みことば/2022,8,7(主日礼拝) № 383
◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:14-19 日本キリスト教会 上田教会
『悪い心に
気をつけなさい』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
3:14
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。16
すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。18
また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。 (ヘブル手紙
3:14-19)
まず14-16節、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか」。冒頭の、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」。この言葉が14-19節全体を通して、最も重要な、鍵になる言葉だと思えます。いくつかの理解の可能性がありえます。なにより、「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続ける」には、私たち人間は、どうしたら良いのか。いったい何がどうあれば、最後まで信仰の確信をしっかりと持ちつづけることができるのか。誰が、それをできるのか。どうやってか。例えば信仰深い、神に忠実で誠実で、しっかりした信仰と意思と判断力をもった人々が、確信を持ちつづけることができるのか。自分自身の誠実さと努力と知識と勤勉さ、高潔さなどによって、自分で自分を救うことができるのか。2種類の、まるで正反対の理解がキリスト教会の中に並び立ちつづけてきました。これからも、そうです。「そうだ。そのとおりだ」と考えるクリスチャンやキリスト教会も多くあるでしょう。あるいは、「いいや。決してそうではない。私たち人間は罪深く、愚かであり、心も意思も弱く、迷いやすい。人間に出来ることではないが、けれど、ただ神にこそそれはできる。神の憐れみ深い御心によってだけ、ただ恵みによって、ただキリスト・イエスのあがないによって、何の功績もなしに、区別なく、それは誰のためにも必ず成し遂げられる」と。前者は、人間中心のモノの考え方。そして後者は、神中心の、ただただ神の恵みにこそいつも目を凝らしつづける、改革教会の信仰の最重要の観点です(『聖徒の堅忍』、カルヴァン主義の信仰の5つの特質。神によって救いへと選ばれた聖徒らは、神の憐れみと慈しみの中に守られ、支えられつづけるゆえに、どんな苦難や試練の中にあっても最後まで堅く耐え忍び抜くことができるという信仰理解。他の4項目の特質もすべて、神ご自身のお働きと恵みにこそ着目しつづける)。
なにより聖書自身が、それをはっきりと証言しつづけます。今日こそは、誰にでもはっきりと分かるように語らねばなりません。(1)まず、救い主イエスご自身からの答弁;神を愛し、隣人を自分自身のように愛し敬いなさいと律法の要点を告げられた大金持ちの役人が「それらのことはみな、小さい時から守っております」と答えた。イエスは言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。金持ちの役人は悲しみながら立ち去った。さらにイエスは言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」。(ここです。)イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ福音書
18::18-27参照)。
(2)別の聖書箇所は言う、「あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:21)。
(3)さらに別の聖書箇所は言う、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない」(ピリピ手紙1:6)。
(4)さらに別の聖書箇所は言う、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ手紙8:29-30)。
(5)さらに別の聖書箇所は言う、「(神の義。救い。試練や罪の誘惑を耐え忍びつづけて、やがてついに神の国に入ること)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-26)。
(6)これらの数限りない聖書証言を受けて、私たちの日本キリスト教会、信仰の告白もまた、「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます。……この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」(口語訳)と信仰の内容をはっきりと言い表します。つまり、「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続ける」には、私たち人間は、どうしたら良いのか。いったい何がどうあれば、最後まで信仰の確信をしっかりと持ちつづけることができるのか。「神の憐れみ深い御心によってだけ、ただ恵みによって、ただキリスト・イエスのあがないによって、何の功績もなしに、区別なく、それは誰のためにも必ず成し遂げられる」。これが、聖書自身からの只一つの答えです。その大前提の上に立って、誘惑と試練から守ってくださるように、心をかたくなにせず、心と耳を開いて下さって、神の言葉に聴き従いつづけ、御心かなって生きることがきるようにと願い求めつづける私たちです。神こそが、その願いをかなえてくださいます。
「それについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか」。モーセ、アロン、長老たちを含めて、ほぼすべての人々が何度も何度も心をかたくなにし、神に背きつづけました。今日の牧師自身や長老など、私自身ももちろん含めて、教会の指導者たちこそが神から厳しい懲らしめと裁きを受けねばなりません。その彼らこそが、私たち自身こそが責任重大であるからです。荒野で滅ぼされた多くの人々もいました。背きの罪をゆるされた人々もいました。神の民イスラエルを導きづけたモーセ自身さえ、心をかたくなにし、神に背き、約束の地に入ることをゆるされず、その直前で、地上の生涯を終えるように神から定められました(申命記 34:1-5)。今日の牧師自身や長老など、私自身ももちろん含めて、教会の指導者たちこそが神から厳しい懲らしめと裁きを受けねばなりません。その彼らこそが、私たち自身こそが責任重大だからです。「荒野を40年間旅した彼らの中の大多数は、神の御心にかなわなかったので荒野で滅ぼされてしまった」と聖書は証言します。
17-19節、「また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる」。荒野の40年の旅を大急ぎで振り返ります;神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされました。奴隷は、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よくコキ使われつづける存在です。その惨めな奴隷とされた先祖たちは、彼らを憐れんだ神によってエジプトから連れ出されて2カ月ほどたったとき、今度はその彼らは嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。エジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あの頃は肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられたのに」と。不平不満をつぶやく彼らの声は、もちろん神の耳に届きました。出エジプト記16章12節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい。あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。驚きです。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけてくださっています。そして彼らは「水がない。粗末な食べ物で気力も萎えてまう」などと不平不満をつぶやきつづけ、神に代えて自分たちの言いなりになる偽物の神を作り上げ、ほぼ40年ずっと一貫して不従順であり、士師たちの時代にも王国時代にもほとんどずっと不信仰の中に留まりました。
1コリント手紙10章も、このことを同じく私たちのために語りかけます、「これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。……また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント手紙 10:6-13)。私たちに対する警告、この私たち自身のための訓戒です。試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる。この言葉は、よく知られており、苦しみや悩みの中にある友人を励ましたり、慰めるためにもよく用いられます。けれども語られていた本当の意味は、「試練」とは単なる苦しみや悩みはなく、神に背き、不信仰へと陥ってしまう罪の試練であり、誘惑。「逃れる道」とは、憐れみ深い真実な神へと立ち帰ることであり、心底から悔い改めて、神を信じて生きる生活を建て直すことです。その道は、「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは父の御もとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6)とおっしゃった救い主イエスを信じて歩みはじめる道です。そのただ一本の道を通りさえすれば、誰でも必ず父なる神の祝福のもとに辿り着け、その救い主イエスから受け取りさえすれば「いのち」を贈り与えられ、主イエスからの教えに学びさえすれば知るべき十分な「真理」を知って、そのように御心にかなって生きることができるという約束です。私たちのためにも備えられている只一本の救いの道。救い主イエスを信じ、イエスに聴き従って生きる道です。