4/24 こども説教 ルカ4:9-13
『私を支えるかどうか?』
~荒れ野の誘惑.3~
4:9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上 に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10
『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12
イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。(ルカ福音書 4:9-13)
主イエスは荒れ野を40日40夜さまよい、悪魔から誘惑を受けました。その3番目の誘惑です。あの彼は私たちの救い主を神殿の屋根の端に立たせました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、聖書にこう書いてあるからだ;『あなたの足が石に当ることがないように、天使たちはあなたを支える』と」(9-10節,詩91:11-12)。なるほど。そのとおりになれば、イエスが神から送られた救い主であるとおおやけに証明できたことになります。もし神殿の庭に見物人たちが大勢いたら、みな拍手喝采して主を褒めたたえるでしょう。テレビ中継でもされたら、世界中の人々がいっぺんにこの方を信じて、キリスト教の黄金時代が到来するでしょう。けれど救い主イエスもまたすべてのクリスチャンも、見せびらかすために、また自分自身を誇るために、そんなことをしてはいけません。
それでも緊急事態で、例えば死にそうな誰かを助けるためなど、よくよく考える余地もなく大慌てで、ビルの屋上からでもどこからでも飛び込まねばならないときもありえます。もし祈る時間があるなら、こう祈って飛び降ります。「神さま、あなたが私を支えることができるのを私も知っています。支えてください。けれど私の願いどおりではなく、あなたの御心のままになさってください」(*1)。これならOK。
しかも、私たちの信仰は小さくて乏しい。たびたび不信仰に陥る。神さまをよくよく信じたくて、けれど信じきれずに、ついつい心細さや疑いを抱えてしまいます。その私たちを可哀そうに思って、神さまが憐れみの御手を差し伸べてくださることを覚えておきましょう(*2)。だって一番の大問題は、神さまを本気で信じることができるかどうか。神さまにこそすべてすっかりお任せできるかどうかです。例えば士師ギデオンが臆病で弱虫だったのは、口先では「信じてる信じてる」と言いながら、正直なところ、神さまをちっとも信じられなかったからです。「私を守って助けてくれるんですか。本当ですか本当ですか、証拠としるしを見せてください」と何度も何度も頼みました。神さまは、信じる心の全然足りないギデオンのために岩の上でパンと肉を焼いて見せたり、羊の毛皮をずぶ濡れにしたり乾かしたり、ずぶ濡れにしたり乾かしたりして何度も何度も試させてあげました。例えば主イエスの弟子トマスが疑い深くて「信じない、信じない」と言い張っていたのは、神さまを信じたくても信じられなかったからです。そのトマスのために、救い主イエスは証拠としるしを突きつけます。「さあさあ、あなたの手をこの脇腹のヤリの傷跡に入れてみなさい。あなたの指を私の手のひらの釘跡に入れて、よくよく触ってみなさい。信じないあなたじゃなく、信じるあなたになりなさい」とグングン迫って来られました。それでやっと、疑い深いトマスも信じる者にされました(士師記6:17-40,ヨハネ福音書2024-29)。試しもしないし、しるしも証拠も求めない。けれど神さまをなかなか本心では信じきれない。それではただお行儀がいいだけで、いつまでたっても臆病で弱虫で疑い深くて頑固で、なんでもかんでも恐ろしくて心配で、心細いままです。思い切って申し上げましょう。頑固さと不信仰に留まるよりも、よくよく納得できて十分に信じることができたほうが、よっぽど幸せです。信じないあなたじゃなく、信じるあなたになりなさい。もし、「わたしには信じる心が全然足りない」と気づくなら、「神さま。どうか私の信仰を増し加えてください。信じない者ではなく信じる者に、わたしを新しく造り替えてください」と、あなたも願い求めることができます。もし願い求めるなら、あなたでさえも! きっと必ずかなえていただけます。
【割愛した部分の補足】
(*1)「必ず~してください」では自己中心すぎるし、自分が神さまに指図しています。けれど私たちが主人なのではなく主なる神さまこそが主人であり、主に従う私たちです。しかも、自分の命を捨てなければならないときもあるからです(ルカ9:21-25)。何でも願うことがゆるされていますが、いつも「~けれど私の願いどおりではなく、あなたの御心にかなうことこそが」とへりくだり、慎んでいましょう。御父への信頼と服従。主イエスの、このゲッセマネの祈り(ルカ22:42)こそが、私たちのいつもの基本の心得です。
(*2)不信仰で頑固な私たちには、信じるためのしるしや手がかりが必要です。その私たちを憐れんで、信仰へと招いてくださる神さまです;ヨハネ福音書2:11,2:23,3:2,4:54,6:2,14,26,30,7:31,9:16,10:41,11:47他。
(*3)「主なるあなたの神を試みてはならない」(12節)。主イエスが仰り、聖書が戒めるとおりです。「悪をむさぼってはならない。偶像礼拝をしてはならない。不品行をしてはならない。主を試みてはならない。(不平不満を)つぶやいてはならない」(コリント手紙(1)10:8-13)。それらこそが不信仰に陥り、主から背き去ってしまう危うい入口となります。けれどなお、自分自身の信仰の弱さや不信仰に悩む私たちです。信仰を強めてくださいと願い求めるように促され、主に堅く信頼を寄せるためのしるしや手がかりを求めることもゆるされます。
他方、「神が私たちを試みること」はあるのか、ないのか。聖書は「ない」(ヤコブ手紙1:13)と言い、「ある」(本箇所ルカ4:1-2「聖霊に満ちて、~御霊に引き回されて」=悪魔の誘惑は神のご計画と導きのもとでなされました。他にも、申命記8:1-5。神は訓練や教育の機会として、人を試みることもある。コリント手紙(1)10:8-13)と言い、矛盾する両極端の答えを提示します。
(*4)「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」(13節)。また戻ってくる、という含みです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘は同時に、御父への信頼と従順に留まるための格闘でもあったし、弟子らにも「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈りつづけよ」と主は警告なさった。折々に、主イエスが祈りつづけていたことも、誘惑や試練との戦いの継続をそこに見ることもできます。主イエスは『まことの神であり、同時にまことに人間』でもあった。その人間として弱さを抱えるからこそ、御父に向かって祈りつづける必要もあった。十字架上で、「十字架から降りて自分を救え」(マルコ福音書15:29-32)と人々から嘲られたとき、そこに悪魔からの誘惑と最後の挑戦があったのかも知れません。
――これらは、かなり難しい事柄です。聖書を開いて、自分の心でよくよく考えめぐらせてみること。これまで自分が聞き分けてきた福音理解を総動員して、『聖書全体としては何をどう語ってきたか。どういう神さまか』と熟慮すること。よく分からないときは、そのままにせず、牧師に本気で質問すること。もし、その答えに納得できないとき、「◎△牧師が~と言ったから」などと、(たとえ、その牧師をとても信頼しているとしても)そのまま鵜呑みにしてはいけません。その牧師は精一杯に答えようとするでしょうけれど、その牧師も神ではなく神の代理人でもなく、ただの不十分な生身の人間にすぎないからです。勘違いしたり、間違ったことを言ってしまうことも度々ありうるからです。