2017年7月3日月曜日

7/2「迷い出た一匹の羊を」マタイ18:12-14

                               みことば/2017,7,2(主日礼拝)  118
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:12-14                  日本キリスト教会 上田教会
『迷い出た一匹の羊を』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。(マタイ福音書 18:12-14)
                                               
34:1 主の言葉がわたしに臨んだ、2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。3 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。・・・・・・10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。(エゼキエル書 34:1-11)



  12-14節。同じ一つのことを思い巡らせつづけています。神ご自身にとって、私たちが何者であるのか、どれほどの意味と価値があるのかを。神が私たち一人一人をどう思っておられるのかを。『一人の幼子』『一人の小さな者』『迷い出た一匹の羊』。それが、神ご自身にとっての私たち一人一人です。小さな子供、小さい者の一人、一匹の羊。それらの共通点は、小さくて弱くて危うい存在であるということです。小さな子供は、その子を愛する親の守りと支えを必要とし、それがなければ健やかに心安く生き延びてゆくことができません。羊は身を守るための武器も道具も何一つもたない、するどい牙も角も強い腕も、早い足もよく聞こえる耳もなく、あまりに無力で無防備な生き物です。心にかけ養い守ってくれる良い羊飼いが頼みの綱です。そのような私たちです。
 羊たちと羊飼いのことを話します。イスラエルの国では羊飼いはごく普通の仕事でした。あちこちで、羊飼いが羊の世話をして暮らしている姿をいつも見ていました。家族の中でもお兄さんやお父さんが羊飼いだったり、親戚のおじさんも羊飼いだったりして、その暮らしぶりを皆がよく知っていました。そうした中で、「羊飼いのような神さまだ。その神さまに世話をされ、養われる羊のような私たちだ」(詩23,78:72,80:1,100:3,イザヤ53:6と神を信じる人々は実感しつづけました。さて、神さまご自身が羊飼いであるとして、私たち人間の世話をしたり助けたり守ってあげるその羊飼いの仕事を人間にもさせました。王や祭司や預言者や役人たちなどがその係。つまり、神さまこそが私たち人間の世話をしたり助けたり守ってくれる羊飼いなんですが、人間にもその羊飼いの仕事をさせました。けれど困ったことに、羊飼いの仕事を任せてあった人間たちがその仕事をちゃんとしない。それで、たくさんの人たちがいじめられたり、乱暴されたり、除け者にされたり、追い払われてあちこちに散り散りになったりしました。そのあまりにかわいそうな姿を見て神さまはカンカンに怒ったり、悲しんだりしました。神さまが預言者に語りかけました。エゼキエル34:1-11;「主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。・・・・・・主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない」。羊飼いの仕事を任せてあった人間たちに向かって、神さまは言います。「王も祭司も預言者も役人たちも、全員クビ。だってお前たちは自分のことしか考えていないじゃないか。もう、お前たちに任せてはおけない。私が自分で羊たちを探し出し、自分で彼らの世話をし、自分で彼らを養い、守っていく」と。やがて来る救い主は、羊飼いのような救い主である(23-24)。人々は神さまのこの約束を信じて待っていました。ある日、ナザレ村から来たイエスという人が、人々を集めて、おかしなことを語り始めました。「ある人が100匹の羊を飼っていてその1匹が迷子になりました。その羊飼いはどうすると思う。もちろん大慌てで探しに出かけて、どこまでも探し、とうとう見つけて大喜びでその羊を連れ帰りますよ。『皆さん、いっしょに喜んでください。いなくなっていた羊を1匹、とうとう見つけたんですヨオ』って」。このイエスさまは、人々がまるで世話してくれる羊飼いを持たない迷子の羊のように弱り果て、がっかりして暮らしている姿を見て、ああかわいそうになあと心を痛めておられました。また、こんなことも語り出しました。「私は良い羊飼いです。だって、羊のことをちゃんと心にかけていますから。その羊たちを連れ戻して救うためには、自分の生命さえ喜んで投げ出しますから」(ルカ福音書15:3-7,マタイ福音書9:36,ヨハネ福音書10:11-18参照)。聖書を読んで教えられてきた人たちはピンときました。「じゃあ、この方が、あの約束されていた羊飼いだったのか。神さまが約束してくださったことが、イエスというお方をとおして本当の出来事になるのか」。

             ◇

 「ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出た羊を捜しに出かけないであろうか」。まず、普通は誰もそんなことはしないとよくよく分かっている必要があります。100匹の羊のうち99匹が安全に問題なく飼育されているなら、普通はそれで十分です。2匹や3匹が大ケガをしたり重い病気にかかって命を落としても、泥棒に盗まれたり獣に襲われて食べられてしまったとしても、それはあまり大きな損害とは言えません。多分、レタスや大根についても同様です。100個の収穫を見込んでいたとして、そのうち2個3個が害虫に食べられたり、悪天候のせいでひどく傷んで売り物にならなくなってゴミに捨ててしまったとしても、その程度なら、気に病むほどの損害ではありません。つまり、100匹の羊を飼っている『ある人』は、ごく普通の酪農家とはまったく違う考え方をしています。12節、「99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる99匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう」。まず、「あなたがたはどう思うか」と問いかけられていました。99匹の羊を山に残し、迷い出た一匹を捜しに出かけ、もしそれを見つけ出すことができたなら、その一匹のために大喜びに喜ぶ。もし、無事に見つけ出すことができなければ、その失われた一匹の生命のために深く嘆き悲しみ、心を痛める。そのように小さい者のひとりが滅びることを決して望まず、ひとりも失われず、滅ぼされもせず生き延びることを心から願い求めて止まない。天の父の御心はそこにあると。あなたや私のいつものモノの考え方・感じ方とはずいぶん違うと、はっきりと気づく必要があります。神さまの考え方・感じ方、なさり方は、私たち人間とはまったく違う。けれど、何がどう違うのでしょう。都合がいいか不都合かを考えていません。ソロバンを弾いて損得を計りにかける暇もなく、ただただ憐れんでいます。ただ心配で、可哀想で可哀想で、居ても立ってもいられず、だから後先を考えもせず99匹を残して直ちに捜しに出たのです。どこまでもどこまでも捜し求めます。その小さな一匹の羊が陥った危うさ、その崖っぷち、その心細さや恐ろしさが手に取るように、自分自身のことのように分かるからです。こういう神さまだと知らせようとして、このたとえ話が語られています。ですから、いつものモノの考え方を脇に置いて、頭をすっかり切り替えましょう。
  生身の人間である羊飼いたちは、いったん全員クビにされたはずでした。けれどやがて来られたとても良い羊飼いである救い主イエスのもとに、ふたたび改めて、この羊飼いの職務が委ねられました。復活の主イエスのもとに、つまずいて逃げ去っていた弟子のペテロが連れ戻されたときに。ヨハネ福音書21:15-19です。「わたしを愛するか。愛するか、愛するか。それならばあなたは、わたしの子羊の世話をし、羊たちを養いなさい」と主イエスから直々に問い正されました。もしあなたが洗礼を受けたクリスチャンだとしたら、そのとき、「はい。そのようにして主イエスに従います」と答えたのです。ぼくは心が痛みます。「はい。そのようにして主イエスに従います」とこのぼくも答え、そのことをはっきりと覚えているからです。お詫びのしようもありません。ペテロもわたしたちも「はい。愛します」とは答えきれません。「愛するか。愛するか。愛するか」と3度くりかえされた主イエスからのあの質問は、このときのペトロの挫折と深く関わります。熱心で一途な、自信にあふれてゆるぎない彼でした。「たとえ他の弟子たち皆がつまづいても、私だけは絶対に大丈夫。何があってもたとえ死んでもあなたに付いていきます。私だけは信仰を堅く守り抜きます」(ルカ福音書22:33参照)。けれども敵に囲まれ、大きな危機と恐れにさらされる中で、あの彼もまた主を裏切ってしまいます。主が裁判を受けている間、彼はその庭でこっそりと様子をうかがっていました。その正体を疑う人々の目にさらされて、彼は主イエスと自分との関係を打ち消しつづけます。「何のことを言っているのか、私には分からない」「そんな人は知らない」「何の関係もない。まったくの赤の他人だ」と必死に言い訳するうちに、夜明けを告げて鶏が鳴きました。私たちも同じです。自分自身の弱さや貧しさをつくづくと思い知らされる。それは、だから信仰をもって生きることの出発点でした。主を知らないと3度言ってつまずいた彼は、その深い破れを、3度修復されねばなりませんでした。「わたしを愛するか。愛するか。愛するか」と問いかけながら、そのようにして主は主ご自身からの愛を彼に注ぎかけます。壁の破れ目を新しいコンクリートで塗り固めるように、私の魂の裂け目を、どうしようもないこの私自身を、主イエスの福音こそが埋めるのです。
また、「若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ福音書21:18-19という謎めいた指図についても説き明かしておきましょう。最初のごく表面的な意味としては、捕まえられてあちこちへ引き回されてゆく囚人の姿です。けれど、そればかりではなくて、クリスチャンは誰もが皆、この囚人のように生きてゆくことができます。帯を締められ、軛をかけられ、けれどもその手綱を牢役人でも看守でも他の誰でもなく、主イエスこそが握っておられます(マタイ福音書11:27-30参照)。それが主イエスに従って生きることだと。しかも不思議なことに、それこそが格別な喜びと安らかであり、背負う荷物もあまりに軽いと。びっくりですね。「若かった時」、つまり神さまを信じる前には自分が自分の主人でした。行きたいところへ行き、行きたくないところへは行かなかった。それまでは、したいことをし、したくないことをしないで自由に勝手気ままに生きることができ、それが幸いだと思い込んでいました。「愛するか。愛するか、愛するか」と3度も繰り返して問われ、心を痛めさせられたことには大切な意味があります。「私は主を誠実に愛し、力の限り愛し、主にどこまでも忠実に従いぬく」などとは決して言えない私たちです。もし本気で問われるなら、「いいえ。申し訳ありません」とうつむくほか出来ません。自分自身のふさわしくなさを、これでもかこれでもかと、つくづくと思い知る必要が私たちにはあります。愛することのできないあなたであり、この私です。自分自身の愛や誠実さなど、少しも信頼できない私どもです。もし仮に、自分自身の誠実さや愛が頼りであり、自分が頼みの綱であるならば、私共は絶望するほかありません。そうではなく、ただただ神ご自身をこそ信じ、ただ神の誠実さにこそ信頼を寄せたのです。自分自身にも他の何にも希望を託せないからこそ、神を求め、神に信頼しはじめました。それまでずっと自分を信じ、自分自身を誇って生きてきた人間が、ついに神さまをこそ信じて生きる者とされました。私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するかと問われる以前に、またこの私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうかと問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスこそが、こんな私をさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。主イエスご自身こそが、こんな私たちをさえ決して見捨てることも見放すこともなく愛し抜いてくださるという一点の真実です。「私こそがあなたがたを愛する。愛する。愛し抜く。だから従いなさい。だからあなたも、この私に従って生きて死ぬことがきっと必ずできる。この私が、小さな小さな羊であるあなたを養い、世話をしつづけ、おんぶしたり抱っこしたり、どこからでも救い出しつづけるから」と。そのとおりに、そのためにこそ 主イエスは十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負ってくださいました。わたしたちが罪に死に、ただただ神の正しさと憐れみの只中にこそ新しく生きはじめることができるために(ヨハネ福音書10:11-18,ペテロ(1)2:21-25参照)