2017年7月31日月曜日

7/30「子どものような者たちに」マタイ19:13-15

                              みことば/2017,7,30(主日礼拝)  122
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:13-15                   日本キリスト教会 上田教会
『天国は、
小さな子供のような者たちの
もの』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
19:13 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。15 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。                                             (マタイ福音書 19:13-15)
                                               

  13-15節。手を頭に置いて祈っていただくために、人々が幼な子らを主イエスのみもとに連れてきました。神からの祝福を与えるために小さな子供の頭に手を置く。そのようにして年配の者たちから若い新しい世代へと、神からの祝福がバトン・リレーのように次々と受け継がれてゆく。これが、神の民イスラエルの良い伝統でもありました。けれど主イエスの弟子たちはその様子を見て、イライラしはじめ、子供たちを連れてこようとする人々を渋い顔をしてたしなめました。主イエスは弟子たちに仰いました。「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。もちろん手を子供たちの上において、祝福の祈りをしてあげました。
  ほんの少し前に、これとよく似た出来事が起こったばかりでした。「誰がいちばん偉くて立派だろうか」と弟子たちが心を惑わせていたとき、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」18:2-3と。かなり偉いかどうか、上位入賞できるかどうかどころではなく、そんなことでは天国に入ることさえできない。だから、よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることは決してできない。天国、あるいは神の国とも言います。神が王さまとして力を発揮し、そこに住む者たち皆が安心して嬉しく暮らしていけるようによくよく心を配って、ちゃんと働いて治めておられる領域であり、領土です。救い主イエスがお働きをはじめたとき、「時は満ちた、神の国は近づいた」と仰り、また弟子たちに「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ1:15,ルカ11:20,17:21と宣言なさったのはこのことです。天と地のすべて一切の権威を御父から委ねられた王の中の王として、救い主がこの地上に降りて来られ、力を発揮し、働きはじめた。だから神の国は近づき、すでに私たちの只中にある。するとすでに、世界中のあらゆる場所が天国であり、神の国であるはずです。それでもなお告げられたとおり、天国(=神の国)に入ることがゆるされる者と、入り損なってしまう者がある。もし、心をすっかり入れかえて小さな子供のようになるのでなければ、神を信じて生きてきたことすべて一切が無駄に終わり、すっかり水の泡になってしまう。
  さて子供たちは、必ずしも素直だとか純粋で無垢だというわけではありません。それは、弱く小さく、とても危うい存在です。わが身を守る手立てもなく、もし独りぼっちで捨て置かれるならば、すぐにも死んでしまうほかない、はかなく脆い生命です。そうか、それならば小さな子供ばかりではなく私たち大人も一緒です。おじいさんやおばあさんも皆同じです。それぞれに弱さと危うさを抱えて生きていたのでした。背伸びをしてみせても空威張りをして虚勢を張っても、それでも、誰でも本当はとても心細いのです。自分を守ってくれるものを必要とし、しっかりした支えを必要としています。だからこそ愛情と慈しみをたっぷりと注がれ、心強く支えられて、そこでようやくすくすくと育っていくはずの生命です。「誰がいちばん偉くて立派で、仕事がよくできて役に立つだろう。二番目は、三番目は」と互いに見比べ合い、人様や世間からのよい評判が欲しくて欲しくてたまらない、そればかりが気にかかって気にかかって仕方がないとても生臭い弟子たちに向かって、主イエスは『主の弟子であること』の中身を伝えようとしています。小さな子供のような在り方。それこそが主イエスの弟子であり、クリスチャンであることの中身だったのです。弱く、傷つきやすく無防備な小さな子供として、私たちは天の御父を頼みの綱としつづけねばなりません。キリストの弟子である生活がはっきりとした目的をもった生活であり、力強い歩みであり、そのように神を信じて生きる意味や甲斐があるためには。
 しかも神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとし、それらを誇ろうとすることを止めて、身勝手さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」;するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、精一杯に十分に愛情を注がれ受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子は臆病で生ズルくて僻みっぽくてイジケた幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子であることの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。「私自身の考えでするのではなく私を遣わされた御父の御旨を求めている。自分の心のままを行うのではなく、私を遣わされた天の御父の御心を行うために来た」(ヨハネ5:30,6:38と自分の魂に刻みつづけた心です。御父への信頼と深い結びつき。その幸いな小さな子供の心をこの私たちも贈り与えられ、神の子供たちである身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。それならば、たとえ708090歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である自分』をついにとうとう思い出して、自分自身の心の中にも日頃の在り方にもそれをはっきりと取り戻して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。救い主イエス・キリスト。ほかの誰によっても、救いはない。私たちを救うことができる名は、天下に、この名のほか人間には与えられていない(使徒4:12)。そして、このお独りの方、救い主イエスがちゃんと与えられております。もちろんこの私にも、あなたにも。
  神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の居場所を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。「自分の働き。自分の役割。自分の働き。自分の役割」と呪文のように唱えつづけて。けれど今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちはとてもとても貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
 主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今までは、ずいぶん長い間、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていました。「人様にご迷惑をかけて申し訳ない」などと人間のことばかり思い煩うあまりに、神ご自身こそが私たちの誰よりも、その千倍も万倍も生きて働いておられることをすっかり忘れ去ってしまいました。ある夜更けに、主イエスの前で、ニコデモという名前のおじいさんが苦々しく、悲しく物寂しく言い張っていました。「人は年をとってからもう一度生まれることがどうしてできますか。シワクチャ顔で、オギャアオギャアと母さんのお腹の中から出てくるんですか。ばかばかしい。そんなことができるわけがない。そんなタワ言を信じられるわけがない」と。なんて可哀想で憐れな、惨めな惨めなおじいさんでしょう。主イエスは、分かったつもりになって何も分かっていなかった、分かろうともしなかったあのおじいさんと、そしてここにいる私たちに向かっても仰います。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、新しくもう一度、小さな子供になるのでなければ、神の国を見ることはできない。そこに入ることも、そこで幸いに喜びにあふれて暮らすこともできない」(ヨハネ福音書3:3参照)と。その私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食い、回り道をしてしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。多分、まだ間に合います。

          ◇


 十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と主イエスは必死に祈っていました。天の御への信頼にしがみつき、それを改めて受け取ろうとしていました。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の者たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。だんだんと少しずつ。天の御父への十分な信頼。幼な子のようになるという、その幼な子の中身はこれです。神への信頼が健やかにすくすくと育ってゆくのかどうか、信仰の中身もこれです。ですから主イエスは弟子たちに仰いました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31-33と。『神の国』、それは神が全世界の王として力を十分に発揮してくださることであり、その領域の中にこの自分自身も住まわせていただくことです。『神の義』、それは王の中の王であるその神が正しく真実であり、慈しみ深くあってくださること。『まず神の国と神の義を求めよ』とは、最初にはそうしなさいということでなく、最初から最後までずっと、いつでもどこでもどういう場合にも、神が慈しみ深い真実な王として力を十分に発揮してくださることを求め続けよ。他一切はすべて添えて与えられると約束されているのですから、他のことは願うまでもないといいうことです。神を知り、神に十分に信頼を寄せ続けて生きることができるなら、それで十分だったのです。小さな子供たちよ。とても幸いな小さな子供たちよ、そのとおりです。そのようにして、神さまとの格別な出会いを一回また一回と積み重ねてきました。ですから私たちも、「わたしの思いではなく、他の誰の思いや願いや考えでもなくて、ただただ御心のままになさってください」と天の御父に信頼しています。すっかり全部をお任せし、安心して、この私たちも、もう小さな子供です。神の憐れみのもとに、神の子供たちとされました。