2019年5月27日月曜日

5/26こども説教「もう一人のシモンも叱られた」使徒8:14-25


 5/26 こども説教 使徒行伝 8:9-25
 『もう一人のシモンも叱られた』

8:18 (シモンは)金をさし出し、19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。 (使徒行伝 8:9-23

 魔術を使って人々を驚かし(補足.1、自分をさも偉い者のように言いふらしていたシモンという人がいました。なんと、こんな人さえ救い主イエスを信じ、洗礼を受け、クリスチャンとしていただけました(使徒8:13。その後、主の弟子シモン・ペテロとヨハネがやってきて、洗礼を受けてクリスチャンとされた皆のために祈ると聖霊が授けられました。元・魔術師だったペテロはお金を差し出して、こう言いました。19-23節、「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」(補足.2。そこで、シモン・ペテロが元・魔術師のシモンに言いました、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
 ずっと前に、このシモン・ペテロも主イエスからきびしく叱られたことがありました。「サタンよ引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。おまえは神のことを思わないで人間のことばかり思っているじゃないか」(マタイ16:23参照)と。先輩のシモンが後輩のシモンを同じように叱っています。神を思わないで、自分自身や周りの人間たちのことばかり思い煩っていた。そして、自分の損得や金もうけのことばかり思い煩っている。主イエスからきびしく叱られたシモン・ペテロなので、もう一人のシモンの同じような生臭さ、苦い胆汁、罪に縛り付けられていた同じ惨めさがよく分かりました。あなたにも、心当たりがありますか? あの生ずるく腹黒いシモンもこの私たち一人一人も、もしかしたら、ゆるされ、神によって別人のように新しくされて、心のまっすぐな、思いやり深い、とても良いクリスチャンになれるかも知れません。だんだんと、ほんの少しずつでも。だからこそ私たちも、「悪事を悔いて、本気になって主に祈れ」と促されつづけます。

      【補足/それぞれの場合がある】
              (1)当時の魔術師は医者であり、占い師であり、なんでも相談員でもありました。病気を治し、紛失物を見つけたり、悩み事やもめ事を解決してあげたり、悪い霊を追い払って幸運や家内安全を引き寄せたり等々。だから人々から尊敬を集め、お金も儲かりました。
       (2)魔術師シモンはみ言葉の説教を聞いて、信じ、洗礼を受けました。まだまだあまりに生ずるく、腹黒い思いを抱える彼ですが、決して信じていないわけではありません。神を信じる心と、背く罪と欲望の思いが同居しています。私たちも似たようなものです。ずいぶん後になってから悔い改めの実を結ぶようになるのかも知れません。使徒10:44-48では、ユダヤ人ではない外国人たちが神を信じるようになり、聖霊の賜物が注がれた様子を見て、それから大急ぎで洗礼を授けたことが報告されています。
               また、魔術師シモンを厳しく叱るためにシモン・ペテロが用いられていることは、神のなんと適切な配置かと驚かされます。後輩のはなはだしい生臭さと心の鈍さを、あのシモン・ペテロこそが自分自身のこととしてよくよく体験してきたからです(ペテロ手紙(1)2:25参照)。


5/26「祈って、働き人を選ぶ」ルカ6:12-16


                  みことば/2019,5,26(復活節第6主日の礼拝)  216
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:12-16                       日本キリスト教会 上田教会
『祈って、働き人を選ぶ』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。14 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。                                (ルカ福音書 6:12-16)


 まず12-13節。「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」。このときばかりでなく、救い主イエスは折々に、何度も何度も寂しい場所に独りで退き、また独りで山に登り、天の父なる神に向かって祈り、御父と語り合いました(ルカ5:16,6:12,マタイ14:23,マルコ1:35ほか多数)。しかも「夜を徹して」というのは、ずいぶん念入りな、心を尽くし力を注ぎだした祈りの格闘だったからです。天の御父とよくよく語り合い、よくよく祈って、御心を教え知らされたその結果として、救い主イエスは12人の弟子を選び、また少し前の4章43節でも、「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである」と。この「~しなければならない」という断固たる口調は、『神ご自身の決断と意思』の言葉だと世々の教会は聞き取ってきました。「わたしはほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされたのである。だから、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えなければならないし、また、12人をこのように選び出さねばならない」と。神の国の福音を宣べ伝えることも、12人の働き人たちを選び出すことも、一つ一つ皆、天の御父があらかじめ決めて用意しておられた救いの計画です。ですから、それらの決断は天の父なる神とよくよく語り合った後になされます。主イエスの一つ一つの働きや決断の前に、必ず、こうした祈りの時間があったと報告されます。「救い主イエスはそのためにこの地上に遣わされた」。誰から。もちろん天の父なる神からです。自分を遣わした御父からの使命を果たすこと。それこそが、遣わされた者であることの根本的な意味です。だからこそ天の父なる神は、独り子である神、救い主イエスを名指しして、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。だから、これにこそ聴け」(ルカ3:22,9:35と私たちに命じます。二度も繰り返して、念を押してです。それゆえ救い主イエスもまた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ福音書5:19-20,6:38,8:28-29と。また聖霊なる神は、救い主イエスがどんな方であるのか、何をなさり、何を教えたのかを分からせ、私たちに救い主イエスを信じさせます。そのようにして、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は一つ思いになって、一つの救いの御業を成し遂げます。だからこそ、主イエスから遣わされて生きる、主イエスの弟子である私たち一人一人もまた、御父と主イエスから「しなさい」と命じられたことをなし、「してはならない」と戒められていることをしないでおきます。自分からは何一つもせず、自分の心のままをするのではなく、ただただ御父と主イエスの御心を行うことを願って一日ずつを暮らすことができます。それが、私たちがクリスチャンであり、主イエスから遣わされた者たちであることの意味と中身です。
 13-16節。「夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」として、選び出された者たちの名前が列挙されています。ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダです。「このユダが裏切り者となったのである」と、特にわざわざ説明が添えられています。
 裏切り者となってしまうユダについては、特にさまざまな疑問が湧き出てきます。主イエスはなぜ、わざわざあの彼を12人の使徒の一人として選び出したのか。神であられる主イエスには、ユダが不信仰に陥り、ついには主イエスを敵対者たちに売り渡して、その殺害に協力してしまうことさえもはっきりと分かっていたとしても決して不思議ではなりません。そのうえで、あえて、そのユダを選び出して、使徒として立てました。裏切りの後、ユダ自身もあまりに悩ましく惨めな死を遂げます(マタイ27:3-10,使徒1:1912人の使徒たちは、旧約聖書の時代のイスラエル12部族と重ね合わされます。「新しくされた神の民を代表するはずのその12人の中に、よこしまで積み深くあまりに不信仰なユダが選ばれていることはキリスト教会にとってふさわしくない。その名を汚すことになるじゃないか」と困った顔をする人たちもいるかも知れません。多分、いるでしょう。けれど思い起こしましょう。「キリストはご自分の民をそのもろもろの罪から救う者」となり、「罪人を救うためにこそ、この世界に降りて来られた」(マタイ1:21,テモテ手紙(1)1:15のであると。とても高潔で揺るぎない聖人君子などどこを探してもいません。それは絵空事であり、誰も彼もが神に背く罪人にすぎません。ノアがそうであり、アブラハムもヤコブもそうであり、ダビデ王もソロモンもまったく同じです。すべての伝道者もそうであり、キリストの教会に仕えるすべての働き人たちも、自分自身の信仰深さや賢さや力量によってではなく、神の憐みと恵みによって生きるのです。ただただ憐みと恵みによってのみ私たちは生きることができます。そのことを私たちが覚えておくために、キリスト教会を指導してゆくはずの栄光ある場所に、わざわざあのユダと彼のつまずきが置かれたことには大きな意味があります。しかもユダだけがつまずいたのではなく、弟子たち皆がつまずき、また折々に、あまりに人間的な愚かさ、心のかたくなさ、不信仰をさらしました。シモンと呼ばれたペテロもそうです。「主イエスを知らない。知らない。なんの関係もない」と人々の前で主を拒んだ彼は、けれど主から捨てられはしませんでした。憐みを受けて、ふたたび主に仕える働き人として立ち上がらされます(ルカ22:31-34,22:54-62,ヨハネ21:15-19。ほかの弟子たちも、それぞれに思い上がりや頑固さ、心の鈍さをあばかれつづけました。トマスもそうでした。例えば、ヤコブとヨハネもそうです。エルサレムの都に上る途中でサマリヤ人たちが主イエスと弟子たちを快く迎え入れてくれなかったことに腹を立てて、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火を呼び求めましょうか」(ルカ9:51-56とあまりに思い上がった愚かなことを申し出たのは、あのヤコブとヨハネの兄弟です。もちろん彼らは、主イエスからきびしく叱られました。ここにいる私たち全員も似たり寄ったりで、ほぼ同じようなものです。よく肝に銘じておきましょう。神の憐みとゆるしなしに生きることのできる者は一人もいません。信仰をもって生きる人たちのつまずきや不信仰が聖書の中に数多く証言されています。そのことは、私たちが自分を正しいと言い立てたくなるとき、私たちを謙遜にします。「私こそが神に背く不信仰な罪人の中の頭であり、その最たる者だ」と慎ましい思いに立ち返らせるために役に立ちます。そのようにして、ようやく私たちは小さな幼い子供のように、神の国に迎え入れられてゆきます(マタイ福音書18:3参照)
 選ばれた12人も、神を信じて生きるすべての信仰者たちも、すべての預言者も、神の民とされた先祖も私たちも皆、小さな者たちでした。また、自分の小ささや弱さ、自分自身の働きの乏しさをよくよく覚えておくようにと念を押されました。モーセの告別説教は語ります、「(主なる神があなたがたを愛し、選び、守ってくださるのは)「わたしが正しいから」と言ってはならない。あなたが正しいからでもなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない」と。さらに、「あなたは心のうちに『自分の力と手の働きで私はこの富を得た』と言ってはならない。あなたは、あなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」(申命記7:6-7,8:11-20,9:4-6参照)。主の弟子たちも語り掛けます、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。神は、この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、無きに等しい者をあえて選ばれた。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(コリント手紙(1)1:26-31。小さな子供の讃美歌も歌います、「♪どんなに小さい小鳥でも神様は愛してくださるって、イエスさまのお言葉。名前も知らない野の花も神様は咲かせてくださるって、イエスさまのお言葉。よい子になれない私でも神様は愛してくださるって、イエスさまのお言葉」1954年版讃美歌461,こどもさんびか103番、日本基督教団出版局)小さい小鳥、名前も知られない野の花。なかなかよい子になれず、ついつい人に意地悪をしたり、腹を立てたり、自分勝手になってしまう私なのに神様はそんな私さえも愛してくださっている。しかも、神によって十分に愛され、慈しんで育てられいる私たちなので、だから、だんだんと心の温かな良い子供へと成長させていただける。私たちの大きい小さいと関係なしに、私たちの正しさや心の清らかさとも関係なく、ただ恵みによって、神はただただ愛してくださっている。その愛を受け取り、喜ぶためには、自分自身や周囲の人々の大きさ小ささにばかり目を向けることから離れて、慈しみ深い神をこそ思い、神に目を凝らす必要があったのです。このように主を誇るとは、主なる神に十分に信頼し、主に聞き従い、主をこそ頼みの綱として生きることです。「自分は小さく無力で、無に等しい」と知るからこそ、神に信頼し、聞き従い、神をこそ頼みの綱として生きることができます。

             ◇

 例えば洗礼を受けてクリスチャンとされたとき、願い求めます、「どうかこの兄弟姉妹を祝し、聖霊をその上に豊かに注いでください。どうか、主のからだなる教会の一員として、つねに、かしらなるキリストに留まり、キリストに向かって成長することをゆるされ、み国のための良き戦いをつづけ、終わりの日に至るまで、主とその教会に対して愛を保ち、奉仕をささげることができるようにしてください」と。働き人たちが選び出されるときにもまったく同じです。それぞれ神に向かって忠実に働くことを誓いますが、それだけでなく、こう祈り求めます。「どうかこの志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように」と。また、「どうか、彼らに聖霊を注ぎ、彼らが喜びと感謝とをもって、この任務をまっとうできるよう導いてください。どうか、この務めを果たすのに必要な知恵と力とを与えてください。また、慰めと励ましをも与えて、その行うところをすべて祝福してください」と。それらのことを、「主イエスのお名前によって祈った」のです。主イエスの名によって祈ったので、だから、その願いは必ずきっとかなえられます(ヨハネ福音書14:14,15:16。神ご自身からの約束だからです。
 こうして、貧しい人たちのための福音は、貧しく、小さな子供のような、心低い者たちによって持ち運ばれ、手渡されつづけていきます。その貧しい者たちは神ご自身の豊かさを知っており、小さな子供のようなその者たちは自分たちの親となってくださった神の慈しみ深さに信頼し、それを喜んでいるからです。神によって心を低くされたその者たちは神ご自身の憐みによって高く引き上げられたからです。
  主によって選ばれ立てられたすべて働き人たち、すべてのクリスチャンのために、また自分自身のためにも祈り求めましょう。


2019年5月14日火曜日

5/12こども説教「サウロは教会を荒し回る」使徒8:1-3


 5/12 こども説教 使徒行伝8:1-3
 『サウロは教会を荒し回る』

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。2 信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。3 ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。                  (使徒行伝8:1-3

  ステパノが殺されたとき、彼に石を投げつけた人たちの上着をあずかって、その番をしていたあの若者。ここでも、キリスト教会を荒らし回り、クリスチャンたちを無理矢理に引きずり出し、次々に牢獄に連れて行って、閉じ込めさせたサウロという若者。彼は、やがて救い主イエスを信じるようになって、神さまのために大切な働きをするようになるあのパウロです。神さまをとても熱心に信じていたので、そのころは、キリスト教会や信者たちの家々を荒し回り、クリスチャンたちを苦しめ、ひどい目にあわせたり、牢獄に閉じ込めたりすることが神さまの御心にかなうことだと本気で信じていました。けれど神さまは、この人を神さまのために働く人にしようと決めていました。そのとおりになります。神さまは、私たち人間の思いもかけなかったやり方で、救いの働きを成し遂げていかれます。不思議なことです。やがて、このサウロがクリスチャンたちを困らせ、苦しめているとき、主イエスが彼の前に現れてこう言います、「『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(使徒9:4-5と。サウロは、救い主イエスを信じる人々を困らせたり、苦しめたりしていました。けれど救い主イエスご自身は、「なぜ私を困らせたり、この私自身を苦しめたりするのか」と。主イエスを信じる一人一人の苦しみや辛さ、困ったこと、心細いこと。それらの一つ一つを、救い主イエスは自分自身の苦しみや辛さとして感じて、自分自身の痛みとして受け止めておられます。



  【補足/自分の痛みとなさる救い主】
主イエスを信じる一人一人の苦しみや辛さ、困ったこと、心細いこと。それらの一つ一つを、救い主イエスは自分自身の苦しみや辛さとして感じて、自分自身の痛みとして受け止める。それは何度も報告されています。とても大切なことだからです、
だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。・・・・・・あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ福音書18:5,25:35-40,ルカ福音書10:16)。


5/12「日曜日の願いと目的」ルカ6:1-5


         みことば/2019,5,12(復活節第4主日の礼拝)  214
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:1-5                         日本キリスト教会 上田教会
『日曜日の願いと目的』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。     (ルカ福音書 6:1-5)


  主イエスと弟子たちが麦畑の間を通っていたとき、弟子たちが麦の穂を摘みました。それを見とがめた人々が主イエスに文句を言いました、「ご覧なさい。なぜ、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか。どういう教育をしてるのか、しつけが全然なってないじゃないか」(2節参照)。少しの説明が必要です。私たちの国では、法律上また一般的な道徳として『他人のものである麦畑の麦の穂を勝手に摘んで自分のものとしたり、食べる』ことが問題になり、もしそれを誰かに見つかれば叱られたり、警察に捕まえられたりします。けれど彼らの国の法律では、それはゆるされています。なんと驚くべきことに、神の国の法律(=律法)では、貧しい者たちや腹を空かせた者、隣人たちに、困らない範囲で自分のものを分け与えよと命じていました。「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人(=寄留者・きりゅうしゃ=外国から出稼ぎに来ている、心細く不安定な扱いを受ける労働者)と孤児と夫と死に別れた未亡人に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。・・・・・・あなたはかつてエジプトの国で自分自身が奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」(申命記24:19-22)。欲張ってむさぼり尽くしてはならない。神さまからの憐れみを受けた者たちは、受けたその憐れみを仲間たちに差し出しなさいと。なんということでしょうか。他のどこにもないほどの、寛大で思いやりにあふれた法律です。これが、神からの律法の心です。
  ですから彼らにとっての問題は、『安息日に働いている』という一点に集約されます。主イエスという方は、それを重々承知していながら、わざわざ選りに選って、他人に見せつけるようにして、安息日に麦の穂を摘ませました。それは、あの彼らの常識かぶれに対する宣戦布告です。手の萎えた人や腰の曲がった女の人を癒してあげたのも安息日でした(マタイ福音書12:9,ルカ福音書13:19,14:1)。どこか他の場所で、他の木曜日や金曜日にそれをすることもできました。けれどわざわざ選りに選って安息日に、わざわざ会堂で、信仰をもって生きるはずの人々の只中で、わざわざ礼拝中にそれをなさいました。安息日破り、律法破りを主イエスは次々と繰り返し、やがてそれは、ついに神殿の境内で露天商たちのテントや店のテーブル、椅子をひっくり返し、大切なこまごました商品や商売道具を地面にばらまき、商人たちを乱暴に追い出すという悪逆非道な狼藉にまでいたります(ルカ福音書19:45)。困ったものです。
  だから、うっかりした早とちりな人たちは、「主イエスという方は、律法が大嫌いだったんだ。安息日の掟も、お高くとまって取り澄ました神殿も、律法の何もかもも、ぶっ壊しちゃいたいと思っていたらしい」と誤解しました。まさか、大間違いですよ。大好きだったのです。安息日の掟も律法も、礼拝も神殿も、彼にとっては何物にも代えがたいほどに大切なものでした。だって、それは、ゆるしと慈しみの法律(=神の律法)の下に立って生きる、ゆるしと慈しみの人々であるための肝心要だったからです。律法の根本精神は、(1)神さまを心から愛すること。(2)隣人を自分のように愛し、尊ぶことです。そのためにシナイ山で2枚の石の板に刻まれたルールは10個でした。それが十戒(マタイ福音書22:34-,出エジプト20:1-,申命5:1-)。その10の戒めを具体的にいつもの普段の生活の中で守っていくためには、「いつどこで、どんなふうに守るか。こういう場合にはこうする。こういう場合には」と、こまごました細則と運用規定が必要になり、それらは膨れ上がって600800か条にまで及びました。律法ずくめの生活の中で、けれど肝心要の律法の中身を人々は忘れました。神を愛することと、自分自身と同じく隣人を尊ぶことを。主イエスは仰います;「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。・・・・・・わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」(マタイ福音書5:17-20)。ほとんど死にかけていた律法と安息日規定にふたたび生命を吹き込もうとして、主イエスは荒療治に乗り出します。心臓マッサージ、人工呼吸といった救急蘇生法がほどこされます。そもそも一体、神さまから授けられた律法は何のためだったか。そして安息日は何のためかと。麦畑の件では、主イエスは仰いました。3-5節、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか。人の子(=主イエスご自身のこと)は安息日の主である」。
  『安息日』の意味を、自分が教えられて心に覚えこんできだ分だけ、今日すっかり全部お話します。安息日の『安息』の意味は、活動停止であり、何もしないことであり、自分が抱え続けた仕事や責任や使命などもろもろを離れ、すっかり手放すことです。そのはじまりは、世界創造の7日目です。その前の日の6日目には、神さまはご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と、大喜びに喜んでくださいました。7日目に、神さまご自身がご自分の仕事を離れ、安息なさり、お造りになったすべてのものとその日を祝福し、ご自分のもの(=聖別)とされた。それが、私たちと神さまとの出発点です。神さまがそうなさったので、この私たちもまた、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。それは活動停止であり、抱え持ったもろもろを手離して、脇に置く。そうして初めて、そこでようやく、お造りになったすべてのものを神さまがご覧になり、『極めて良い。とてもよい。わあ嬉しい』と神さまが大喜びに喜んでくださったこともまた、私たちの腹に据えられます(創世1:31-2:3)。ああ本当にそうだ、と。
  やがて、しばらくの時をへて、奴隷とされていたエジプトの国を連れ出されたとき、荒れ野の旅が始まってすぐに人々は、「食べるものがない。うまい肉もない、飲む水もない」と不平不満を言い出します。葦の海を渡ったすぐ後、出エジプト記16章です。主なる神さまは人々をご自分の御前へと呼び集めます。叱りつけたり非難するためではなく、慈しみと憐れみをもって養うためにです。約束通りに、人々は天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされます。「私たちの今までのやり方や考え方とはずいぶん違うことをなさる神だ。こういう神だったのか」と皆でビックリ驚きたいのです。主なる神は仰いました。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(出エジプト記16:12。あの彼らもここにいるこの私たちも、誰でも皆同じです。天からの恵みのパンを集め、天からの恵みの肉を集め、天からの恵みの水を飲んで生きる者たちとされ、「ああ本当にそうだ。嬉しいなあ」と驚き喜ぶのでなければ、そうでなければ決して誰一人も 主が主であることを知るようにはならないのです。そのための、一日分ずつの天からの恵みのパンと肉と水。それが『主の祈り』の第4番目の願い、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と願って、神から受け取り、神に感謝して一日ずつを生きることの意味であり、心です。7日目に手を止めて、神さまをこそ仰ぎ見て、しかも十分に養われつづけていることを心に覚えて感謝をする。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします、と。『主が主であることを知る』ことこそ、今日にいたるまでずっと、習い覚えるべき教会教育の最優先の第一番目の目標でありつづけます。イロハのイです。
  七日に一度の『安息日』という教育手段の広がりと展開。七年に一度の安息年へ、7年×7のヨベルの年へ、さらに終わりの日に私たちがあずかるはずの神の安息へ(レビ記23:1-25,ヘブル手紙3:7-4:13。創造の7日間に遡りつづけます。それは、「神さまがご自分の仕事を離れ、安息なさり、祝福し、ご自身のものとして聖別なさった」ことに由来します。この私たちもまた、その神さまからの祝福を受け取って生きるために、自分が抱え続けた仕事を離れ、安息する。安息しつつ、その只中で神さまにこそ目を凝らし、仰ぎ見る。神さまからの祝福に預かり、神さまのものとされる。だからこそ なにしろ日曜日、なにしろ礼拝第一。かつても今も私たちが信仰をもって生きるための生命線でありつづけます。安息日の格別な幸いをぜひ分け与えてあげようと、神さまはあなたを待ち侘び、あなたを大歓迎なさいます。主なる神さまからの恵み、憐れみ、平和が、あなたとご家族の上にありますように。ぜひ、そうでありますように。

               ◇

 では質問。今日の仕上げです。もし神からの祝福と聖別から逃れたいとき、どうすれば、それができるでしょう? どうすれば、神からの祝福を払いのけ、《神のものとされる》束縛から自由になることができるでしょうか。簡単です。自分の仕事をがっちりと抱えもって、「自分が自分が」とどこまでも拘って、手離さなければいいのです。「日曜日にも働きつづけている人々は、ですから、神様からの祝福を受け取り損ねるかも知れない」という大きな危機にさらされつづけます。その意味では、牧師や長老や執事たちも危うい場所に立ち続けます。人々が神さまからの祝福と恵みを受け取るためにお手伝いしてあげようとして、うっかりして自分たち自身がその祝福と恵みからこぼれ落ちてしまうことはありえます。主イエスの福音を差し出しながら、自分自身がその福音をいただき損ねてしまう。それは大いに有り得ます(コリント手紙(1)9:23-27)。恐ろしいことです。神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。造られたものたちをご自分のものとし、祝福を与えた。ですから神によって造られた私たちも、自分の仕事を離れ、安息し、そこで《私は私のものではなく、他の誰の所有物でもなく、ただ神のものとされている》という祝福の中身を受け取ります。そこでようやく、6日間の自分の仕事や、仕事の中身を、自分自身をも、喜び祝うこともできたのです。感謝にあふれて。救い主イエスは、「私(=ご自身のことを、しばしば「人の子」と呼んだ)は安息日の主である」とおっしゃいました。では、月曜日から土曜日まではこのお方は、この世界と私たちのための主ではないのか。いいえ違います。安息日の一日は、七日間すべての祝福のための『出発点であり、しるし』です。もちろん私たちが日曜日に神ご自身のものとされ、神の祝福を十分に受け取って、その一日を生きるだけではまったく不十分だからです。そうではなく、毎週毎週、七日間ずつ、すべての日のための主であり、私たちが生きる全生涯にわたって、神ご自身のものとされ、神の祝福を十分に受け取って、その一日ずつを神さまの御心にかなって幸いに生きるための主人であり、王様であられます。

しかも、救い主イエスをすでに信じて生きているクリスチャンのためだけの主で はありません。私たちが『イエスこそ主である』と主を仰いで生きていることは、すべて神によって造られたものがやがて神の祝福にあずかるための『出発点であり、しるし』です。

こう約束されています、「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:10-11



2019年5月6日月曜日

5/5こども説教「ステパノの死」使徒7:54-60


 5/5 こども説教 使徒行伝7:54-60
 『ステパノの死』

7:54 人々はこれを聞いて、心の底 から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。             (使徒行伝7:54-60

  主イエスの弟子ステパノが、自分がなすべき神さまのための仕事をすっかりなし終えて、こうして死んで行きました。私たちもそうです。神さまのためになすべき自分の仕事をなし終えて、このように神さまの御もとへと立ち去っていきます。神の国の福音を聞いて、わあ嬉しいと大喜びに喜ぶ人たちがいます。また、正反対に激しく怒る人たちもいます。怒った人たちがステパノに石を投げつけたとき、その人たちの上着を預かっていたサウロという若者がいました。この若者は、後で救い主イエスを信じるようになり、名前を変えてパウロと呼ばれるようになる人です。59-60節。石を投げつけられ、殺されてゆくとき、ステパノは祈って言いました、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい。主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。やがて死んでゆく時、私たちも自分自身を神さまにすっかり委ねて、安心していることができます。また、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」というステパノの祈りは、十字架の上の主イエスの祈りとそっくりです。主イエスは、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と祈り、また、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。とても似ていて、そっくり同じです。主イエスを信じて生きる私たちは皆、だんだんと少しずつ、主イエスのかたちに似たものとされてゆくと神さまから約束されているからです(ルカ福音書23:34,46,ローマ手紙8:29,コロサイ手紙3:10参照)。この私たち一人一人も、ステパノのように、主イエスのかたちに似たものとされてゆく。なんと嬉しいことでしょう。



5/5「新しい生活」ルカ5:33-39


             みことば/2019,5,5(復活節第3主日の礼拝)  213
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:33-39                      日本キリスト教会 上田教会
『新しい生活』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:33 また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。34 するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。35 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。36 それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。   (ルカ福音書 5:1-11)


 33節。パリサイ人や律法学者たちが救い主イエスに問いかけています、「洗礼者ヨハネの弟子たちはしばしば断食をし、また祈りをしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。断食をするかしないか。もしするなら、どういう理由で何のためにするのか。しないのなら、その理由は? 立ち止まって、まずこのことを考えます。少なくとも聖書の神を信じている私たちにとって、断食は、祈りの一つの形です。苦しみや悩みを現し、また悔い改めて神へと立ち返るために、神さまとの親しい交わりを求めて断食をします。年に一度、大贖罪日(だいしょくざいび/レビ記23:23-,ヘブル手紙9:23-10:20と呼ばれる日に皆が断食をすべきことが、かつて聖書に定められていました。それによって神さまとの親しい交わりがつづき、罪が清められることを願ってです。けれどあらかじめ警告されていたとおりに、その断食は、すぐにも中身と生命とを失って単なる形だけのもの、うわべを美しく取り繕うだけのものとなってしまいました。中身も生命もないその虚しいだけの形式主義は神さまの怒りをかい、神さまの御心をはなはだしく嘆かせました。「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。・・・・・・飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる」(イザヤ書58:3-10,エレミヤ書14:12。けれど人々は預言者たちの警告に耳を貸しませんでした。ますます中身のないただ形ばかりの断食(=祈り)をしつづけました。どの先生について習ってもいいでしょう。一日に何回祈ってもいいでしょう。けれど、立派なヨハネ先生がそう仰るんだからとなんでもかんでも鵜呑みにしてはなりません。先生の指導が悪かったからではなく、多分、弟子たちの全員が愚かだったわけでもなく、たまたまここに来たこの弟子たちはうっかり者たちでした。立ち止まって、心を鎮めて考えることを、あまりしたことがなかったのでしょう。何のために、どういう目的と理由でそれをするのかと中身を一つ一つ、毎回毎回、問いつづけなければなりません。せっかく学んだことが実を結ぶためには。ただ形ばかりの虚しい形式主義に陥ってしまわないためには。「偽善者よ」と神さまから厳しく叱られないためには。しかも34-35節、主イエスがこう答えています。「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。やがて主イエスが十字架につけられて殺され、葬られ、復活の姿を見せた後で天に上っていかれた後、主イエスの弟子たちは、そこでようやく断食をし、祈って待ち望みました。信じて待つ者たちに聖霊なる神さまが贈り与えられるという約束だったからです。約束はかなえられました(ルカ福音書24:44-53,使徒1:4-11,2:1-39。断食は祈りの一つの形です。今でもなお私たちは祈りますし、もし必要だと思うなら1ヶ月でも2ヶ月でも断食しながら祈っても構いません。その場合には、何のために断食し、どういう理由と目的で祈っているのかを心に覚えておかねばなりません。
 さて、それよりも他の何よりも今日のこの箇所で心によくよく刻んでおくべき最も大切なことは、救い主イエスがご自分のことを『花婿』だと仰ったことです。救い主イエスが花婿であり、キリストの教会と一人一人のクリスチャンはその花嫁とされて迎え入れられている(マタイ福音書25:1-,ヨハネ福音書3:29,エペソ手紙5:22-33,イザヤ書61:10。そのことを心に留め、思い巡らせつづけなければなりません。これこそがキリスト教会と一人一人のクリスチャンにとって最も大切な生命の中身だからです。
  花婿イエス・キリストは、その花嫁であるキリスト教会と私たち一人一人を愛してくださっています。結婚式のときの約束のとおりにです。「夫としての道を尽くし、キリスト教会と私たち一人一人を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかな時も、その病む時も、この花嫁に対して堅く節操を守ることを誓いますか」。花婿である救い主イエスが、「はい」と答えて、そのとおりにしつづけてくださっています。キリストの教会と一人一人のクリスチャンがはなはだしく心病むときにも、花婿に背を向け、花婿を顧みず、離れ去っていこうとするときにも、だからこの花婿イエス・キリストは、教会と私たちを見捨てることも見放すこともなさいません。キリストの教会が今日なお建っている理由と土台は、ただこの一点にあります。私たちがなおクリスチャンであり続けている理由と土台も、ここにだけあります。
  けれど、もっとはっきりと語りましょう。神さまに背いて、逆らってばかりいた、心がとても強情で頑固な私たちでした。聖書はそれを『罪』と言い表し、『神に対する借金、負い目』であり、『何よりも厄介な病気』だと説き明かしました。ずいぶん高い代価を支払って、その罪と病気の重荷を主イエスが取り除いてくださいました。また花婿イエス・キリストは、私たちの日毎の必要を満たし、様々な困難と厄介事を案じてくださり、私たちのいたらなさやふつつかさや弱さを思いやり、忍耐し、自分自身を愛するように私たちを愛し、尊び、ご自分の体の一部分とさえしてくださいました。そう、「キリストの教会とその体の肢である私たちを傷つけ、苦しめる者は、花婿イエス・キリストご自身を傷つけ、悩ませ、苦しめている」とおっしゃいました。パウロがかつて教会とクリスチャンとを迫害する者だったときのことです。花婿イエス・キリストは、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と呼びかけました。「あなたはどなたですか」と問われて、「私は、あなたが迫害しているイエスである」と花婿イエス・キリストはお答えになりました。これこそが、私たちのための祝福であり戒めです。また、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである。しなかったのは、すなわち私にしなかったのである」(使徒9:4-6,マタイ福音書25:35-46を参照)。天の御父がその御子キリストをさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたので、御子イエス・キリストだけではなく、御子といっしょにすべて一切をも贈り与えてくださる御心だからです。私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはどんな者にもできない(ローマ手紙8:31-39、と断言されています。神さまが私たちの味方だとは、このことです。しかも、憐れみ深く慈しみに富む神は、だからこそ、キリスト教会と私たちに立ち向かい、容赦なく厳しく敵対することさえなさいます。つまり、もし私たちが邪な者たちとなり、不正と悪を働き、家族や隣人や他者を苦しめ、傷つけ、悩ませる者となるときには、この花婿イエス・キリストご自身こそが私たちの前に断固として立ち塞がります。だからこそ、「高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」と戒められています。もし私たちが神さまの慈愛に留まっているならば、その慈愛は私たちにも向けられるでしょう。そうではないなら、私たちもまた切り取られてしまうほかありません。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ手紙11:22と警告されているのはこのことです。
  37-38節についても、説き明かしておきます。「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」。せっかく、わざわざ、「ぶどう酒」と言い、しかも「新しいぶどう酒」と仰ったからには、そこから大切な意味を聞き分けねばなりません。聖晩餐のパンと杯のことであり、花婿イエス・キリストが私たち罪人を救うために死んで葬られ、三日目に復活なさり、その復活の姿を十分に見せてくださったあと天に上られ、天と地のすべて一切を委ねられた王としてこの世界を治めつづけ、やがて再び来られますことです。
あの最後の食事の席で、花婿イエス・キリストは、パンをとり、感謝してこれを裂き、「これはあなたがたのための私の体である」と仰り、杯を掲げ、「皆、この杯から飲みなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰ったからです。「ぶどう酒とそれを入れる袋。それは、神さまを信じる信仰の中身と、信じている人のいつもの暮らしぶりやいつもの腹の思いのことです。神さまを信じる信仰の中身がすっかり新しくされました。だから、その中身にふさわしい心構えや、毎日の暮らし方があり、その新しい中身にちょうどピッタリするいつもの心の在り方や、人との付き合い方がある」ということです。聖晩餐の度毎に何度も何度も申し上げます。周りの大人の人たちがどんなふうにパンを食べ、ぶどう酒を飲むのか。その様子を、子供たちはよくよく観察してみてくださいと。そのときだけではなく、夕方にも何日か後にも家にいても道を歩いているときにも、誰といっしょの時にも、目の前にいるその大人のクリスチャンが『新しい皮袋』にだんだんとなってゆく様子が分かります。神さまは一切わたしたちの功績なしで、ただただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖を私たちに贈り与えてくださり、それによって、私たちがまるで罪など犯したことがないかのように、罪があったこともないかのように、また、キリストが私たちのために成し遂げてくださったあの服従のすべてを私たち自身が成し遂げたもののようにみてくださいます(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64を参照)。そうであるならば兄弟姉妹たち、私たちはどのように毎日毎日を生きて、やがて死んでゆくことができるでしょうか。「ああそうか。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるってこういうことだったのかあ」と自分自身も家族も友人たちもよく分かるようになるでしょうか。ぜひ、そうであらせていただきたい。パンと杯を差し出して救い主イエスは仰いました。「これは私の体である。皆、この杯から飲みなさい。わたしの血による新しい契約である」と。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパン、それはキリストの体にあずかることではないかパンが一つであるから、わたしたちは多くいても一つの体なのである」(コリント手紙(1)10:16-17,11:23-29を参照)救い主イエスが十字架の上でご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流し尽くして、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。その体と血を飲み食いさせられている私たちは、だんだんとその中身にふさわしい新しい皮袋になってゆきます。もちろんそうです。500年も前に、新しいパンと新しいぶどう酒についてこう説き明かされました。『この聖なる宴会は、病める者には医薬である。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。自分を正しい、ふさわしいとうぬぼれて、好きだ嫌いだなどと自分の腹の思いを先立ててばかりいるこの私には、神の恵みも憐れみも祝福も平和も丸つぶれにされつづけ、水の泡とされつづける。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、『自分自身がとても悪いことをしている』と気づいて心を痛めること。彼において生きるために、自分自身において死ぬことである』。それゆえ私たちは、むしろ自分は何一つも良いものを持たない小さな貧しい者として慈しみ深い贈り主のもとに来ましょう。重い病気を患う半死半生の病人として良い医者のもとに来ましょう。神にも家族や隣人にも背きつづける不届きな罪人として、そして死んだものとして、死にかけている者として、生命の与え主であられるお方のもとに来るのだと弁えましょう。神によって要求され、命じられている最善のふさわしさとは、自分自身のふさわしくなさです。それをつくづくと噛みしめる信仰のうちにあります。この信仰は、一切の希望と幸いをキリストにかけ、私たち自身には何一つ信頼を置かないことだからです(Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)
なぜでしょう。なぜならば、私たちが神を選んだのではなく、神が、救い主イエス・キリストが私たちを選んで、神を信じて生きる者たちとして私たちを立ててくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになりました。ここに、私たちのための十分な愛があるからです。祈りましょう。