2020年5月23日土曜日

5/24「アーメン。どこに真実があるか」Ⅱテモテ2:1-13


みことば/2020,,24(復活節第7主日 礼拝休止中の説教7 No.268
2テモテ手紙2:1-13                          日本キリスト教会 上田教会
『アーメン。どこに真実があるか』  ~主の祈り.最終回~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。……7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。9 この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。10 それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。11 次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。12 もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。13 たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。                                         (2テモテ手紙2:1-13
 1節です。「あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」。恵みによって強くなるとは、どういうことでしょう。《恵み》とは、私たちの側には何の根拠も理由もなくて、という意味です。強くなるはずの者が当然のようにして強くなるのではありません。「豊かな者やふさわしい者が当然のようにして豊かにされ、あるいは自分自身で豊かになり、ふさわしく扱われた」のではない、という意味です。聖書自身は告げます。あの彼らもまた、ただ恵みによって、教えることのできる忠実なものとされ、ただ恵みによって、耐え忍ぶ者とされました。労苦しているのは、もちろん農夫だけではありませんでした。労苦しているサラリーマンも、労苦している子供たちも、主婦も、耐え忍ぶ年配の人々も私たち一人一人も、もしかしたら、次々とある労苦や重荷や苦難に押しつぶされてしまったかも知れません。けれどなお労苦し、なお耐え忍んでいるのは、あなたや私が忍耐深かったからでしょうか。あなたが根気強かったからでしょうか。あなたが断固たる決意を持っていたからでしょうか。そうではありませんでした。労苦する中にも慰めと支えを豊かに差し出され、痛みと辛さの只中にも喜びと幸いを贈り与えられて、それでだからこそ、かろうじて耐え忍ぶことができました。農夫も子供たちも、父親たち母親たちも、豊かな収穫にあずかります。私たちも自分自身の労苦や働きをはるかに越えて、まるで思いがけない贈り物のようにして収穫にあずかりました。それはまさしく贈り物であり、ただ恵みによったのです。ただ恵みによった。そのことを、私たちは決して見落としてはなりません。あのパウロにも、あのアブラハムにも、モーセやダビデにも、ただ恵みによって強くしてくださるお独りの方がいてくださったのです。大失敗をしてつまずいた(ルカ福音書22:54-)あのペトロにも、この私たち一人一人にも、ただ恵みによって強くしてくださる方がいてくださいます。
  さて、祈りの末尾のあの「アーメン」のことです。アーメン。どこに真実があるのでしょう。私が祈るとき、もし仮に、その祈りの内容や、祈るときの私自身の姿勢や魂の在り様が真実であるとして、それでアーメンと唱えるのだというならば、いったいどんなふうに、私たちは祈りはじめることができるでしょう。どうやって、その祈りを心安く結ぶことができるでしょうか。例えばその祈りの集いの中に、小さな子供たちもいて、素朴で単純な子供らしい祈りをしはじめます。御心にかなう祈りや生き方をしたいと願う私たちです。それでも、その一つ一つの祈りの良し悪し、はたして適切かどうかを互いに判断しようとするとき、そこに危うい落とし穴が待ち構えています。むしろ、それら祈りの中身の正しさやふさわしさについては、私たちが判断しなくてよいのです。私たちは神ではなく、神の代理人でもないのですから。神ご自身が判断なさり、神ご自身が最善最良を備えていてくださいます。私たちは、ただ神に信頼し、一つ一つの願いも私たち自身も、ただ神に委ねさえすればいいではありませんか。考えてみていただきたいのです。心から神に信頼し、誠実に忠実に神に従って生き抜くクリスチャンの生きざまと信仰の中身がアーメンの中身だというならば、また、そういう真実で誠実な祈りの中身や姿勢がアーメンだというならば、もし仮にそうだとするなら、「あなたも失格。あなたも」とやがて一人また一人と、年配のものからはじめて若者たちも、小さな子供たちまで恥ずかしそうにここを立ち去ってゆくほかありません(ヨハネ8:1-参照)。もし、自分自身の正しさやふさわしさに固執するなら、私たちは他者のいたらなさをゆるせなくなり、厳しく批判しつづけ、憐みの神からどこまでも遠ざかってしまうでしょう。聖書は証言します、「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:2-3。これこそ、私たち自身がつい知らずに陥ってしまいやすい危険な罠です。だからこそ、この証言は私たち自身を戒め、私たちを神さまのあわれみのもとに据え置くための大切な教訓でありつづけます。
 しかも兄弟姉妹たち、どうぞ安心してください。私たちのための真実は、いつも、どんなときにも、ただ神の側にだけあります。それは神ご自身のものである真実であり、どこまでも徹底して神さまだけのものです。11-13節はごく最初の頃のキリスト教会で用いられていた讃美歌でした。しばしば洗礼のときに、一人のキリスト者の誕生を喜び祝って、大切に歌われてきました。「神の子供として新しく生まれたこの人は、ただひたすら、神の真実と恵みにあずかって生きる。もちろん私たちもそうだ」と。神は、ご自身の子供とされた人たちに対して真実であってくださる。とくに13節、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。イエス・キリストというお方こそがアーメンの中身であり、神の真実をご自身で証言する方であり(黙示録3:14,22:20)、私たちの救い主イエス・キリストこそが断固として、揺るぎなく真実でありつづけ、この世界と私たちのためにも神の真実を成し遂げてくださる。これが、私たちのための神からの約束です。祈りのことを語りつづけてきました。なにをどう祈ってもよいのです。いつ、どんなふうにして祈ってもよいのです。ただ、クリスチャンの祈りには、大切な約束がありました。誰が祈るどの一つの祈りも、『主イエスのお名前によって』祈られます。つまり、主イエスの救いの御業と今も続いているその執り成しのお働きを通して、祈られます。だからこそ、祈りは聞き届けられる。「わたしの名によって願うことは、かなえてあげよう」(ヨハネ福音書14:13,15:16と救い主イエスが断固として仰った。神からの約束であり、これが私たちの出発点です。
  そして祈りの末尾に「アーメン」と唱えます。「真実であり、本当だ」という意味です。それは神の真実であり、どこまでもどこまでも徹底して神ご自身のものです。祈る度毎にアーメンと唱え、他の人の祈りに対しても皆でアーメンと心から声を合わせることが出来ます。祈りの締めくくりがそうであるばかりでなく、祈りの始めがそうであり、祈りの中程がそうであり、祈りつつ生きる私たちの生活全体、私たちが生きて死ぬことの全部がそうです。私たちが祈りはじめる前に、私たちの舌がまだ一言も語りはじめないうちに、神さまはすでによくよく分かっていてくださいます。私たちの思いや判断をはるかに越えて豊かに報いてくださる神であられます。アーメン。立派な真実な祈りだから、というのではありません。誠実で真実な私たちだから、というのではありません。ちゃんとした私のちゃんとした生活だから、というのでもありません。そうではありませんでした。たとえ貧しくてもふつつかで不十分であるとしても、たとえ貧相でみすぼらしくても、その祈りと生活を、その私たちを惜しんで止まない慈しみの神に向けて、神ご自身の真実に向けて差し出します。そのように、「アーメン」と呼ばわります。だから兄弟姉妹たち。もう誰にも、あなたは心を惑わされてはなりません。主イエスの福音を聞いて信じたのです。主イエスを信じて生きることを積み重ねてきた私たちです。十字架につけられたイエス・キリストの姿が目の前にはっきりと示されたではありませんか。示され続けているではありませんか。私たちを救い出して神のあわれみの子たちとしてくださるために、何としてもそうするために、神の独り子である方はご自身のものを徹底して捨て去り、低くどこまでも低くくだり、神であられることの栄光も尊厳も生命さえ、惜しげもなく投げ捨ててくださったのでした(ガラテヤ手紙3:1-,ピリピ手紙2:6-)。アーメン。私たちのための真実は、どこにあるでしょうか。身をゆだねることができるほどの心強い真実が、全幅の信頼をもってそこに立つことができるほどの真実が、どこにあるでしょうか。握りしめて、「私にはこれがある」と背筋をピンと伸ばして、安らかに楽~ゥに深く息を吸えるほどの真実がどこにあるでしょうか。揺さぶられる日々にも、年老いて弱りはてる日々にも、孤立無援の恐ろしくてとても心細い惨めな日々にも、人から馬鹿にされたり、片隅へ片隅へと押しのけられる日々にも、「だって私にはこれがある」と心底から言えるほどの真実が、どこにあるでしょうか。すでに私たちは見出しています。受け取って、そのように生きることを積み重ねてきました。「主は恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ書4:2,出エジプト記34:6。そのように扱われつづけてきました。私たちはキリスト者です。だから私たちは満ち足りた安らかな日々にも、その豊かさと喜びをもって真実な神へと向かいます。心挫ける悩みの日々にも、その嘆きと苦しみをもって、神へと向かいます。貧しく身を屈めさせられる日々にも、私たちはその心細さと淋しさと貧しさをもって、神へと向かいます。そこに、私たちを深く慰め、支え、確固として立たせてくれるものがあるからです。一回一回の礼拝も祈りも、一日ずつの生活も、ただひたすら神の真実を受けとめるため。受けとめて、抱えもって生きるために。だから、私たちはここにいます。
  祈る度毎に、その締めくくりに「アーメン」と唱えます。自分の祈りだけでなく、他の人が祈る祈りに対しても、皆で神に感謝し、神に信頼を寄せながら「アーメン」と。主を讃美する歌を歌ってアーメンと。聖書朗読の終りにアーメンと。アーメン;「それは真実であり、本当だ」という意味だと、私たちは教えられてきました。けれど真実とは何でしょう。あなたや私にとっての真実とは何でしょう。本当のことという以上に、格別にとても良いもの。それは、どこにどんなふうにして在るのでしょう。神さまご自身です。神さまを頼りにして、その御心に信頼を寄せ、御心にかなうことを願い求めて生きる私たちです。そのことに、ひたすらに目を凝らしつづけましょう――

         【補足/アーメン】
 この言葉は、ヘブル語で「真実に」「まことに」という意味を持つ語であり、私たちが祈ってきた祈願のせつなること、真実をこめての祈願であることを表しているともいうことができます。私たちは、自らの祈りを真実をこめて神に向け、また他の人の祈りに自らも真実にあずかり、和していることを表して、心をこめてのアーメンを言うのです。しかし、この言葉は究極的にはもっと深い奥行きを持っています。すなわち、私たちが一生懸命真実であろうとしても不確かであったり、曲がることがあったりするにもかかわらず、絶対真実なるお方の真実によってこれを祈っているのだという内容です。真にアーメンたるお方は、変転の影のない神であり、み子イエスであり、聖霊なる神です。私たちは、そのお方のがわにある真実に立ってこの祈願の成ることを信じ、確かな希望のうちにこの祈願を祈るのです。私たちはすべての祈りを「主のみ名によって」祈るように、主の祈りをもアーメンという言葉をもって、主のがわにある真実の上に立って祈るのです。

                       (『信仰の学校』p.209-10 桑原昭 日本キリスト教会出版局 1989年)

            ≪礼拝説教の予定≫
5月24日 2テモテ手紙2113 『アーメン。どこに真実があるか』 (主の祈り.9)
招き/エゼキエル書3:4-5 ゆるし/同3:6  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55756、162、1(Ⅱ)、544 
  31日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』   (聖霊降臨日)
         招き/ローマ手紙8:14 ゆるし/同8:15 祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557、177、181、263、545
67日  ルカ福音書11:5-8『しきりに願うこと』
■   14   11:9-13『求めよ。捜せ。門を叩け』  

2020年5月16日土曜日

新型コロナ 移民・難民緊急支援、ご寄付のお願い


みなさま。新型コロナ・ウィルス感染拡大によって、世界中の人々と共に、この国に住む人々もまた大きな苦難に見舞われています。
  政府は「国民一人当たり10万円」を一律給付することを決めました。

  日本人のことばかりではなく、この国に住む外国人労働者とその家族がどういう扱いを受けているのかということをも、私たちは知る責任があります。技能実習生や留学生を含めた超過滞在外国人についてもです。なぜなら、彼ら彼女らにも同じ感染リスクがあり、日本人と同じように恐怖と不安の中で生活しているからです。彼ら彼女らは、私たちの隣人です。
  日本キリスト教会 人権委員会と靖国神社問題特別委員会は、この一律給付についての要望書を4月20日に共同で内閣総理大臣あてに提出しました。
  また、『新型コロナ 移民・難民緊急支援基金、ご寄付のお願い』も掲示します。どうぞ、お読みください。
 
                          2020年5月20日
日本キリスト教会 人権委員会
                          委員長 金田聖治











5/17「国と力と栄光は」マルコ1:14-15

みことば/2020,,17(復活節第6主日 礼拝休止中の説教6 No.267

マルコ福音書1:14-15                        日本キリスト教会 上田教会
『国と力と栄光は』  ~主の祈り.8~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。  
                                                                      (マルコ福音書1:14-15

国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。  (「主の祈り」の末尾)
 「神を信じている」とは、どういうことでしょう。神に十分な信頼を寄せており、その神に聴き従って、その御心にかなって生きていきたいと願っており、それこそが自分の幸いであると分かっている。だからこそ、どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは、いったい誰に向かって何を願い求めるのかという問いであり、生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。例えばあの夫と私が、あの息子や娘たちとこの私が、職場の同僚たちと私が、近所に住むあの人たちとこの私がどんなふうにして一緒に生きてゆくことができるのかという問いです。いろいろな悩みや恐れやこだわりを抱えた、弱さや危うさを深く抱え持った私という人間が、どうやって心安く晴れ晴れとして日々を生きて生涯をまっとうすることができるのかという問いです。今までにはなかった新しい祈りが差し出され、まったく新しい生き方が、ここで私たちに差し出されています。「神さま。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの御国をこの私の所へも来たらせてください」。主の祈りの末尾、「国と力と栄光は限りなく、どこまでも父なる神さまのものです」という讃美もまた、この同じ神への信頼と従順に集中します。ここに、信仰の生命があるからです。心を鎮めて、目を凝らしましょう。
 聖書の神を信じる人々は、なにより神さまの御前に深く慎む人々でした。その慎みによって、直接にあからさまに神のことを言ったり指し示したりすることを差し控えて、しばしば遠回しな言い方をしました。ここでもそうです。「神の名前があがめられますように」。それは直ちに、ただ名前だけではなく、神ご自身が尊ばれ、信頼され、深く感謝されますように。他の誰彼やみんながという以前に、なによりまずこの私こそが神さまに信頼し、願い求め、感謝することもできますように、という願いです。「神の国が来ますように」。神の国、天の国。国が確かに国であり、神の王国が確かに名実共に神ご自身の王国である。その理由も実体も、まったくひたすらに国の王様にかかっています。王様がそこにいて、ただ形だけ名前だけいるのではなくて、そこで力を存分に発揮してご自身の領土を治めている。そこに住む住民一人一人の生活の全領域を、王様ご自身が心強く治めていてくださる。だから、王国はその王の王国となるのです。その領土に住む1人の住民の安全も幸いも、希望も慰めも支えも、すっかり全面的に、その国王の両肩にかかっている。――それが神の国の中身であり、実態です。神ご自身が尊ばれ、神こそが信頼され、感謝される。神ご自身が生きて働いてくださり、ご自身の恵みの出来事を持ち運んでいてくださる。そのことを「ぜひ何としても」と渇望して願い求めている者たちは、つまり、「今はあまりそうではない」と気づいています。あまりそうではない現実に心を痛め、「どうしてそうなんだろうか」と思い悩んでもいるのです。彼らは気づきはじめています。神ではない別のものが尊ばれ、別のものがあがめられたり恐れられたりしている。神ではない別のものが信頼され、重んじられ、誉めたたえられたりしている。別のものが、まるで王様やボスのように大手を振ってのし歩いている世界に、この世界に、この私は生きていると。その只中で、私もまた神ではないモノ共に虚しく引きづられ、言いなりにされ、しばしば、この私自身さえもが目を眩まされ、心を深く惑わされている。『自分中心。人間中心』の在り方と腹の据え方が、他でもないこの私の中にもある。こんなにも大きく、こんなにも根深くと。わたしがどう思い、どう考え、また周囲の人々がどう思い、どう考えるだろうかとどこまでもこだわり、どこまでも引きずられていきそうになる危うさに気づいて、それと戦い、それと格闘しつづけ、『神中心の腹の据え方』を少しずつ少しずつ取り戻してゆくことです。なんとかして、何としてでも。『悔い改める』という聖書独特の言葉もまた、ただ反省したり悪かったと思うことではありません。自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いつづけることから解き放たれて、その眼差しも思いもあり方も180度グルリと神へと向き直ることでした。なぜなら、「私たちがどう思い、どう考えるか」とそればかりを思い、そればかりにこだわりつづけるのは、淋しい生き方であるからです。「周囲の人々が私をどう思うだろう、どう見られているだろうか」と顔色をうかがい、引きずられ、言いなりにされてゆく生き方は、とても心細い。あまりに惨めです。誉められたといっては喜び、けなされたといっては悲しみ悔しがり、受け入れられたといっては喜び、退けられたといっては嘆き、一喜一憂し、恐れつづけます。それでは、いつまでたっても淋しく惨めで、心の休まるときがない。サタンよ退け。私の心を深く支配しガンジガラメに縛りつけるサタンよ、引き下がれ。だって、この私は神のことを少しも思わず、人間のことばかりクヨクヨクヨクヨと朝から晩まで思い煩いつづけているではないか。私のサタンよ、退け(マタイ16:23参照)
  「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と救い主イエスは宣べ伝えました(マルコ1:15)。それが、決定的な始まりです。神の独り子がこの世界にくだって来られ、救いの出来事を成し遂げてくださった。その方は私たちの救いのために死んで復活し、今、私たちのために生きて働いていてくださる。それこそが、時が満ちたことと神の国が近づいたことの具体的な中身です。それで、だからこそ、私たちも神へと心も普段の在り方も180度、グルリと向け返すことができる。私たちもまた主イエスの福音を信じて、福音の只中を生きることができる。
 
 長い長い時が流れました。『神ご自身が尊ばれ、信頼される。神ご自身が生きて働いていてくださり、ご自身のその恵みの出来事を、ご自身で持ち運んで、きっと必ず成し遂げてくださる』。その信頼と確信のもとに、今日でも、1人のクリスチャンが誕生します。心をさまよわせていた1人のクリスチャンが、ついに『私は一個のクリスチャンである』という恵みの場所へと立ち返ります。今日でも、同じ一つの確信のもとに、それは起こります。起こりつづけます。例えば、とても臆病で気の小さい人がいました。傷つきやすい、いつもビクビクオドオドしていた人がいました。夫の前でも親の前でも、子供たちの前でも、職場の同僚たちの前でも、「こんなことを言ったら何と思われるだろう」と彼女はためらいます。「聞いてもらえないかもしれない。馬鹿にされ、冷たくあしらわれ、はねのけられるかも知れない。相手の自尊心を傷つけ、互いに嫌な思いをするかも知れない」などと思い巡らせます。それで長い間ずっと、人の顔色をうかがいながら他人の言いなりにされてきました。例えば、「私が。私が」と長い間、我を張って生きてきた頑固な人がいました。私は私のしたいことをする。したくないことはしない。思い通りにできれば気分がいい。したくないことをさせられれば気分が悪い。けれどクリスチャンである彼は、あるいは彼女は、その一方でもう一つのことを心に留めていました。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。そうだった。私の考えや思いや立場を重んじるよりも、なにしろ神さまをこそ尊ぶ私である。私に信頼し誰彼に聞き従うよりも、なにしろ神さまに信頼し、感謝し、神さまにこそ聞き従うはずの私である。わたしを第一とし、あのことこのことを主とするよりも、なにしろ神さまご自身とその御心をこそ主とし、第一とする私である。例えば、親子の場合。職場の同僚同士。上司と部下の間。友だち同士の場合。教会の話し合いや会議の席でもまったく同じです。それをするかしないか。言うか言わないか。私はどうしたいのか。あの人たちはどう思うだろうか。けれど、その時にも、クリスチャンである私たちは別のことを心に留めています。「神の御名を、私にもあがめさせてください。神ご自身の御国を、こんな私の所へも来させてください」という祈りをです。「御名と御国をこそ」という願いと、その一つの話題、その一つの判断とは無縁ではありません。むしろ、いよいよそこで「御名と御国をこそ」というその願いが、私たちのための現実となっていきます。ついに、願い求めるその人は、「それはいけない。間違っている」と言い始めます。「そんなふうにしてはいけない」と言いはじめます。あるいは、「私が間違っていました。ゆるしてください」と。また、喉元まで出かかった言葉、思いと言葉と行いをかろうじて飲み込みます。
 なぜでしょうか。もう一つのことを心に留めているからです。「神の御名を、私たちにもあがめさせてください。神ご自身の御国を、ここへも来させてください」という祈りが、かろうじて危ういところで、その人たちをクリスチャンでありつづけさせます。目の前のその強い大きな人を尊んだり恐れたりする2倍も3倍も、神さまご自身をこそ尊ぶ彼らであるからです。その人に信頼し従うよりも、自分の考えややり方に従わせようとするよりも、神さまにこそ信頼し、感謝し、聞き従いたい。その願いのほうが、ほんのちょっと大きい。なぜなら兄弟たち。この私にもあなたにも天に主人がおられます。あの人もこの人もわたしの主人ではなく、夫も上司も私の主人ではなく、私自身さえももはや私の主人ではなく、主人のしもべたちにすぎなかったからです。しもべである私が立つも倒れるも、すべて一切その主人にかかっています。その一人の人はクリスチャンです。しかも天の主人は、しもべである私たちを立たせることがお出来になります。倒れてもつまずいても、何度でも何度でも、きっと必ず立ち上がらせてくださいます(コロサイ4:1,ローマ14:4)
 だからこそ、私や誰彼が満足して良い気持ちでいることよりも、天の主人に喜ばれることのほうが、私にはもっと大切です。あの人この人に誉められ認められることも大切ですが、それより「善かつ忠なるしもべよ」と天の主人に誉められる(マタイ25:21)ことのほうが、私にはもうちょっと大切です。なにしろ天に主人がいてくださり、私たちはそのしもべとされているのですから。正直言って、わたしはあまり善良でも忠実でもありません。かなり大目に見ていただきながら、かなり忍耐され辛抱していただきながら、なお、しもべとされています。強く賢い私のためにも、主こそが私よりもっと強く賢くあってくださる。取り柄もなく、格別に何かの役に立つわけでもない乏しい私のためにも、あるいはよく働く私のためにも、何しろ主なる神こそが生きて働いていてくださる。私は晴れ晴れとして膝を屈めます。この私たちは、そこでようやく楽~ゥに、晴れ晴れとして顔をあげることができます。聖書によってご自身を証しする神さまを信じて生きる人たちは幸いです。
 祈りましょう――


 問294 国と力と栄とはとこしえになんじのものなればなり、と付け加えられているのは、何を意味していますか。
 答 私たちの祈りの基は、お願いの口を開く資格もない私たちよりも、神ご自身とその力と慈愛であることを、再認識させるため、また、私たちの祈りはすべて神讃美で閉じるように教えるためです。         (「ジュネーブ信仰問答」 問294)



          ≪礼拝説教の予定≫
5月17日 マルコ福音書1:14-15 『国と力と栄光は』      (主の祈り.8)
       招き/詩篇139:12  ゆるし/同139:13  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55755、160161、543 
 24日 1ヨハネ手紙1:510 『アーメン。真実はどこにあるのか』    (主の祈り.9)
招き/エゼキエル書3:4-5 ゆるし/同3:6  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55756、162、1(Ⅱ)、544 
  31日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』    (聖霊降臨日)
67 ルカ福音書11:5-8『しきりに願うこと』
■   14   11:9-13『求めよ。捜せ。門を叩け』
■   21日   同11:14-26『神の国はすでに来ている』
■   28日   同11:27-28『神の言葉を聞いて、それを守る人たち』

2020年5月9日土曜日

5/10「試みと悪から救いだしてください」エペソ6:10-20


みことば/2020,,10(復活節第5主日 礼拝休止中の説教5 No.266
エペソ手紙6:10-20                          日本キリスト教会 上田教会
『試みと悪から救い出してください』 
                                ~主の祈り.7~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15 平和の福音の備えを足にはき、16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20 わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。 (エペソ手紙6:10-20
  2つのことを、神さまに願い求めています。『試みにあわせないでほしい』。そして、『悪しき者から救い出してください』と。このように願い求めつづけて生きるように、と神ご自身から命じられています。どういうことでしょうか? 弱く危うい私たち自身であることをよくよく知りながら、また、だからこそ神からの助けと支えを受け取りつづけて生きるようにと命じられているのです。このことを受け止めましょう。
  (1)悪しき者から救い出してください。エペソ手紙6:10-は語りかけます;「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。・・・・・・神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」。強くあるように、と励まされます。勇気と力を出すように。なぜなら私たちは、私たちを弱くしようとする様々なものたちに取り囲まれているからであり、しかも、私たち自身ははなはだしく弱く脆く、あまりに危うい存在であるからです。それならば、一体どうしたら私たちは強くあることができるでしょうか。何を支えとし、いったい誰の力添えと助けとを求めることができるでしょう。主であられる神からの助けと守りによってです。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と勧められているのは、このことです。そうでなければ、他の何をもってしても私たちは強くはなりえません。しかも兄弟姉妹たち、そうでありますのに私たちは度々この単純素朴な真理から目を背け、脇道へ脇道へと道を逸れていきました。自分自身の弱さと危うさを忘れ、思い上がり、うぬぼれました。あるいは自分自身の弱さをつくづくと知った後でもなお、神からの助けと支えをではなく、ほかの様々なものの支えと助けを探して、ただ虚しくアタフタオロオロしつづけました。神へと立ち返るようにと、預言者らは必死に警告しつづけました。例えば、預言者イザヤも同じことを命じました。「『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い」(出エジプト記14:13-14,イザヤ書30:15-16)。神さまの御もとへと立ち返って、神さまご自身への信頼をなんとしても取り戻すのでなければ、落ち着くことも穏やかであることも誰にもできないはずでした。けれどあなたがたはそれを好まなかった。神をそっちのけにして、速い馬に乗ることばかりを求めつづけた。だから、あなたがたを追う者の足はさらにもっと速いだろう。その通りです。立ち返って、主ご自身に信頼しはじめるのでなければ、私たちは力を失い、ますます痩せ衰えてゆく。心に留めましょう。
 (2)さて、「試みにあわせないでください」という神への願い。おそらく、苦難と試練の事柄こそが人生最大の難問です。『試み。誘惑』は、一般的には『罪に陥れ、神に背かせようとする試み、誘惑』を意味します。けれど、神さまが私たちにそんなことをなさるでしょうか? ヤコブ手紙1:13以下は証言します;「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。他の何者のせいにもできない。自分自身の欲望とむさぼりこそが原因ではないか、と突きつけられます。そこには大きな真理があります。けれど、これが知るべき真理の中の半分です。
 残り半分は、『神さまご自身が私たちを試みる場合もありうる』。それは、神さまへの信頼と従順に向かわせるための信仰の教育であり、恵みの取り扱いです。例えば、モーセと仲間たちが旅した荒野の40年がそうでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを試み、あなたの心を知ろうとなさった。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためだった。あなたはまた、人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練することを心に留めなければならない」(申命記8:2-3。十字架前夜のゲッセマネの園へと立ち戻りましょう。あのとき、主イエスはご自身の祈りの格闘を戦いながら、同時にご自分の弟子たちを気遣いつづけます。気がかりで、心配で心配でならないからです。何度も何度も彼らのところへ戻ってきて、眠りつづける彼らを励ましつづけます。「眠っているのか。眠っているのか、まだ眠っているのか。ほんのひと時も私と一緒に目を覚ましていることができないのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26:40-41参照)
 私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、主イエスを信じる1人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、自分のことをよくよく分かってくれる良い友だちにいつも囲まれていて、元気で嬉しくて。いいえ。そんな絵空事を夢見るわけではありません。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神さまが生きて働いておられ、その神が真実にこのわたしの主であってくださることを。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の、自分の父さん母さんに対する愛情と信頼に辿り着くのです。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。悩みと思い煩いの中に、私たちの瞼は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも慰めも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神さまの現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによってです。思い続けることによって。なぜならあの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、私たちを神の憐みのもとに据え置くための救いの御業がたしかに成し遂げられたからです。
「試みにあわせず、悪から救い出してください」。神に背かせる誘惑と悪。そこから救い出されて、私たちは神への信頼へと向かわせられます。ですから、この願いの本質と目的地は神への信頼です。讃美歌294番も、同じ1つのことを私たちの心に語りかけつづけました。「み恵み豊けき主の手に引かれて、この世の旅路を歩むぞ嬉しき」と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは目覚めます。何が嬉しいというのでしょう。また、何が足りなくて不十分だと嘆くのでしょうか。何がどうあったら、私たちは満ち足りて安らかで喜んでいられるのでしょう。私がやりたいことをし、やりたくないことをしないで済んでだから嬉しい、というのではありませんでした。私のことを皆が分かってくれて、皆が喜んで賛成してくれて、だから嬉しい、というのでもありませんでした。私がどれほど足腰丈夫で、どれほど働けて役に立てて、それで。あるいは、体も心も弱って皆様のお役に立てず、足手まといでああでもないこうでもない、などということでもなく。そんなこととは何の関係もなく、「主の手に引かれて歩いている。その御手はとても恵み豊かだ。だから嬉しい」と歌っていました。主ご自身にこそ、必死に一途に目を凝らしています。いつもの私共とだいぶん違います。目の付けどころがずいぶん違うのです。「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」と歌いながら、そのようにして、私たちは目覚めます。平らで歩きやすい道を友だちとワイワイガヤガヤ言いながら歩く日々もありました。またさびしい野っ原や、けわしい山道や、薄暗い谷間をこわごわビクビクしながら歩く日々も、やっぱり私たちにはありました。頼りにしていた家族や友達からはぐれて、ただ独りで歩かねばならないときもありました。そのとき、どうしましょう。何がどうあったら、私たちは安らかになれたのでしょう。あの讃美歌294番は、いつもの私たちとはずいぶん違うことを思っています。なぜなら、「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」などと言う。ただただ、主の手にすがって、そこで安らかに歩みとおしたい。それが私の願いであり、希望なのだと。つまりこの歌のクリスチャンは、目を覚ましていたのです。「あの人がこの人がその人が。私が私が私が」という疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神さまと出会っています。そこでついにとうとう、神さまからの憐れみと平和とゆるしを受け取っています。なんという幸いでしょう。

            神さま。世界中の多くの人々が悩みと恐れの中に置かれています。どうぞ憐みでくださって、支えの御手を差し出してください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御 意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができますように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください(ジュネーブ信仰問答 問7参照 1542年)
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

                   ≪礼拝説教の予定≫
5月10日 エペソ手紙6:10-20 『試みと悪から救い出してください』 (主の祈り.7)
       招き/詩篇16:10  ゆるし/同16:11  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557,54,158,294,542,,,

■  17日 マルコ福音書1:14-15 『国と力と栄光は』  (主の祈り.8)                      
       招き/詩篇139:12  ゆるし/同139:13  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 55755、160161、543 
■  24日 1ヨハネ手紙1:510 『アーメン。真実はどこにあるのか』  (主の祈り.9)
  31日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』     (聖霊降臨日)
67日  ルカ福音書11:5-8『しきりに願うこと』
■   14   11:9-13『求めよ。捜せ。門を叩け』
■   21日   同11:14-26『神の国はすでに来ている』
■   28日   同11:27-28『神の言葉を聞いて、それを守る人たち』

2020年5月2日土曜日

5/3「ゆるしてください」マタイ18:21-35


みことば/2020,,3(復活節第4主日 礼拝休止中の説教4)  No.26
  マタイ福音書18:21-35                     日本キリスト教会 上田教会
『ゆるしてください』  ~主の祈り.6

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。            (マタイ福音書18:22-35
《罪のゆるし》の教えこそ、キリスト教信仰の肝心要です。ここに、神を信じて生きることの生命があります。クリスチャンとは何者なのかと問われて、私たちは答えます。『それはゆるされた罪人です。ゆるされて、それで罪人でなくなったのではなく、依然として罪人であり、その罪深さをゆるされつづけて生きる者たちである』と。その祝福に満ちた中身は、《この私は、人に対しても主に対しても罪を犯した》と告白し、《主があなたの罪をゆるし、その罪を取り除いてくださったし、憐れみによって取り除きつづけてくださる》と、ゆるしの現実を聴くことの中にあります。聴きつづけるなら、そしてもし、神が私たちの耳と心を開いてくださるならば、やがてそれが私たち自身のいつもの普段の暮らしの現実となるでしょう。ゆるしてあげたり、ゆるしていただいたり、誰かをあわれんであげたり、あわれんでいただいたりし合う私たちとなれるかも知れません。そのようにして、あわれみと慈しみの実が結ばれてゆくかも知れません。私たちはまた、自分に対してなされた他者の罪や過ち、無慈悲、冷淡さをもゆるすようにと促されます。けれど、これはとても難しい。ひどく誤解されたり、ねじ曲げられ、不当な扱いに傷つけられることは日常茶飯事です。「どうして分かってくれないのか。なぜそんなふうに」と、私たちは度々打ちのめされ、心を痛めつづけます。人との関わりはしばしば私たちの手に余ります。互いに、心がとても頑固だからです。もし、「なにしろ許すべきだ。ゆるさなければ、あなたはクリスチャンではない」と突きつけられるならば、私は頭を抱えます。それとも逆に、「自分自身がゆるされていることを十分に分かっているなら、それでいい。後は、あなた自身は人を許そうが許すまいが、温かく迎え入れようが冷たく退けようが、それはあなたの自由だ。好きにしなさい」と言われるでしょうか。
23-33節、主イエスが直々にお話くださったたとえ話です。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。返済することなどとうてい出来ませんでした。自分自身も家族全員も身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。「どうか待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、その王様がただただ彼を憐れに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。「どうか待ってくれ。あれれ。どっかで聞いたことがあるなあ。まあ、いいか」。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、借金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。その冷酷で無慈悲なやり方は、王様の耳に届きました。王はその男に言います。「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」。
35節、「わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそのようになさるであろう」。つまりあなたが兄弟を扱うのとそっくり同じやり方で、同じく厳しく、同じく情け容赦なく、あなたを扱う。それをよくよく覚えておきなさい。かの日には、ゆるそうとしない人々にはゆるしは決して与えられない。憐れもうとしない人々には憐れみは与えられない。その人々は、神の国にふさわしくない。なぜなら、かの国は憐れみの国であり、そこで歌いつづけられる歌は《差し出され、受け取りつづけてきた恵み》という歌であるからです。兄弟姉妹たち。私たちが神さまとの間に平和を得ているということは、どうやって分かるでしょうか。恵み深い神にうちに深い慰めを与えられているということは、どうやって分かるでしょうか。主イエスの十字架の上で流された尊い血潮によって洗い清められていることは、どうやって分かるでしょうか。新しく生まれ、ただただ恵みによって、まったくの無償で、何の条件も資格も問われずに神の憐れみの子供たちとされているということは、いったい何によって、はっきりそうだと分かるでしょうか。自分自身にも、私と共に生きる家族や同僚や隣人たちにも、「ああ。本当にそうだ。この人は神の恵みと憐れみを豊かに注がれている。それがこの人の血となり肉となって、生き生きと息づいている」と。何によって、それと分かるでしょうか。共々に、このたとえ話を思い出したい。朝も昼も晩も、他の誰彼がというのではなくこの私自身こそがぜひとも思い起こしつづけたい。
 《ゆるすべきだ》と、頭では理解できます。問題なのは、《どうしたら、ゆるすことができるのか》です。頭でだいたい分かるだけではなく、心底から分かり、よくよく腹に据えることができるかどうか。できることなら許したい。ぜひ許したい。その人を温かく優しく迎え入れ、心を開いていっしょにいることができるようになりたい。それがなかなか出来ないので苦しんでいます。私は、私自身が深く抱えもってしまった憎しみによって誰かを苦しめているだけではありません。自分の憎しみや怒りによって、他の誰をでもなく自分自身をこそ苦しめています。負債のある人々を牢獄に閉じ込めるばかりでなく、そうする自分自身が暗く狭い魂の牢獄に閉じ込められています。あの、白雪姫を憎んだおきさきのように。怒り、ねたみ、苛立ちが茨のように芽を出し、ツタや小枝を伸ばし、葉を茂らせ、いつの間にか私の魂の庭を埋めつくしてしまいます。日差しもすっかり遮られ、じめじめと湿った薄暗がりに覆われます。おきさきもこの私も、すると心の休まるときがなくなってしまいます。できることなら許したい。それができないので、私たちは苦しみ、私たちは自分自身を貧しくしてしまう。どうか神さま、罪深い私たちを憐れんでください。
 《主の祈り》の6つの祈願の第5番目は、「私たちに罪を犯す者を私たちがゆるしますように、私たちの罪をもおゆるしください」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪と神への背きをゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。そこには、ほんの少しの疑いをも差し挟む余地がありません。けれども、《我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく》とは、いったい何でしょうか。この一句があるために、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。まだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、私たちは突きつけられるようです。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとです。それは一方的な贈り物です。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。そうだったはずですね。
このたとえ話を思い起こしてください。この男は、10,000タラントの借金を、どんなふうにゆるされたでしょうか。返すことなど、とうてい出来ませんでした。自分自身も妻も子供たちも身売りして奴隷になり下がり、家も土地も持ち物全部も売り払うほかありませんでした。それを全部、すっかり丸ごと帳消しにしていただきました。何の条件もなく。人に親切にしたからではなく、熱心に働いたからではなく、感謝したからでもなく、見所と取り柄があったからではなく、服従を約束したからでもなく。それは、ただひとえに王様がかわいそうに思ってくださったからでした。王様の憐れみによったのです。徹底的に大きなゆるしが先にあり、その恵みの只中に据え置かれた私たちです。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の素振りを見て渋い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、この自分自身がどんなに傲慢に冷酷に人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。しかも自分が受けた傷や痛みには、私たちはひどく敏感です。「あんなことをするなんて、ひどい。我慢できない」と私たちは腹を立て、涙も流します。もちろん、あなたは不当な扱いを受けてきたでしょう。誤解され、冷淡で無慈悲な仕打ちをされ、心を痛めたことでしょう。その通りです。それでも。あなたはもう忘れてしまっているかも知れないけれど、私たち自身が《ゆるされること》を必要とし、現にゆるされ続けています。毎日毎日、様々な場面で様々な事柄に対して、私たちはひどくいたらない。ぜひともすべきことをせずにおり、してはならないことをしてしまいます。怠惰さや無責任さから、臆病さや、あるいは独りよがりな身勝手さから。言ってはならない言葉を口から出し、ぜひとも語りかけてあげるべき言葉を言い出せずにいます。朝も昼も夜も、私たちは神の憐れみとゆるしを必要としています。わたしの隣人が私に対してする過ちや背きは、この私自身が神と隣人たちに向けてしてしまった過ちと背きに比べるなら、わずかなものでした。ほんの些細な、取るに足りない、無いも同然のものでした。まことに憐れみ深い神はそれでもなお、そんな私たちをさえ見捨てることも見離すこともなさらなかったと、私たちも知りたいのです。神の憐れみを受け取り、「本当にそうだ」と心底から味わうために、そのためにこそあなた自身が他者に対して憐れみ深くあるようにと神はお招きになります。神の偉大さ、神の気前のよさをあなたが受け取ることができるためにこそ、神は、あなた自身が他者に対して寛大に気前よくあるように、心低く慎み深くあるようにと促すのです。

罪深く貧しく愚かな兄弟への私の憐れみの眼差しは、同じく罪深い、いいえ彼よりもっと貧しく、もっと愚かでかたくなな私自身への、神の憐れみの眼差しを、この私にも思い起こさせました。弱く小さな、そしていたらない小さな1人の人へ向けられた私の心の痛みは、この私に向けられていた神の痛みを、この私にも気づかせてくれました。備えがなく、貧しく身を屈めていたのは、お互い様でした。かたくなさはお互い様でした。弱さも小ささも、ふつつかさも、お互い様でした。罪深さも、礼儀や慎みを知らず、ひどく身勝手で自分のことしか考えないことも、それはお互い様でした。とうとう許してあげたときに、ゆるされてある自分を見出しました。与えたときに、折々に山ほど良いものを受け取ってきた自分を思い起こしました。有り余るほど、満ち足りるほどに、あふれてこぼれ落ちるほど豊かに受け取りつづけてきたことに。嫌々ながら渋々と手を差し伸べたとき、「そうだ。この私も手を差し伸べられ、抱え起こされた。担われてきた。あの時もそうだったし、あの時も。あの時も、あの時も」と。受け入れたとき、そこでようやく、そこでまるで生まれて初めてのようにして、この私こそが、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなお許されてきたことに気づかされました。兄弟姉妹たち。あなたも私も、ゆるされてきました。7回どころか770倍、どこまでも際限なくゆるされてきました。支えられてきました。助けてくださいと願うこともできなかったのに。願い求める資格も、そのふさわしさも、自分自身のうちには何1つ見出すことができなかったのに。ゆるしていただいたとき、とても驚きました。嬉しかった。本当に嬉しかった。

                           ≪礼拝休止期間中の説教予定≫
■5月 3日 マタイ福音書18:21-35 『ゆるしてください』      (主の祈り.6)
       招き/エゼキエル書36:26  ゆるし/同36:27  
       祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557、38、153、154、541 
5月10日 エペソ手紙6:10-20 『試みと悪から救い出してください』  (主の祈り.7)
       招き/詩篇16:10  ゆるし/同16:11  
       祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557,54,158,294,542,,,
5月17日 マルコ福音書1:14-15 『国と力と栄光は』         (主の祈り.8)                     
5月24日 1ヨハネ手紙1:510 『アーメン。真実はどこにあるのか』    (主の祈り.9)
531日 使徒行伝2:1-13『神の大きな働きを聞いて』       (聖霊降臨日)