みことば/2019,5,26(復活節第6主日の礼拝) № 216
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:12-16 日本キリスト教会 上田教会
『祈って、働き人を選ぶ』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。 (ルカ福音書 6:12-16)
まず12-13節。「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」。このときばかりでなく、救い主イエスは折々に、何度も何度も寂しい場所に独りで退き、また独りで山に登り、天の父なる神に向かって祈り、御父と語り合いました(ルカ5:16,同6:12,マタイ14:23,マルコ1:35ほか多数)。しかも「夜を徹して」というのは、ずいぶん念入りな、心を尽くし力を注ぎだした祈りの格闘だったからです。天の御父とよくよく語り合い、よくよく祈って、御心を教え知らされたその結果として、救い主イエスは12人の弟子を選び、また少し前の4章43節でも、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。この「~しなければならない」という断固たる口調は、『神ご自身の決断と意思』の言葉だと世々の教会は聞き取ってきました。「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである。だから、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えなければならないし、また、12人をこのように選び出さねばならない」と。神の国の福音を宣べ伝えることも、12人の働き人たちを選び出すことも、一つ一つ皆、天の御父があらかじめ決めて用意しておられた救いの計画です。ですから、それらの決断は天の父なる神とよくよく語り合った後になされます。主イエスの一つ一つの働きや決断の前に、必ず、こうした祈りの時間があったと報告されます。「救い主イエスはそのためにこの地上に遣わされた」。誰から。もちろん天の父なる神からです。自分を遣わした御父からの使命を果たすこと。それこそが、遣わされた者であることの根本的な意味です。だからこそ天の父なる神は、独り子である神、救い主イエスを名指しして、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。だから、これにこそ聴け」(ルカ3:22,同9:35)と私たちに命じます。二度も繰り返して、念を押してです。それゆえ救い主イエスもまた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ福音書5:19-20,同6:38,同8:28-29)と。また聖霊なる神は、救い主イエスがどんな方であるのか、何をなさり、何を教えたのかを分からせ、私たちに救い主イエスを信じさせます。そのようにして、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は一つ思いになって、一つの救いの御業を成し遂げます。だからこそ、主イエスから遣わされて生きる、主イエスの弟子である私たち一人一人もまた、御父と主イエスから「しなさい」と命じられたことをなし、「してはならない」と戒められていることをしないでおきます。自分からは何一つもせず、自分の心のままをするのではなく、ただただ御父と主イエスの御心を行うことを願って一日ずつを暮らすことができます。それが、私たちがクリスチャンであり、主イエスから遣わされた者たちであることの意味と中身です。
13-16節。「夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」として、選び出された者たちの名前が列挙されています。ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダです。「このユダが裏切り者となったのである」と、特にわざわざ説明が添えられています。
裏切り者となってしまうユダについては、特にさまざまな疑問が湧き出てきます。主イエスはなぜ、わざわざあの彼を12人の使徒の一人として選び出したのか。神であられる主イエスには、ユダが不信仰に陥り、ついには主イエスを敵対者たちに売り渡して、その殺害に協力してしまうことさえもはっきりと分かっていたとしても決して不思議ではなりません。そのうえで、あえて、そのユダを選び出して、使徒として立てました。裏切りの後、ユダ自身もあまりに悩ましく惨めな死を遂げます(マタイ27:3-10,使徒1:19)。12人の使徒たちは、旧約聖書の時代のイスラエル12部族と重ね合わされます。「新しくされた神の民を代表するはずのその12人の中に、よこしまで積み深くあまりに不信仰なユダが選ばれていることはキリスト教会にとってふさわしくない。その名を汚すことになるじゃないか」と困った顔をする人たちもいるかも知れません。多分、いるでしょう。けれど思い起こしましょう。「キリストはご自分の民をそのもろもろの罪から救う者」となり、「罪人を救うためにこそ、この世界に降りて来られた」(マタイ1:21,テモテ手紙(1)1:15)のであると。とても高潔で揺るぎない聖人君子などどこを探してもいません。それは絵空事であり、誰も彼もが神に背く罪人にすぎません。ノアがそうであり、アブラハムもヤコブもそうであり、ダビデ王もソロモンもまったく同じです。すべての伝道者もそうであり、キリストの教会に仕えるすべての働き人たちも、自分自身の信仰深さや賢さや力量によってではなく、神の憐みと恵みによって生きるのです。ただただ憐みと恵みによってのみ私たちは生きることができます。そのことを私たちが覚えておくために、キリスト教会を指導してゆくはずの栄光ある場所に、わざわざあのユダと彼のつまずきが置かれたことには大きな意味があります。しかもユダだけがつまずいたのではなく、弟子たち皆がつまずき、また折々に、あまりに人間的な愚かさ、心のかたくなさ、不信仰をさらしました。シモンと呼ばれたペテロもそうです。「主イエスを知らない。知らない。なんの関係もない」と人々の前で主を拒んだ彼は、けれど主から捨てられはしませんでした。憐みを受けて、ふたたび主に仕える働き人として立ち上がらされます(ルカ22:31-34,同22:54-62,ヨハネ21:15-19)。ほかの弟子たちも、それぞれに思い上がりや頑固さ、心の鈍さをあばかれつづけました。トマスもそうでした。例えば、ヤコブとヨハネもそうです。エルサレムの都に上る途中でサマリヤ人たちが主イエスと弟子たちを快く迎え入れてくれなかったことに腹を立てて、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火を呼び求めましょうか」(ルカ9:51-56)とあまりに思い上がった愚かなことを申し出たのは、あのヤコブとヨハネの兄弟です。もちろん彼らは、主イエスからきびしく叱られました。ここにいる私たち全員も似たり寄ったりで、ほぼ同じようなものです。よく肝に銘じておきましょう。神の憐みとゆるしなしに生きることのできる者は一人もいません。信仰をもって生きる人たちのつまずきや不信仰が聖書の中に数多く証言されています。そのことは、私たちが自分を正しいと言い立てたくなるとき、私たちを謙遜にします。「私こそが神に背く不信仰な罪人の中の頭であり、その最たる者だ」と慎ましい思いに立ち返らせるために役に立ちます。そのようにして、ようやく私たちは小さな幼い子供のように、神の国に迎え入れられてゆきます(マタイ福音書18:3参照)。
選ばれた12人も、神を信じて生きるすべての信仰者たちも、すべての預言者も、神の民とされた先祖も私たちも皆、小さな者たちでした。また、自分の小ささや弱さ、自分自身の働きの乏しさをよくよく覚えておくようにと念を押されました。モーセの告別説教は語ります、「(主なる神があなたがたを愛し、選び、守ってくださるのは)「わたしが正しいから」と言ってはならない。あなたが正しいからでもなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない」と。さらに、「あなたは心のうちに『自分の力と手の働きで私はこの富を得た』と言ってはならない。あなたは、あなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」(申命記7:6-7,同8:11-20,同9:4-6参照)。主の弟子たちも語り掛けます、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。神は、この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、無きに等しい者をあえて選ばれた。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(コリント手紙(1)1:26-31)。小さな子供の讃美歌も歌います、「♪どんなに小さい小鳥でも神様は愛してくださるって、イエスさまのお言葉。名前も知らない野の花も神様は咲かせてくださるって、イエスさまのお言葉。よい子になれない私でも神様は愛してくださるって、イエスさまのお言葉」(1954年版讃美歌461番,こどもさんびか103番、日本基督教団出版局)。小さい小鳥、名前も知られない野の花。なかなかよい子になれず、ついつい人に意地悪をしたり、腹を立てたり、自分勝手になってしまう私なのに神様はそんな私さえも愛してくださっている。しかも、神によって十分に愛され、慈しんで育てられいる私たちなので、だから、だんだんと心の温かな良い子供へと成長させていただける。私たちの大きい小さいと関係なしに、私たちの正しさや心の清らかさとも関係なく、ただ恵みによって、神はただただ愛してくださっている。その愛を受け取り、喜ぶためには、自分自身や周囲の人々の大きさ小ささにばかり目を向けることから離れて、慈しみ深い神をこそ思い、神に目を凝らす必要があったのです。このように主を誇るとは、主なる神に十分に信頼し、主に聞き従い、主をこそ頼みの綱として生きることです。「自分は小さく無力で、無に等しい」と知るからこそ、神に信頼し、聞き従い、神をこそ頼みの綱として生きることができます。
◇ ◇
例えば洗礼を受けてクリスチャンとされたとき、願い求めます、「どうかこの兄弟姉妹を祝し、聖霊をその上に豊かに注いでください。どうか、主のからだなる教会の一員として、つねに、かしらなるキリストに留まり、キリストに向かって成長することをゆるされ、み国のための良き戦いをつづけ、終わりの日に至るまで、主とその教会に対して愛を保ち、奉仕をささげることができるようにしてください」と。働き人たちが選び出されるときにもまったく同じです。それぞれ神に向かって忠実に働くことを誓いますが、それだけでなく、こう祈り求めます。「どうかこの志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように」と。また、「どうか、彼らに聖霊を注ぎ、彼らが喜びと感謝とをもって、この任務をまっとうできるよう導いてください。どうか、この務めを果たすのに必要な知恵と力とを与えてください。また、慰めと励ましをも与えて、その行うところをすべて祝福してください」と。それらのことを、「主イエスのお名前によって祈った」のです。主イエスの名によって祈ったので、だから、その願いは必ずきっとかなえられます(ヨハネ福音書14:14,同15:16)。神ご自身からの約束だからです。
こうして、貧しい人たちのための福音は、貧しく、小さな子供のような、心低い者たちによって持ち運ばれ、手渡されつづけていきます。その貧しい者たちは神ご自身の豊かさを知っており、小さな子供のようなその者たちは自分たちの親となってくださった神の慈しみ深さに信頼し、それを喜んでいるからです。神によって心を低くされたその者たちは神ご自身の憐みによって高く引き上げられたからです。
主によって選ばれ立てられたすべて働き人たち、すべてのクリスチャンのために、また自分自身のためにも祈り求めましょう。