2016年12月26日月曜日

12/25「夜はふけ、朝が近づいた」ローマ13:11

 ◎とりなしの祈り

 慈しみ深い父なる神さま。あなたが憐れみ深くあってくださいますように、その憐れみを贈り与えられつづけてきた私共も、隣人に対して憐れみ深い者であらせてください。小さな貧しい人々に、温かく手を差し伸べる私たちであらせてください。多くの良い者を豊かに贈り与えられてきた私共に、もう一つ、隣人を愛する心をどうか贈り与えてください。なぜなら主よ、片隅に押しのけられて貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。ないがしろに扱われ、貧しく心細く暮らす彼らの喜びと悲しみを、彼らの惨めさと心細さを、どうか今日こそ、この私たち自身のものとして、はっきりと感じ取らせてください。主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン


                                  みことば/2016,12,25(クリスマス礼拝)  91
◎礼拝説教 ローマ手紙 13:9-14                         日本キリスト教会 上田教会
『夜はふけ、朝が近づいた』
  

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
13:9 そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。11 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。14 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。                                                             (ローマ手紙 13:11-14)

1:1 はじめに神は天と地とを創造された。2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。                                                   (創世記 1;1-5)





 12節。「夜はふけ、日が近づいている」と語りかけられています。どういうことでしょう。ごいっしょに思い起こしましょう。はじめに、神は天と地とをお造りになりました。地は形なく、むなしく、大きな水の面を真っ暗闇がおおっていました。神は「光あれ」とおっしゃいました。神はその明るく輝く暖かな光を見て、「良し」とされ、光と闇とを分け、光を朝、やみを夜と名づけられました(創世記 1:1-5参照)『夜。薄暗がり、真っ暗闇』。それらは、毎日繰り返されるいつもの夜と朝ばかりではなく、私たち人間の心がもらたしつづけた薄暗がりや真っ暗闇でもあります。この日本でも、日本だけではなく世界中のあちこちでも、神をおしのけ、自分の隣り人を憎んだり押しのけたり踏みつけたりしようとする人間の心がますます強く大きく、あからさまになってこようとしています。「自分と自分の家族さえよければそれでいい」と多くの人々が声高に叫びはじめ、自分たちの周りに高い高い壁を築きあげようとしています。子供たちが、多くの大人たちのそういう薄暗い姿や真っ暗な心のあり方をすぐそばで見たり聞いたりしつづけています。
  「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」8-10節参照)と、私たちは神から命じられています。命じられているだけではなく、「愛することが、あなたにもできるから」と堅く約束されてもいます。ただ誰かに意地悪をしたり、誰かを除け者にしたり困らせたりしないというだけではなく、愛することはその人に平和と憐れみと友情を示し、その人にふりかかる困ったことを精一杯にふせいであげ、自分に反対したり嫌なことをしてくる相手にさえ良いことをしてあげることだと教えられています(ハイデルベルグ信仰問答 問107参照,1563年)。国語辞典を引くと、隣人とは『わりと近くに住んでいて、ほんのちょっとでも何か自分と関わりのある人たち』のことだそうです。でも、それだけじゃあ、よく分かりませんね。わたしたちの隣人とは例えば、ヨソの国から来てこの国で暮らしている人たちです。彼らはののしられたり、あざけり笑われたり、しばしばひどく汚い言葉を投げかけられながら、肩身の狭い惨めな思いをして日本で暮らしています。アジア諸国からの農業研修生、職業実習生たちも同じです。彼らは安く便利に使い捨てられようとし、働いた分の賃金を勝手にむしり取られ、きびしい労働条件で働かされています。「仕事の仕方を教えて育ててあげる」というフリをしながら、本当にはただ便利に安く働かせ、自分たちに都合がいいようにその人たちをコキ使っています。日本中どこででも、この地域でも、そういうことが起こっています。たくさんの農家の人たちと農協と工場経営者と日本国政府は、また、見ても見ない聞いても聞こえないフリをしている私たち普通の人々も その悪いことを悪いことだと分かりながら放ったらかしにしています。また隣人は、沖縄の同胞たちです。彼らは、いまだに植民地扱いされ、ないがしろにされつづけています。本当に申し訳ないことです。アメリカ軍のヘリコプター施設の建設に抵抗する人々を同じ日本人である大阪府警察の中の警察官2人が「土人。支那人」と怒鳴りつけ、その様子はTVで放送されました。その警官たち以上に、その5倍も6倍も悪いのは、権力と大きな責任をもたされている人たちです。大阪府知事、沖縄北方関係大臣、そしてなんと日本国政府さえも「差別とは言えない。撤回も謝罪も不要で、何の問題もない」と総理大臣と他ぜんぶの大臣たちとで決めてしまいました(大阪府知事、松井一郎。沖縄北方担当大臣、鶴保庸介。政府答弁書、1118日閣議決定)。この国は今やとても悪い国です。もし見過ごしにするなら、この私たち自身も悪者たちの仲間です。わたしたちの隣人とは、見舞金9000万円と危険手当を受け取る約束をし、南スーダンで無駄に殺したり殺されたりさせられようとしている350人の自衛隊員たちとその家族です。隣人は、まともな避難計画もなしに、ただ「安全だ。安全だ」と言い含められ、見舞金や保証金を握らされ、危険な原子力発電所施設の地元でビクビクしながら暮らしている人々です。5年前の震災からの被害はまだまだ続いており、福島原発の事故はほんの少しも収まっていないのに、そこに住んではいけないはずの放射能汚染地域で暮らすようにと仕向けられている人々です。政府もこの私たちも何もなかったかのように自分たちだけの満足と豊かさと自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。わたしたちの隣人が(出エジプト記22:21-27参照)。また、原子力発電所施設で命と健康を削りながら働いている下請け労働者たちです。非正規雇用で不安定なまま安く便利に、誰も責任を負おうとしない労働環境で働かされつづけるおびただしい数の労働者たちです。劣悪で過酷な環境で働かされる正社員たちもそうです。給食費も払えず、毎日毎日の生活費や食費にも事欠き、上の学校に通うための学資も希望もなく貧しく心細く暮らす子どもたち、父さん母さんたち、高齢の方々です。数百年も差別されつづけている被差別部落出身の人々。かつて「らい病」と呼ばれた病気があって、違う呼び方をしても、次々と名前を変えても、扱いも中身もそう簡単に変わっていない同じような悪い扱いを受けつづけている人々がいます。住むところがなくて、仕方なしに駅の地下道や公園や川べりや道端で寝起きしているたくさんの人々がいます。隣人とは、私たちの小学校、中学校高校や職場でいじめられている人、除け者にされ、心細く惨めな思いをさせられている人たちです。その人たちがひもじい思いを噛みしめても、悩んでも、心細がっても、多くの場合、私たちは痛くも痒くもありませんでした。心が少しも痛みませんでした。どこか遠くの知らない世界の、自分たちとは関係のない他人事だったからです。けれど、その人たち一人一人にかけがえのない人生があり、その彼らはわたしたちの隣人です。「その彼らを悩ませてはいけない。彼らがわたしに向かって叫ぶならば、わたしはこれに聞く。わたしは憐れみ深いからである。あなたがたも、わたしがそうであるように憐れみ深い者であれ」と、私たちは神ご自身から命じられているからです。

             ◇

  遠い昔、預言者は語りかけました。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」と。しばらくして、約束されていたその光がとうとう昇りました。救い主イエス・キリストです。救い主イエスは、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と断固としておっしゃり、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と約束してくださいました。その約束を受け取り、その約束を抱えて歩いている私たちです(マルコ福音書1:15,ヨハネ福音書8:12,イザヤ書60:1-5そうそう、友だちの茶の間に掛けられた額に素敵な言葉が刻まれていました。「主イエスは、この家の主人であり、いつもの食卓にいっしょに座っておられる隠れたお客さまです。私たちの、いつもの何気ない会話やおしゃべりに静かに耳を傾けておられます」。その通り。だからこそ、自分の家で家族といるときにも、独りきりでいるときにも、わが家の主人である主イエスにニッコリ座っていていただけるように、つつましく、思いやり深く、心温かくありたい。いつもどこででも、誰といっしょのときでも。
 そしてまた14節、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」と命じられています。神ご自身である救い主イエスがこの私たちを神の国へと迎え入れ、神の子供たちとしてくださるために、何をしてくださったか。そのすべての恵みを覚え、よくよく魂に刻みつけて、そのように日々を生きる私たちでありたい。肉の欲ではなく、自分の腹の思いでもなく、ただただ天の御父と主イエスの御心にかなって生きてゆきたい。しかも、その願いはかなえられます。主イエスを信じる者たちはすでに主イエスを着させられているからであり、主イエスご自身こそが、朝も昼も晩もどこで何をしていても、他の何にもまさって私たちのための光の武具であるからです。他のどこにもないこの格別な光の武具を私たちも身にまといつづけ、救い主イエスを信じて暮らしてきました。「初め信じた時よりも、わたしたちの救いがもっともっと近づいている」とは、このことです。

 自分自身と隣人たちのために祈りましょう。

2016年12月18日日曜日

12/18こども説教「主イエスにこそ聞け!」ルカ9:28-36

 12/18 こども説教 ルカ9:28-36
 『主イエスにこそ聞け

9:28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。・・・・・・34 彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。     (ルカ福音書9:28-36)

  「わたしはもうすぐ殺され、墓に葬られ、けれど三日目に生き返るんですよ」と主イエスから最初に知らされて、それから8日目の出来事です。あの予告と、この出来事には強い結びつきがあります。ご自分が必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえると主イエスは弟子たちに知らせ、そのうえで、「私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、そのようにして私に従ってきなさい」9:23参照)とおっしゃいました。『自分の十字架』とは、自分がどうしても背負って運んでいかなければならない、とても重い荷物です。たぶん誰にでもそういう重い荷物のような仕事や課題があり、嫌でも気が進まなくても背負って運んでいかなければならないものが、それぞれにある。また、『捨てるべき自分』というのは、『自分のわがままや好き嫌い』です。背負って運んでいかなければならない、自分のための重い荷物を背負って運ぶこと。また、自分のわがままや好き嫌いを投げ捨てていく。そうしなければ、主イエスに従ってゆくことなど決して誰にもできません。
 三人の弟子たちを連れて山に登り、祈っておられる間に、主イエスのみ顔の様子が変わり、着ていた衣服がまぶしいほどに白く輝きました。モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合い、やがてモーセとエリヤの姿は見えなくなりました。モーセとエリヤは二人とも預言者でした。彼らも、ほかすべての預言者たちも旧約聖書も、みな救い主イエスをこそ指し示し、イエスについて証言しています(ヨハネ福音書5:38-40,20:30-31,ヘブル手紙1:1-2。目を覚ましたペテロが「イエスのため、モーセのため、エリヤのため、小屋を三つ建てましょう」と言い出しましたが、それはずいぶん見当違いな申し出でした。ですから、し~んとして、聞かなかったことにされました。モーセとエリヤの姿も大急ぎで隠され、弟子たち自身も雲の中に包まれました。なぜなら、モーセやエリヤや自分たち自身の姿よりも、また素敵な小屋をいくつか建てることなんかよりも、それより千倍も万倍も大切なことがあるからです。35-36節に目を向けてください、「すると雲の中から声があった、『これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け』。そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた」(*)。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、まったく同じことが起こったのを覚えていますか。天が開けて、聖霊が鳩のような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした。天の御父の声です、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(ルカ3:21-22参照)イエスにこそ聞け、と二度も念を押されました。もし、主イエスに従って生きていきたいのなら、『自分のわがままや好き嫌い』をポイと投げ捨てねばなりません。もし、あなたが主イエスに従って生きていこうと決めたのなら、他の誰彼にでもなく自分自身の考えに従ってでもなく、ただただ主イエスにこそ聴き従う。これが、救い主イエスを信じて生きるということです。

   【補足/三位一体なる神】

(*)35節。タテ並びになっている三つの神さまを心に思い浮かべましょう。まず先頭に、父なる神。その後ろに子なる神イエス・キリスト。そのまた後ろに聖霊なる神。子なる神である救い主イエスは、「父は。父は~」(マタイ福音書11:27)と天の御父の御心を私たちに教える。父なる神は、「救い主イエスにこそ聴き従いなさい」(マタイ福音書3:17,17:5)と子なる神イエスを指し示す。聖霊なる神は、「イエスは。イエスのなさったことと、その教えは~」と私たちにイエスを教え、イエスを信じさせてくださる。このように三つの神は一つ思いになって働かれます。例えばもし、○△さんが「わたしは主イエスを信じます」と言い、心でも信じるとすると、それは聖霊なる神さまが教えてくださり、そのように信じさせてくださったのです(コリント手紙(1)12:3)。「聖書の証言によると、父、子、聖霊なる神という三つの神がおられ、思いを一つに合わせてお働きになる」と知っていてください。(当教会HP収録;『キリスト教の中身が分かるコース』授業②から抜粋)

12/18「隣人を愛する」コロサイ3:12-4:1

                    みことば/2016,12,18(待降節第4主日の礼拝)  90
◎礼拝説教 コロサイ手紙 3:12-4:1                      日本キリスト教会 上田教会
『隣人を愛する』
+こども説教『主イエスにこそ聞け

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。18 妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。19 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。20 子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。21 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。22 僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。24 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。25 不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
4:1 主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。         (コロサイ手紙 3:12-4:1)


 



























 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と命じられています。「それでは、私の隣人は誰ですか。どこにいるでしょうか」(マタイ福音書22:34-40,ルカ福音書10:29参照)と涼しい顔をした人もいました。わたしの隣人。私たちが出会う一番最初の隣人は自分の家族であり、連れ合いであり、自分の親であり子供たちです。いつも一緒に暮らし、あまりに身近でありすぎて、どういうふうに付き合うべきなのか。その人々をどのように愛し、尊ぶべきなのか、よく分からなくなる日々もあります。
  12-17節。難しい言葉や文章はここには一つもありません。けれど、たとえこれらの言葉を暗記して、人前でスラスラ唱えることができても、またたとえ、それはこういう意味だと格調高く感動的に説明できたとしても、もし、ここで命じられていることと私たちの普段のいつもの暮らしぶりや腹の思いが何の関係もないなら、その人の信仰も知識もただ虚しいだけです。「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい」と命じられています。「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と、主なる神ご自身から私たちは命じられています。そのように普段のいつもの暮らしを、朝昼晩と生きるようにと。言葉や言い方ではなく、命じられていることの中身がとても難しい。「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容」を、いったいどうやって身に着けることができるのか。互いに忍び合い、ゆるし合うにはどうしたらいいのか。しかも誰も彼もが罪人であり、頑固でかたくなで怒りの子であるのに。道は一つしかありません。『主が私たちを、この私をさえゆるしてくださった。ああ本当に』と理解し、受け入れ、つくづくと味わうのでなければ、とうてい誰にもできません。『キリストの平和』も、同じ一つのことを指し示しています。キリストの救いの御業をとおして、主なる神は私たち罪深い者たちをゆるし、忍耐し、迎え入れてくださった。それが、『キリストの平和』です。キリストが、罪人である私たちの救いのために十字架の上で殺され、葬られ、三日目によみがえってくださり、その救いの御業に率いられて私たち自身も古い罪の自分を殺され、葬られつづけ、新しい生命に生きる者とされた。そのことに私たちの目と心を向けつづけるように、それこそ自分の心がすっかり支配されるまでに向けつづけよと命じられています。「キリストの平和が心を支配するように」とは、このことです。罪人であり、神に逆らう者だった私たちのためにキリストが死んで復活してくださり、だからこそ私たちもまた、神との平和をキリストによって贈り与えられて生きる者とされました(ローマ手紙5:6-11参照)。その上で、18-21節までは家族の間での具体的な付き合い方。22-4:1は、社会全体の中でのお互い同士の付き合い方が現実的に具体的に指図されています。4:1の「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから」と語りかけられているこの一言が、他者との私たちのすべての関係に及びます。主が天にいますことが、この私たちにも習い覚えさせられ、よくよく分かっているはずの私たちなのだから。この一点に照らして、夫や妻との私たち自身の関わり方、親や子としての私たち自身の関わり方、そこからはじまって私たちの社会生活の全体像、そして一つ一つが改めて問い直されています。
  まず、18-21節。この私たちそれぞれの家族関係です。「仕えなさい。従いなさい」についてはすでに、ローマ手紙13:1-22016,11,13 礼拝説教を参照)によって確認しています。神によって上に立てられた大小様々な権威との付き合い方とまったく同じです。すでに、それは、「何があっても、ただただご無理ごもっともと従うこと」ではありません。神が立てた、神による権威であり、責任や役割であり、神の御心に従うことを抜きにしては、それらとの共存関係はありえなかったからです。「仕える。従う」は、目の前のその相手が、神からゆだねられた責任と使命を、神の御心にかなって果たすことができるように手助けし、精一杯に協力することです。その手助けと協力には、その相手が道を踏み外すときに、「それは間違っています。神の御心に背くことになりますから、してはいけませんよ。分かりますね」と諭すことも含まれます。もし、それでもどうしてもその相手が正しく公正な在り方へと立ち返らないならば、私たちは彼らに精一杯に抵抗し、立ち塞がることさえします。なぜなら彼らもこの私たち一人一人も、神によって立てられ、天の主人にこそ仕えて働く者同士だからです。
 22-41節。この私たちそれぞれの、社会の中でのあり方の全体像です。かつてのような形での奴隷や主人は今のこの社会にはないかのように見えます。けれど、基本的にはまったく同じであることに気づきます。責任と強い権威と使命が与えられ、他の者たちの上に立てられている者たちがいます。例えば幼稚園や保育園を含めた学校教師たちは、生徒に対して大きな重い責任があり、権威と力が与えられています。福祉や介護施設の職員、医療従事者たちも同様です。だからそこでは与えられた権威や力がしばしば不適切に不当に用いられたり、そこで弱い立場に立つ者たちが暴力をふるわれたり、虐待されたり、踏みつけにされたりする場合もありえました。労働者たちは今では細々と区別され、互いに隔てられ、引き離されています。パートタイム労働者、非正規雇用の労働者たち、正社員、それぞれの役職につく者たちと。私たちはあるときには上の立場に立ち、別のときには下の立場に立ち、従ったり従わせたり、命令したりされたりしあって働いています。けれど『主人の役割』を担うときにも、『しもべの役割』を担って働くときにも、いつでも、どんな場合にも、天に、すべての者たちのための唯一の主人がおられます。下の立場に立って、『しもべの役割』を担って働くとき、「肉による主人に従いなさい。従いなさい」と命じられます。どうやって、どんなふうに? 同じです。その目の前の相手も私たち自身もまた同じく、天の主人によって立てられ、責任と使命と役割をゆだねられ、天の主人にこそ仕え、天の主人にこそ従って生きるはずのしもべ同士であるからです。目の前のその相手が、神からゆだねられた責任と使命を、神の御心にかなって果たすことができるように手助けし、精一杯に協力することです。22-24節で、とてもていねいに説き明かされています。「人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」。主の御心に叶うことを願ってです。もし、そうではなく人に喜んでもらおうとして、あるいは自分自身の喜びや満足、虚栄心のために何かをしようとするとき、あのときのペテロのように私たちも厳しく叱られます、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。人間のことばかり思い煩っている。だからそのおかげで神を思う暇がほんの少しもないのだ」(マタイ福音書16:23参照)と。そうではなく、主への真心と信頼をもって、あなたは主にこそ従いなさい。家で家族の世話をし、洗濯をし、掃除をし、食事の支度をするとき、家族に仕えているだけでなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。いつもの職場で同僚や上司と共に働き、お客の相手をするとき、ただ同僚や上司と働いているだけではなく、ただお客の相手をしているだけでもなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。年老いた親の介護をして暮らしている人たちもいますね。同じです。目の前の父さん母さんのお世話をし、手助けをし、支え合って暮らしているというだけでもなく、そこでそのようにして主キリストに仕えている私たちです。目の前にいるその一人の小さな人は変装をして姿を変えた主イエスご自身である、と神の不思議な現実が打ち明けられ、私たちは折々に深く襟を正されます。思いやり深く親切にしてあげる時もあり、逆に、冷淡に厳しくあまりに薄情にその人を取り扱ってしまうことも度々あったからです。「あの時はとても悲しく辛く惨めだった。残念で嫌な気がした。わたしが空腹の時、あなたは食べさせてくれなかった。ノドが渇いていたとき、コップ一杯の水さえ飲ませてくれなかった。宿も貸してくれず、着物を着せかけてもくれず、どうしているかと見舞うことも尋ねることも、あなたはしてくれなかった」と主キリストから非難されたくはありません。むしろ、「ありがとう」と喜んでいただきたいのです。「わたしが空腹の時に食べさせてくれた。ノドがカラカラに渇いていたとき、コップ一杯の水を飲ませてくれた。宿を貸し、着物を着せかけ、どうしているかと見舞ってくれたし、尋ねてくれた。とても嬉しかった」(マタイ福音書25:31-46参照)と。その一人の小さな者にしてくれたのは私にしてくれたことだ。してくれなかったのは、私に対してしてくれなかったことだと主キリストはおっしゃいます。
 また、上に立てられ権威と責任を負う者たちがうっかりして心得違いをしてしまうこともありえます。生身の人間にすぎないからです。その手助けと協力には、その相手が道を踏み外すとき、してはならないことをうっかりしようとするときに、「それは間違っています。神の御心に背くことになりますから、してはいけませんよ。分かりますね」と諭すことも含まれます。もし、それでもどうしてもその相手が正しく公正な在り方へと立ち返らないならば、私たちは彼らに精一杯に抵抗し、立ち塞がることさえします。「何が神の御旨であるのか。何が善であり神の喜ばれることであるのか。何が悪いことで、神を怒らせたり悲しませたりすることであるのか」と信仰の道理に従ってそれぞれ自分自身で精一杯に考え、判断し、選び取りつつ、そのように生きる私たちです。何事についても、何をするにもです。目の前の、その肉による主人にへつらってはならず、その主人に恐れおののいてはなりません。主をこそ恐れ、主にこそ十分に信頼を寄せ、そこでそのようにしてただお独りの主人であるキリストにこそ仕えている。
  隣人を愛することは、私たちの只中で、そのようにして実現され、積み重なってゆきます。その隣人が強くても弱くても、貧しくても豊かであっても、大きくても小さくても、あるいは自分と仲良しで親切にしてくれる相手でもそうでなくたって、何の分け隔ても区別もなく、自分自身を愛し尊ぶようにして、目の前のその人を愛し尊ぶことができればどんなに幸いでしょうか。ある人が主イエスに質問しました、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは答えて言いました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』(マタイ福音書22:36-39。心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛そうと願い、主の御心にかなって生きていきたいと願い求めつつ生きる私たちは、やがてだんだんと、自分自身を愛し尊ぶのに負けず劣らずに隣人を愛し、尊ぶ者たちとされてゆきます。神ご自身が私たちを憐れんでゆるしてくださったからであり、それほどに愛してくださったからです。神ご自身が私たちの間に、この私自身のためにもあなたのためにも、それをきっと必ず実現させてくださいます。


















2016年12月11日日曜日

12/11こども説教「救い主イエスに従う道」ルカ9:18-27

 12/11 こども説教 ルカ9:18-27
 『救い主イエスに従う道』

+上田駅前アピール(12/9『押しつけ人殺し、絶対反対。』
                      +駅前マイク活動無期限休止のお詫び


9:20 彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。  (ルカ福音書 9:20-25

  あの弟子たちと同じく、主イエスの弟子とされた私たちも、主イエスというお方がどういうかたで、何をしてくださるのかを、ちゃんと知っていなければなりません。そして私たち自身が、どんなふうに主イエスに従って生きてゆくのかということを。20節。主イエスから問われて、ペテロが答えました。「あなたこそ神のキリスト、救い主です」と。父なる神から遣わされた、神ご自身である救い主イエス。その救い主としての働きは、22節。主イエスはご自分のことを「人の子」とおっしゃっています。「人の子(=つまり私イエス)は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。これが、救い主としてやり遂げなければならない主イエスの働きです。エルサレムの都に登ってゆく途中、主イエスは、何度も何度も繰り返して弟子たちにこのことを知らせつづけました。「私は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と。ご自分の死とよみがえりについての、最初の知らせです。23節以下。「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう』」。27節。少し分かりにくいですが、「神の国を見るまでは死を味わわない者がいる」とは、主イエスを信じ、救われて、復活の生命の約束を受け取っている者がいるということです。誰でも必ず死にますが、死んでそれで終わりではなく、主イエスを信じる者たちには幸いな命がそこからつづいていきます。
  救い主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、そのようにして救いの御業を成し遂げます。救い主イエスに率いられて、弟子とされた私たちも同じ道筋をとおって新しい生命に生きる者たちとされます。つまり、古い罪の自分を十字架につけて殺していただき、葬り去っていただき、それと引換えのようにして、新しい生命に生きる者とされるのです(ローマ手紙6:1-18参照)24節は、少し分かりにくいですね。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。その前の23節でも、「自分を捨てて、わたしに従いなさい」と命じられています。捨てなければならない「自分。自分の命」と言われているのは、『自分の腹の虫。腹の思い』です。「これをしたい。したくない。気が向く。向かない」などと好き嫌いを言い立てつづけて、自分の思いどおりに生きていこうとするわがまま勝手な在り方です。それを聖書は、『古い罪の自分』『自分の腹の思い』(ローマ手紙6:6,16:18と言いました。素敵そうに見えていたそれらは、よくよく見るとつまらないゴミ屑のようなものでした。もし、それらの言いなりにされて毎日毎日を生きるなら、ちっとも主イエスに従っていることになりません。主イエスに従うことをそっちのけにして、自分が主人になりボスになり、ただただ自分の思いのままに生きているじゃないですか。それでは、神さまから受け取るはずの『新しい自分。新しい生命』をいつまでも受け取り損ねてしまう。どうしましょうか? したくてもしたくなくても、気が向いても向かなくても好きでも嫌いでも、なにしろ主イエスから『しなさい』と命じられることをし、『してはいけません』と禁じられていることをしないでおく。主イエスに従うとは、そういうことです。そのように生きて、この私たちも、自分自身の生命を得し、生命の大儲けをすることになると、はっきりと約束されています。








 上田駅前アピール(12/9
『押しつけ人殺し、絶対反対。』

 大手町1丁目の日本キリスト教会、上田教会の牧師、金田です。
 来週12日(月)から始まるそうです。ほんのひと握りの政治家や資本家たちのせいばかりではなく、この私たち自身に大きな責任があります。350人の陸上自衛隊員たちが、南スーダンへもどこへも出かけていって無駄に人を殺したり殺されたりし始める前に、とても悪い戦争法をなんとかして廃止しなければなりません。政治家と資本家たちと私たち国民一人一人は、はっきいりと目を覚まして、この自分たちが、とんでもない悪事の片棒を担いでおり、共犯者であることに、なんとしても気づかなければなりません。駆けつけ警護? いいえ、押し付け人殺しです。押し売り人殺しです。「殺したり殺されたりする職務に、自衛隊員が安心して打ち込めるように」と見舞金を6000万円から9000万円に引き上げると防衛省は判断したそうです。へえ、そうだったのかあ。殺したり殺されたりする職務中、死亡したり、重い障害を負ったり心が壊れてしまった場合に9000万円の見舞金をもらっても、1回24000円ずつの危険手当を受け取っても、それでいったい誰が安心して死んでいけるんですか。それで晴れ晴れして、気軽に人殺しができるんですか。9000万円の見舞金をもらって、それで妻や子供たちが「これで生活が楽になった。わあ嬉しい」と喜ぶんでしょうか。国会議員も私たち国民も、大喜びで拍手喝采したり万歳三唱したりするんですか。自衛隊員も一億国民も総活躍ですか、いいえ ただの大安売りじゃないですか。71年前とまったく同じです。大東亜共栄圏だのアジアの同胞のためだのが嘘っ八のデタラメだったように、これも平和貢献でもなんでもありません。放っておいていいんですか。知らんぷりしてていいんですか。いいわけないでしょ。言い訳たたないでしょ。無駄に使い捨てられようとする彼ら350人の自衛隊員一人一人に、私たちと同じくかけがえのない家族と人生があるからです。その犬死してゆく350人の中に、たまたま自分たちの息子や娘や孫たちが入っていなければ、この私たちは、それで安心して高みの見物をしてていいんですか。家族も親戚も友達も南スーダンに送り込まれなければそれでいいんですか。薄情者め~ この薄情者オ~。自分たちとは関係ない他人事ですか。なんて薄情で無責任なんですか、この私たちは。
しかも南スーダン方式の『人間をないがしろにし、粗末に扱い、踏みつけつづける』このやり方は、日本中あちこちでまかり通っています。日本中が人の住めない荒れ果てた不毛の土地になってしまう前に、手遅れになってしまう前に、とても危ないすべての原子力発電所を今すぐ止めましょう。米軍基地を押し付けられ、ないがしろにされつづける沖縄の同胞たちの怒りと苦しみに、私たちも目と心を向けましょう。日本で暮らす外国人労働者とその家族の生活と権利が十分に守られ、尊ばれる社会に、この国をならせましょう。もうすっかり忘れちゃったんでしょうけど、5年前の震災からの被害はまだまだ続いています。福島原発の事故はほんの少しも収束していません。毎日毎日、放射能の汚染水を海にジャブジャブ垂れ流しつづけ、とても危険な放射線危険区域に父さんも母さんも小学生も小さな子供たちも無理矢理に連れ戻されようとしています。それなのに政府も私たちも、まるで何もなかったかのように自分たちだけの満足と、自分たちだけの豊かさと、自分たちだけの自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。350人の自衛隊員たちにも、沖縄の人たちにも、とても危ない原子力発電所のすぐ傍らで生活する人々にも、外国人労働者たち一人一人にも、この私たちと同じくかけがえのない家族と、たった一回しかないつかの間の人生があるんですヨオ。それでも私たちは痛くも痒くもない。ほんの少しも心が痛まない。薄情者め~。この薄情者オ~。
  ♪自衛隊員たちを犬死させるな 自衛隊員と家族を泣かせるな戦争法制、絶対反対 押しつけ人殺し、絶対反対 押し売り人殺し絶対反対。反対反対、絶対反対   反対反対、絶対反対




     【補足】(インターネット)自衛隊「海外派遣」、私たちが刷り込まれてきた二つのウソゼロからわかるPKOの真実20年以上ずっと憲法違反』2016,2,13)伊勢崎 賢治(東京外国語大学教授)
 1. PKOに対する日本人の体感のズレ
刷り込み、というのは恐ろしい。連日、メディアの取材を受けているが、ほとんどの記者が、何のためらいもない。「自衛隊が送られるのはPKO(国連平和維持"活動")で、PKF(国連平和維持"")ではないんですから…云々」と。保守系メディアではなく、リベラル系のが、である。PKO(国連平和維持"活動")は、例えばある国で内戦がおこり、このまま放っておけない、国連としてみんなで何とかしなきゃ、ということで、安保理が全国連加盟国に参加を呼びかけ、その内戦に介入する活動の総称である。国連というのはUnited Nations "連合国")。第二次大戦の戦勝5大国(米露中英仏)が安保理常任理事国になり、日独伊のような不埒な侵略者を二度と出さないように、加盟国全ての「武力の行使」を統制しようとするシステムである。一加盟国の国民を脅かす侵略者が現れたら安保理の号令の下、そいつを全員で叩きのめす。これが「集団安全保障」という考え方だ。でも、「内戦」は一加盟国内の内輪揉めである。つまり、国民の安全を脅かすのは侵略者じゃなくて、その国内の反乱勢力。でも、放っておけない。どうするか? ここで編み出されたのがPKOである。国連憲章で軍事介入を規定するのは第七章の「強制措置」しかない。これは当事者の同意なくできる措置。つまり国連としての最終手段である。「内輪揉め」にこれを使うのは、ちょっと無理がある。なぜなら、内政不干渉の原則があるからだ。もし、国連に加盟したら干渉するもんね、ということだったら、国連創生期に加盟国を増やすことは困難だったろうし、そもそもチベット問題のように安保理常任理事国だって脛(すね)に傷をもっている。だから、内戦には、強制措置としての軍事介入ではなく、その内戦当事者の同意の上での軍事介入しかない。というわけで、PKOは、同意をベースとする平和的介入手段を謳う第六章との間をとって、苦し紛れに"六章半"と言われる。同意があろうがなかろうがPKOは軍事介入である。だから、Peace-Keeping Operation’。「作戦」なんである。もし国連として一加盟国の内輪揉めに入り込んで(それも武装して)、もし、その武力を使う羽目になったら、それも、使う相手がその政府だったら……。つまり、国連が、侵略者でもない一加盟国と戦争する羽目になったら……。でも、介入しなければならない。そのギリギリの選択がPKOという軍事作戦である。でも、日本ではこれを"活動"と訳した。なぜか。9条の国の自衛隊が参加するのが軍事作戦じゃ、困るからである。PKOに対する、歴代政府によって恣意的に作られた日本人の体感のズレは、まず、ここから始まる。
2.自衛隊はまぎれもなく「PKFの工兵部隊」として活動してきた
次にPKF(国連平和維持"")である。一つのPKOを、現場の人間は「ミッション」と呼ぶ。「ミッション・インポシブル」のミッションの感覚である。PKOミッションは、軍事部門であるPKFを中心に、大きく言って4つの部門からなる。
PKF(国連平和維持軍)
②国連軍事監視団
③国連文民警察
④民生部門
PKFは、文字通り「部隊」である。主体は戦闘を任務とする歩兵部隊。装甲車や戦車の機甲部隊がつくこともある。くわえて、どんなPKOミッションにも必ずある工兵部隊。こちらは軍事作戦に必須の戦略道路網、通信等のインフラの構築、維持が任務になる。PKOは軍事作戦であるから、PKFは、他の部門と比しても、人数的に突出して多い。1万人を超え、派遣国も20を超えるものもあり、安保理が任命する最高司令官の下、一つの統合司令部の”指揮下”に置かれるが、まあ、寄り合い所帯の多国籍軍である。はっきり言おう。歴代の自衛隊の施設部隊は、PKFの工兵部隊であり、現場では、ずっとその扱いであった。じゃなかったら、①~④のどこに入れ込むのか。自衛隊だけ、単独行動の特殊ゲリラ部隊か。同じPKOミッションの中でも、①のPKFと②③④には決定的な違いがある。PKFの単位は「国」。それ以外の部門は「個人」。当時の筆者のような④民生部門は当たり前だが、現役の軍人、警察官で構成される②国連軍事監視団、③国連文民警察は、「国連職員」として扱われる。つまり、個人として国連のペイロール(給与簿)に載り、給料が支払われる。これに対して①PKFは、単なる部隊の「数」として、国連が、各派遣国に、償還金を支払う。発展途上国にとっては、PKFは重要な外貨稼ぎの機会を提供してきた。発展途上国ではないが、日本政府にも、この国連償還金が支払われてきた。

3.自衛隊は「武力の行使」と一体化しない、という大ウソ
過日、数あるPKOミッションの中で、最も過酷な現場と言われるコンゴ民主共和国に行ってきた。南スーダンの隣である。PKFの最高司令官はブラジル陸軍のサントスクルズ中将。PKFトップを務めるのは2回目。ここの前の任地はハイチ。そう。自衛隊が派遣されていた。最前線の部隊を訪問する道中の立ち話で、「ハイチでは本当によくやってくれた」と自衛隊の勤勉さを称賛するサントスクルズに、「将軍。知ってる? 日本じゃ、自衛隊の指揮権は、東京にあるって言っていたんだよ」と言うと、「ざけんな」と即座の反応。本当に、ふざけるな、である。自衛隊はPKFであるだけでなく、PKFという多国籍軍としての「武力の行使」に"一体化"して活動する。当たり前である、一体化しなかったら、多国籍軍としてのPKFは成り立たない。しかし、歴代の政府は、自衛隊の活動は「武力の行使」と"一体化"しないという"いわゆる"一体化論(政府は外向けに英訳でthe theory of so-called "Ittaika with the use of force"とする)を編み出し、9条と抵触しないという言い訳としてきた。この一体化論の基礎となるのが、これもまたso-calledが付く「後方支援」「非戦闘地域」という、日本の法議論のためにつくられた、戦場における全く弾が飛んでこない仮想空間である。自衛隊派遣に反対するリベラル勢力も、特段の検証もなく無批判にこれを受け入れ、右・左の自衛隊論争の"土俵"を築いてきた。
厳密に見てみよう。PKFのような多国籍軍と、一国の軍隊の行動には、決定的な違いがある。言うまでもなく、軍隊とは、殺傷行為の如何が、人権・刑事の立場からではなく、軍規の立場から統制される職能集団である。通常、軍規・命令違反は、厳罰に処される。軍規、そして、その軍法会議の管轄権は、その軍だけに限られる。国連は、いまだ地球政府になりえていないから、国連軍法会議なるものは存在しない。多国籍軍の活動で起こる軍事的な過失を、ある一派遣国の軍法会議で裁いたら、それは重大な内政干渉になってしまう。(軍事法典を持たない自衛隊が、もしPKFの現場で軍事的な過失を犯したら? これは、日本に別の深刻な問題を投げかけるが、詳しくは拙著新国防論 9条もアメリカも日本を守れな』を参照願いたい。)かりにPKFを構成するある一派遣国の政府が、なんらかの理由で撤退を決定した時、PKF統合司令部に、それを覆す政治力があるか? その撤退を「敵前逃亡」だと謗(そし)っても、統合司令部に、それを止める力はない。多国籍軍とは、基本的に有志連合。自分勝手な撤退を律するのは、せいぜい外交的な信用の失墜、ぐらいである。この意味で、自衛隊は、多国籍軍として一体化"しない"。でも、"しない"のは、9条を戴く自衛隊だけでなく、すべての派遣国の部隊も、なのである。"しない"のは、この一点だけ。あとは、すべて一体化"する"

 4.自衛隊は敵からどう見えるか
PKOミッションにあたって国連は、それが活動を行う当該受け入れ国と、一括して「地位協定」を結ぶ。基本的に、PKFの公務中に発生する軍事的な過失の裁判権を、派遣国の軍法に与える、つまり、受け入れ国の司法による訴追免除の特権を、派遣国の部隊に与える。戦後の日本が、朝鮮半島動乱を機に"受け入れ国"として昭和29年に署名した「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定 (略称)国連軍地位協定」と同様である。つまり、PKFの統合司令部は、自らが受け入れ国と一括して締結した地位協定を担保に、各派遣国部隊に対して「特権をやるから言うことを訊け」と、指揮権を行使するのである。自衛隊も例外ではなく、この意味で、一体化"する"極め付けは、戦時国際法・国際人道法である。同法は、国連が出来る前からある慣習法の積み重ねである。国連憲章は、地球上で起こる「武力の行使」を3つの言い訳(個別的自衛権、集団的自衛権、それとPKFがそうである集団安全保障)に制限するが、それがいったん行使されれば、戦時国際法・国際人道法が統制する世界になる。戦時国際法・人道法とは、交戦主体、つまり敵・味方の間で人道的に殺し合えという、いわば「戦争の流儀」である。そのなかで一番やっちゃいけないのが民間人の殺傷。だから、敵から"どう見えるか"が、重要になる。例えば、自衛隊が施設部隊として参加するPKF多国籍軍のうちのブラジル歩兵部隊が敵と交戦したとしよう。その場合、敵から見た交戦主体は、そのブラジル部隊だけか、それともPKF全体か。戦時国際法・人道法は、後者の考えをとる。当たり前だ。自衛隊員だけ、ヘルメットに「9」と描いておくか。描いたとしても、敵に、その意味をどう理解させるのか。その意味で、国際法上の違反行為となるのは、赤十字マークだけである。
つまり、施設部隊として送られた自衛隊が、基地に閉じこもり、まったく何もしなくても、他のPKFの部隊が交戦すれば、自衛隊も自動的に交戦主体として見なされる。国際法から見れば、自衛隊は、じっとしていても、PKO参加の政治決定の時点で、静的に、「武力の行使」と一体化"する"。以上、「自衛隊が送られるのはPKOであり、PKFでない」がウソだけでなく、"いわゆる"一体化論もウソである。

 5.ウソで固められた土俵の上で
つまり、自衛隊の派遣は、「武力の行使」と「交戦権」を禁じる9条に、20年以上前に自衛隊がカンボジアPKOに送られてた時から、ずぅーと、違反しているのだ。こんな、現場に行けば(行っても自衛隊の追っかけばかりやっていなければ)簡単にわかることを、メディアが、それも派遣反対のメディアが、世論が、リベラル政治勢力が、検証を怠ってきた。本当に、ふざけるな、なのである。日本国民の、自衛隊へのアレルギーを取るために、PKOという"崇高"な目的を使い続けてきた歴代自民党政権の戦略にブレは無い。9条と抵触させないための見え透いた刷り込みは、着実に成果を上げ、自衛隊への好感度は国民にしっかり定着した。安倍政権の今、野党/与党の対立の政局は、依然として、その刷り込まれたウソで固められた土俵の上に、繰り広げられている。安倍政権打倒を叫ぶ野党結集にも、その土俵を土台からひっくり返すことを結集の結節点にする声は、皆無だ。ただ、ABEの悪魔化と憎悪があるのみ。いつまで、これを続けるのか。




駅前マイク活動無期限休止のお詫び


この国で、政治・社会状況が危うい局面にさしかかってもおり、2015年春から市民活動に参加して毎週金曜日に街角でマイクをもって語りはじめた。半年つづけ、その後、半年あまりマイクで語ることを休止し、この秋から月一回のテンポで再び語ってみた。街角で一般の人々に向けて社会状況を語ることと、礼拝堂で神を信じる人々に向けて神の福音を語ること。両者は深く関連して、とてもよく似ている。「本当のことを本気で語るように」と、牧師養成所の最初のころ一人の先輩に助言され、18年間ずっと、そのように自分を訓練しつづけてもきた。結果、ぼくの礼拝メッセージは街角のアジ演説にどんどん引き寄せられ、ややトゲトゲしい攻撃的な口調にだんだんと傾いていった。健全なバランスを保って2つの活動を両立させることは僕にとっては困難で、心もたびたび貧しくなって壊れかけ、本業が危機的状況に立ち至った。確かに、それらを健全に両立させている伝道者もいる。けれど僕にはとても難しい。熟慮しましたが、街角でマイクをもって語ることを無期限で休止します。ただ、そうであっても、政治・社会状況に関わることは続けねばなりません。クリスチャンとして、一人の人間として。「私たちは学び、働き、食べて寝て、そしてまた路上で声をあげる」とあの若者たちは言いました。これからは僕は黙って街角に立ち、プラカードを掲げ、ビラを配り、仲間たちの声に共に耳を傾けつづけます。御父と主イエスからの恵み、憐れみ、平和がありますように。皆さまにも、あの彼らにも、ぼく自身と家族にも。        2016,12,末 金田聖治)



12/11「どう生きて死ぬか?」マタイ24:44-51

                   みことば/2016,12,11(待降節第3主日の礼拝)  89
◎礼拝説教 マタイ福音書 24:44-51                      日本キリスト教会 上田教会
『どう生きて死ぬか?』

   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。    (マタイ福音書 24:44-51)




  とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家は、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。また、さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。これが、この世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。しかもこの家の主人は思いがけないときに帰ってくるから、その時に備えて、ちゃんと準備をしていなさい。主人がいつ帰ってきても困らないように、いいえ、むしろ「お待ちしていましたよ~っ。ああ嬉しい」と大喜びでお迎えできるように、あなたは暮らしていなさい。ここまでは単純素朴で、とても分かりやすい。
  45-51節をもう一度読みましょう;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。いかがでしょう。この自分も主人の召し使いの1人であることを思い出しましたか。――それなら、よかった。恥ずかしく、またとても申し訳ないことですが実は、僕もたびたび忘れていました。それでずいぶん的外れなことをしたり、他の召し使いたちを困らせたり、いじめたり、苦しめたりしてしまいました。その家に住む皆が、ただお独りの主人に仕える召し使いです。召し使いたちの中に、また彼らの上に、多くの責任を任せられた管理人が立てられていました。管理人でもある召し使いです。思い起こしてみてください。それぞれの小さなグループの中で、ちょっとした役割や責任や権限を与えられている小さなリーダーたちがいますね。幼稚園、保育所、小中学校、高校にも、地域にも、職場にもキリスト教会にも、それぞれの組織の中程に小さなリーダー、中くらいのリーダー、やや大き目のリーダーなどが立てられ、上の方に取締役員会や社長や会長などがいるかも知れません。国家にも総理大臣や幹事長などもいるでしょう。そして、それぞれの家にお父さん、お母さんがいます。その彼らもやっぱりただお独りの主人に仕える召し使いであり、召使たちの中で、彼らの上に立てられた管理人です。注意しておきますけど、教会のことは教会のこと、世の中のことは世の中のこと、自分の家の中のことは家の中だけのことなどと、ここに区別や分け隔てを持ち込んではいけません。そうでないと、すっかり分からなくなってしまいます。なぜ? なぜなら私どもは、どこで何をしていてもクリスチャンだからです。いつでも、どこで何をしているときにも、天におられますご主人さまにお仕えしながら、そうやって一日一日を暮らしているからです(コロサイ手紙3:22-4:1参照)
  「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね?」と釘を刺されました。また、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(コロサイ手紙4:1,ルカ福音書16:13)と。天におられます主人に仕えるか、あるいは別の主人に仕えるかどちらかだ、とはっきり告げられています。もし、あの主人に仕えるのでないなら、「自分の腹の思い」を主人とし、罪を主人とする他ないと告げられています(ローマ手紙6:15-18参照)。どの主人を選ぶのか、どの主人に仕えるのか、このことをよくよく心に留めつづけねばなりません。どうしてかというと、せっかく天の主人に仕えはじめたはずだったのに、気がつくと、別の主人の言いなりにされているってことが度々起こったからです。「○○さんがこう仰るので、だから私は」などと。「虫が好く好かない。なんとなく気が進まないとか、進むとか。シャクに障る、障らない。だからついつい」などと。それは、目の前の誰かさんや自分自身の腹の虫やシャクという、腹の中の腹の思いを自分のご主人さまとしてしまっている(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)。だからこそ天の主人に対して誠実に仕えて生きているはずのクリスチャンに向かってわざわざ釘を刺されました。「あなたがたにも主が天にいますことが分かっているのだから。そうでしたね? どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるのだから」と。生活のために掛け持ちのアルバイトをしている人もいます。何時から何時まではこの会社で働いてこの主人に仕えて、その後、何時から何時までは別の会社で別の主人に仕えて。それは結構ですが、信仰をもって生きることに関して、あの主人とこの主人と、それからまた別の主人ってわけにはいきません。どこの誰にとっても主人はただ1人。もう1度読みましょう。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。例外はない。
  私たちも、また他の誰も彼もが召し使いである。天の主人に仕えて働いていることを知っている者もいれば、知らない者もおり、またいつの間にかすっかり忘れてしまっている召し使いもいるけれど。じゃあこの自分はこの物語の中でどういう役割を与えられているのか、自分はこの家の中でいったい誰なのか。もうお分かりですね。私たち一人一人はそれぞれ仲間の召し使いたちの中に、また彼らの上に、果たすべき責任と役割を与えられて立てられています。主人の莫大な財産を委ねられてもいます。主人がどんな主人なのか、その主人の願いや思いをよくよく知らされてもいます。多く与えられた召し使い。管理人でもある召し使い。それが私たちです。なぜ? クリスチャンだからというだけではなく。ずいぶん長く生きてきたからです。具体的な責任や役割も委ねられているからです。例えば夫婦であることの互への責任や役割があり、父親、母親であることの責任と役割が私共にはあり、それぞれの職場でも、地域社会でも、この国に対しても、周囲に住む人々に対しても、私たちは大きな責任と役割をゆだねられた管理人たちです。連れ合いと接するときも、子供たちや年老いた親の世話をするときにも、地域社会でもいつもの職場でも、どこで何をしているときにも天の主人に対する忠実こそが私たちには求められています(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:3-5)
  私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。45-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。主イエスが教えてくださった主の祈りの、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』を心に刻んでいる私共です。生きるために必要な糧を神さまが与えてくださる。だからこそ何の不足もなく、安らかに満たされて生きている。感謝し、信頼し、期待を寄せて神さまから1日分ずついただく。そのとき、『わたしの日用の糧』ではなくて、『わたしたちの日用の糧』をと願い求めさせられたのでした。願い求めるべき、また互いに配慮すべき兄弟や隣人たちが私たちの傍らにいます。けれどなお、私たちは度々ワガママ勝手になりました。「自分さえ良ければそれでいい」と小さく閉じこもって、心を狭く貧しくしてしまいました。父親母親として、あなたもわが子に真剣な顔をして厳しい口調で語りかけたことが2回や3回はあるでしょう。親のような神さまです。自分の子供である私たちをきびしく戒めなければならない場合は度々ありました。子供だった頃に私たちは、親の戒めをしばしば軽んじました。たびたび、軽々しく聞き流してしまいまいました。それでは、親であり主人である神さまのその憐れみの心が台無しです。あなたを大事に思って憐れむ神さまは、同じく変わらず、あなたの兄弟や家族や隣人たちをも慈しみ、深く憐れむからです。
  この箇所全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またすべての18歳以上の大人たちであるということです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。もし万一忘れてしまうならば、ここに書いてある通りに私たちも振る舞いはじめるでしょう。よくよく覚えていさえすれば、良い働きをすることができるでしょう。家の者たちに食べ物を配ることが、この私たちにもできるでしょう。時間どおりに公平に、区別も分け隔てもせず、天の主人への感謝と忠実をもって1日また1日と嬉しく働くこともできるでしょう。その食べ物は、『天からの憐れみの食べ物』です。皆で食べたり飲んだりし、備えのない者には分けてあげることができ、いっしょになって主を喜び祝うこともできるでしょう。それを、こんな私たちが配らせていただけるなんて。なんて素敵なことでしょう。あの子供の歌が歌う通りに、「わが君イエスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ」。「わたしの主人でありボスであるイエスよ、私の心も行いも、口から出る何気ない言葉もすっかり清くしてください。自分勝手でワガママで臆病でナマズルイ私ですけれど、こんな私にも良い働きをなさせてください」(♪主われを愛す,4614)。この私にも、良い働きをなさせてください。なぜそう願っているのか。必ずさせてくださると知っているし、信じてもいるからです。よい働きをぜひしたいからです。『善かつ忠なるしもべよ、よくやった。私も嬉しいよ』と、この天の主人に私自身のためにも、ぜひ大喜びに喜んでいただきたいからです(マタイ福音書25:23参照)