3/27 こども説教 創世記 33:1-20
33:9
エサウは言った、「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」。10 ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。11 どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください。神がわたしを恵まれたので、わたしはじゅうぶんもっていますから」。こうして彼がしいたので、彼は受け取った。12 そしてエサウは言った、「さあ、立って行こう。わたしが先に行く」。13 ヤコブは彼に言った、「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話をしています。もし一日でも歩かせ過ぎたら群れはみな死んでしまいます。14 わが主よ、どうか、しもべの先においでください。わたしはわたしの前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう」。……18 こうしてヤコブはパダンアラムからきて、無事カナンの地のシケムの町に着き、町の前に宿営した。19 彼は天幕を張った野の一部をシケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取り、20 そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。 (創世記
33:1-20)
【こども説教】
20年もの長いときを隔てて、互いに憎んだり恐れたりしあっていた兄弟がとうとう仲直りをします。それはとても難しいことでした。けれども、恐れと疑いを少しずつ拭い去って、この仲直りを神さまが成し遂げてくださいました。はじめの1-3節の様子には、兄エサウに対する弟ヤコブの恐れと疑いがはっきりと現れています。兄エサウと400人もの部下たちが待ち構えています。エサウもヤコブも、20年ぶりに会う兄弟が、いったいどんな気持ちで、何を考えているのか、よく分かりません。もしかしたら、ここで、このまま兄に殺されてしまうかも知れないと思ったかも知れません。兄の方へ向かう家族の行列の先頭にヤコブは自分自身が立って進みます。けれどもその次には、主人に仕えるふたりの女性たちとその子供たち、次にレアとその子供たちを、彼が最も愛したラケルとヨセフを最後に置いて進みます。もしもの時には、ラケルとヨセフが逃げ延びるようにと。また、途中で7回ヤコブがエサウにおじぎをしているのは、主人に仕えるしもべの作法です。4節で、「兄が走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた」とき、ようやく2人は疑いと恐れを取り除かれて、心から仲直りをすることができました。神さまが、2人の心をなだめてくださったのです。2人は互いに、「自分は十分に持っている」と言います。神の恵みによって、十分に豊かにされてきた私たちだと。
20節、ヤコブは「祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた」。「神はイスラエルの神」という意味です。神によって憐みを知らされた者たちは、互いに顔を向け合って生きる者たちとされます。憐み深い神からの贈り物です。
【大人のための留意点】
愛する兄弟姉妹よ。われわれがキリストのうちに御父の御顔を仰ぐことをゆるされたからには、神はわれわれに対して、今度はわれわれが兄弟の顔を見ることを期待なさいます。御父との和解がもしもまことであるならば、その和解は次には兄弟との和解となって結果するはずです。……われわれがその生涯において出会うかぎりの人々の顔を思い巡らしてみるならば、おそらくは、その中にはもはやお目にかかりたいとは思わず、もはや二度と会いたいとは願わない幾つかの顔が思い出されてくるでありましょう。そして、それと同じようなことを、他の人々がわれわれの顔についても経験するかも知れないのです。われわれ自身の中に、密やかな、もしくは公然の敵意が忍び込み、定着してしまっているのです。けれども神は、キリストの憐れみのゆえに恵みをもってわれわれを見てくださる神は、今、われわれに期待なさるのです。われわれがふたたび兄弟たちに対して顔を向けるようになることを(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)。