2022年3月28日月曜日

3/20「彼らを許してください」ルカ23:32-38

    みことば/2022,3,20(受難節第3主日の礼拝)  363

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:32-38         日本キリスト教会 上田教会

『彼らを許してください』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。 ルカ福音書 23:32-38

 

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 (ローマ手紙 7:15-24)

34節に目を向けてください。神の独り子である救い主イエス・キリストが十字架につけられ、この方は半日以上かけて殺されていきます。その苦しみと痛みの只中にあって、こう叫ばれます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」。

人々は丘の上へと主イエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせました。ほかにも2人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために引かれて行きました。されこうべと呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけました。犯罪人も、1人は右に1人は左に並べて、十字架につけました。そのとき、イエスは言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。民衆は立って見つめていました。役人たちも、あざ笑って言いました。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。ローマ人の兵士たちもイエスに近寄り、侮辱して言いました。「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。十字架にかけられていた犯罪人の1人が、イエスをののしりました。「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」。

十字架の上に、この方に対する人々の憎しみとあざけりが極まるとき、それは同時に、神さまをさえ憎んで退けてしまう私たち人間への、神さまからの愛と憐れみが極まるときでもありました。「父よ、彼らをおゆるしください」。いいえ。むしろ、神さまに逆らってばかりいる、その彼らをゆるすために、ゆるして神の子供たちとして迎え入れるために、救い主イエスの十字架の死があり、神さまの側で高い代償が支払われました。その罪はあまりに深く、他のどんな代価によっても贖いえず、神の独り子の生命の重さに匹敵しました。独り子の生命によって贖われねばならないほどの罪深さ。それを根深く抱えもった彼らとは、いったい何者なのでしょう。どこの、誰のことを、言っているのでしょう。

なぜ、聖書の神さまを信じる者たちが『クリスチャン』と呼ばれ、その人間集団が『キリストの教会』と呼ばれるのか。礼拝の度毎に、嫌になるほどクドクドしく、「あの十字架。十字架の主。主イエスはそこでご自分の体を引き裂かれ、血を流し尽くした」としつこく語られつづけるのか。なぜ、建物の屋根の上には、ひときわ高く十字架が掲げられているのか。それは、ただの飾りではありません。教会の外から見て分かるための目印というだけでもありません。現にここにいる、この私たち自身のための目印です。主イエスの十字架のもとに、ここに、私たちは立っています。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からずにいるのですから」と神の独り子は叫びました。その叫びもろともに、ご自分の肉体を引き裂きました。尊い血潮を流し尽くしました。死んで葬られました。3日目に墓から蘇らされました。復活の姿を女性たちや弟子たちの前に現し、500人以上の兄弟たちに現れ、天に昇り、今も私たちのために生きて働いておられ、やがて再び来られます。それらひと続きの出来事をもって、私たち罪人を神さまの憐れみのもとへと招き入れ、天の御父からのゆるしを私たちのものとしてくださいました。私たちはそのようにして、『ゆるされた罪人』として、ここに立っております。

1人のクリスチャンは、私たちは、救い主イエスの生命と引き換えにゆるされた罪人として、主のもとに立っています。ゆるされて、なお罪人である者同士として、互いに真向かっています。「彼らをおゆるしください」というあの叫びは、ここにいるこの私たちの救いのためでした。あの引き裂かれた体は、あの、頭からも手のひらからも足からも脇腹からもしたたり落ちた赤い血潮は、私たちの罪のゆるしのためでした。この私は、そのようにして『ゆるされた罪人』です。ただ、『ゆるされて、なお罪人でありつづける者たち』こそが主イエスのもとに立っています。主イエスのゆるしのもとに留まっています。「いいえ、私はあの十字架とは何の関係もない。たとえごくわずかに罪や落ち度があったとしても、私自身によってか他の何かの手段によって十分に埋め合わせをしている。しかも警察に捕まったことも留置所に入れられたこともない。ちゃんと立派にやっているし、なんのやましいところもない私だ」という人は、ここに留まることができません。この、ゆるしを受けつつ生きる恵みの領域には。

「あなたの罪深さ。あなたの罪」と、礼拝ではしつこく語られます。正直なところ、ウンザリしてしまいます。愉快なことや気分が晴れ晴れするような慰めを聞きたいと思ってわざわざ来てみたのに、「あなたの罪深さ、かたくなさ、傲慢さ。あなたの貧しさ、身勝手さ」と語られない日はありません。「あなたの罪深さ。そのあなたのための、神さまからの一方的な無条件のゆるし。ゆるされて、なお罪人でありつづけるあなたであり、私たち」と、1人の伝道者は30年も40年も語りつづけます。やがてその彼が退いた後、次の働き人もまた、「あなたの罪深さ。そのあなたのための、神さまからの一方的な無条件のゆるし。ゆるされて、なお罪人でありつづけるあなたであり、私たち」と。その次の働き人も次の働き人も。キリストのもとに立つ伝道者たちは、ひたすらにこの1点を語りつづけます。ゆるされて、なお罪人でありつづける私たちと。なぜなら、手放しの大きなゆるしを受け取った者こそが、他の人たちを心底からゆるし、なごみ、温かく迎え入れ、仲直りする者とされるからです。けれどもキリストの教会は、私たちクリスチャンは、ゆるされた罪人であるという自覚を実にしばしば見失い、罪に罪を重ねてきました。キリスト教会の傲慢。私たちクリスチャン自身の思い上がり。この2000年の歴史は、あの『放蕩息子の兄』の歴史でもありました。迎え入れられた1人の小さな罪人の幸いをいっしょに喜ぶことができず、おびただしい数の正しい兄たちは家の外で腹を立て、かたくなに拒んでいました(ルカ福音書15:28参照)。「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。あの1人が喜ぶなら私は喜べない。あの1人が迎え入れられるなら、私は出ていく。私かあの弟か、どちらを選ぶのか」と父に詰め寄った歴史でした。もし、ふさわしく正しいクリスチャンこそがここにいるべきであり、ふさわしく正しい伝道者こそがこの説教壇に立つべきだと言うならば、この私は、ここには到底立つことができません。自分自身を顧みて、恥じ入ることばかりです。しばしば乱暴で軽率な言葉を発し、うっかりして人を苦しめることもたくさん重ねてきました。ぜひとも守ってあげるべきところで怖気づいていました。断固として語るべき言葉を、しかし口に出せず飲み込みました。知りながら、また知らずに、兄弟を傷つけました。1人の夫としても、また子供たちの親としても、申し訳ない振る舞いを重ねました。神さまの御前にも、みなさんの前でも、とうてい立ち得ない私です。もし、ゆるしが神さまのもとにないならば、決してゆるされないはずのことを何度も何度も何度もゆるされてきたのではないならば、この私は、ここにはいないはずの人間です。「罪深い私です。小さな貧しい私です」と口先ではスラスラ祈りながら、その自分に対してどんなに神さまが恵み深くあってくださったのかを、いつの間にか、すっかり棚上げしている私です。神さまが生きて働いておられることも、その神さまが私の目の前におられますことも、しばしばすっかり忘れ果てている私です。「自分が何をしているのか分からずにいる」という主イエスご自身の、私たちに対する深い洞察は、やがて主の弟子の1人によって鏡のように照り返されます;「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ手紙7:15-24)。自分のしていることが分からない。罪の法則のとりこにされている。私はなんと惨めな人間なのか――人間というものがことごとくそういう存在であり、いや、澄ました顔をして座っているこの私たちも、この私自身さえ例外ではないと告げられます。「あんなことを言ってしまった」「あのとき、なぜ、あんなことをしてしまったのか分からない」。そして、後になって我に返るように、自分の傲慢さや惨めさ、かたくなさ、私という存在の悲惨さに気づかされます。あなたも、「主よ、ゆるしてください」と呼ばわりなさい。憐れみを受け取ってきたことを「あのときもあのときも」と数え上げながら、「主よ、この私を憐れんでください」と呼ばわりなさい。十字架の死と復活の主イエスはなおも、「父よ、この人をゆるしてください」と、そのあなたのためにも呼ばわるからです。主イエスご自身のゆるしと憐れみが、やがてあなたにも手渡され、しっかりと受け取られ、そのあなたの魂の隅々へと深く色濃く染み渡るまで。

 父よ、この人をゆるしてください。この人は、自分が何をしているのか知らないのです。だからこそ、ゆるしてください。ゆるされた罪人として、がんじがらめに縛りつけていたモノから解き放たれて、晴れ晴れと生きることができるようにさせてください。















「磔刑」グリューネヴァルト絵

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