彼らはずいぶん違うことを思い描いています。だからこそ、「そのとき」と。
20-21節。2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出て、願い事を言おうとしました。「何をしてほしいのか」と主から問われ、母親が代表してこう言いました。「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。彼らの申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎとなりました(24節)。母親とその息子たちの願いの中身は、いったい何だったのでしょうか? 主イエスの弟子たちを含めて多くの人たちは、「彼らは権力と名声を主イエスに願い求めたのだろう。主イエスが王様のイスに座るとき、その右と左に。つまり、右大臣や左大臣、内閣官房長官や外務大臣、大蔵大臣などという主要な役職につかせてもらおうと願ったのだな。なるほど」と推測しています。そうかも知れません。そうではなかったかも知れません。それより何より、その直前に主イエスはご自分の死と復活を弟子たちに告げていたばかりでした。17-19節「私は祭司長、律法学者たちの手に引き渡され、死刑を宣告され、あざけられ、むち打たれ、十字架につけられて殺される。その三日目に墓からよみがえる」と。三度目の予告でした。けれど弟子たちは、あっさりと聞き流して、そんなことは何一つ聞かなかったかのようにして、王座につく主イエスと自分たちの晴れ晴れしい栄光の姿を思い浮かべています。それじゃあ、ここにいるこの私たち自身はどうでしょうか。あなたは何が望みでしょう。何がどうであったら晴れ晴れと喜びに満ちて暮らしていけるでしょう? 主イエスご自身からの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
「あなたがたの間ではそうであってはならない」。主イエスは、どこの誰に向かって仰っているでしょう。ご自分の弟子たちに。キリストの教会に。そしてもちろん、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば、教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり振り回したり回されたり、神によって造られた、たかだか人間にすぎない者同士でむやみに崇めて奉ったり見下したりし合っているからです。「あなたがたの間ではそうであってはならない」と厳しく戒められています。信じたことが無駄になってしまい、せっかく受け取った恵みがすっかり台無しになってしまうからです。『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない小っぽけな人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、あの彼らはいつも不安です。片隅に押しのけられ、邪魔者にされ、誰からも相手にされず見捨てられてしまうのでは、「もうすでに、そんな扱いを受けているのでは」と。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。あなたにも、心当たりがありますか?(創世記4:1-16,同4:19-24,同9:18-28,同11:1-9,同12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,同32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,同15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13,
26-31, 3:3-9, 4:6-)。聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。けれどいったい、「仕えるしもべとなりなさい」(27節)と仰った主イエスは何を伝えようとしていたのでしょう。私たちの救い主は、「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(マタイ20:28)に来てくださったのです。聖書66巻は「仕えなさい」「思い上がってはいけません。身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。だって、それだけでは私たちは、ただただイジケたり僻んだり拗ねたり、「どうせ私は」とガッカリするだけですから。だから、不平不満がいつのかにか心に溜まりつづけてしまう、心淋しい兄弟姉妹たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ2:6-)ことを。あなたを、この『だれが1番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう誉めたり見下したり、誉められたり見下されたりすることからも、名誉や格式や社会的なご立派な肩書きや世間体や体裁ばかりを気に病みつづけることからさえ自由な者とするために。聖書自身も警告しつづけます、「大手大企業の代表取締役係長補佐だの名誉会長だのと、ひとりの人を崇め、ちやほやとたてまつり、ほかの人々を見下げて高ぶることが決してないように。なぜなら、あなたがたの持っている地位も名誉も能力もそこそこの才能も何もかもすべて一切、神からの恵みの贈り物ではないのか。ではなぜ、誇ったり互いに崇めたりして高ぶっているのか。良いお方、正しくご立派な方はただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに。良いおかた、正しくご立派なかたは、ただただ神さましかおられないのに。主イエスから直々にそう教えていただいているのに、その神さまを差し置いて。神さまを抜きにして」(コリント手紙(1)1:26-31,同4:6-7,マタイ19:17「よい方は、ただ神おひとりだけである」参照)。しかも、なぜ《仕えるしもべの心低い場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。すべての人の後になり、皆に仕える者となってくださった救い主が、その《仕えるしもべの心低い場所》を私たちとの待ち合わせ場所となさったからです。そこで、素敵な贈り物を受け渡ししてくださろうと待っておられます。格別な恵みと平和とを。ですから、皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしている、先頭の上のほうにいるその人たちは、待ち合わせ場所を間違えています。ああ残念です。いくら待っていても、いつまで経っても救い主はそこに現れません。心底から、知りたいのです。神さまとの待ち合わせ場所がどこなのかということを。福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所。それがいったいどんな場所なのかを。
「クリスチャンは誇りを持ってはいけないんですか?」と、度々質問されます。コリント手紙(1)1:31、それとローマ手紙3:21-31。聖書からの答えははっきりしています。「誇る者は主をこそ誇れ」。また、「キリストの十字架以外に、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ手紙6:14)。そして《誇る》とは、頼みの綱とし、支えや拠り所とすることです。もし、あなたがどうしても何かを誇りたいのならば、主をこそ誇りなさい。それなら良い。それ以外は止めときなさい。自分に固執しようとなさらず低く下った救い主は恥をかかされつづけています。自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった主イエスは、私たちの間で、侮られ、そのようにして赤っ恥をかかされつづけています。兄弟たち。主イエスは仰いました。「よく聞きなさい。心をいれかえて、小さな小さな子供のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)。賢くて立派な、何でもよく分かっているつもりの、大きな大きな大人のつもりでは、この私たちは決して神の国に入ることはできません(「心を入れかえて」とは、文字どおりの作業です。自分の心の中の今ある中身をすっかり全部ゴミ箱に投げ捨てて、そのカラになった場所に、神さまに新しく入れてもらう。捨てる中身は、「大きな大きな大人のつもり」のもろもろ一切。ある種の依存症でもあるので、自分から捨て去るのは至難の業。とうてい出来ません。けれど、もし、ぜひそうしたいと欲するならば、「自分からは出来ませんが、どうかぜひ神さまがそれをしてください」と願い求めはじめましょう。神さまこそが、きっと必ず成し遂げてくださいます。本当のことです)。
物淋しいクリスチャンたち。神さまが、神であるままに同時に人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身のごく普通の人間にです。ご立派で理想的な人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかった。自分で自分を無になさった。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。こだわりつづけ、我を張ってしがみつきつづける私たちは驚いて、目を見張ります。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう? 主イエスの弟子ヤコブもヨハネも、その母親も、他の弟子たち皆もうっかり聞き流してしまいました。あるいはわざとに、聞かなかったふりをしたのかもしれません。あまりに耳障りが悪かったので、都合も良くなかったので、聞きたい内容ではなかったので。その後2000年にわたって今日まで、その最も大切な教えを軽々しく聞き流しつづけています。キリストの教会は、1人1人のクリスチャンは。そして私たち自身も。主イエスは問いかけます、「私の飲もうとしている杯を、あなたがたも飲むことができるのか。本当か?」。なんと答えましょうか。ここにいる私たちは知らされています。よくよく知らされています。兄弟姉妹たち。その十字架の死と葬りと復活は、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)です。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょう? 善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。例えば箸にも棒にも引っかからなかった、あのどうしようのないニネベの人々よりももっと5倍も6倍も弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。そのあまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、極めつけの惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。正しく良い人間だから救われたのではありません。恵みに値するふさわしい、美しい心の優秀で立派な人間だから救われたのでもありません。可哀想で可哀想で仕方がないので、憐れんでいただいて、それで惨めで虚しい死と滅びの場所から引き上げていただいたのです。キリスト・イエスがまず限りない忍耐をその彼らにお示しになり、その彼らを、救い主イエスを信じて救われる人々のための手本とするために。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)。では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。……おめでとう、恵まれた方々。私たちは主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、貧しく小さな私たちにも偉大なことをなさりつづけています。キリストが死人の中からよみがえらされたからには、この私たちもまた新しい生命に生きる者とされました。わたしたちの内にある古い罪の自分はキリストと共に十字架につけられました。この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためにです。神をそっちのけにして、自分自身と周囲の人々のことばかり虚しく思い煩いつづける『罪』から解放されるためにです。キリストと共に死んだ私たちですから、またキリストと共に生きる者とされた私たちです。罪に対して死んだ私たちであり、キリスト・イエスにあって神の御前で、神に向かって生きている私たちです。朝も昼も晩も、どこで何をしていても。それは、なんという幸いでしょう。
* 次週、9月17日は、他の講師による伝道礼拝。その講師自身の判断で、説教印刷物を配布しません。HP版も不掲載です。「当日、来てくださった方が聞いてくださるだけで十分」とのこと。ご理解ください。