みことば/2018,3,25(受難節第6主日の礼拝) № 155
◎礼拝説教 マタイ福音書 26:36-46 日本キリスト教会 上田教会
『私の思い通り、ではなく』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。 (マタイ福音書 26:36-46)
ここで私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろうかと。本当に、父なる神が救い主を見捨てたのか。救い主は、「あ。私は見捨てられた」と思ったのかどうか。そこまで苦しんだのなら苦しみは本物だったと言えるだろう、もしそうでないなら(つまり、やがて救われ復活するとはっきり分かっていたなら)、苦しみは眉唾、八百長試合のようではないか。――人々は、そんなことを言います。けれど兄弟たち。もし万一、自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望し、嘆いているとするならば、その哀れで惨めな救い主が、いったいどうして罪人の救いを確信し、「大丈夫ですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。このゲッセマネでの主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。
あの十字架の出来事の前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されていますね。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主ご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈れ。格闘をするようにして本気で祈りなさいと。39節、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯を私から過ぎ去らせてください」。「この杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じるわたしたち自身をどういう者だと思っていたでしょうか。この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの日々がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。重い病気にかからずケガもせず、自分のことをよくよく分かってくれる良い友だちにいつも囲まれていて、元気で嬉しくて。いいえ。そんな絵空事を夢見るわけではありません。私は願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が生きて働いておられ、その神が真実にこの私の主であってくださることを。
主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、あなたの御心のままになさってください」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着くのです。私たちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、私たちの思いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、この私のためにさえ最善を願い、私たちにとって最良のものを備えていてくださる。私たちは知っています。父なる神さまの御心こそが私たちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。
主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて冷たくなって死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって祈りつづけなさい。
なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちはガッカリするからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。もっと堅固で、もっと揺るぎない私だと思っていたのに。そして何かが起こり、地震や大津波や火山の突然の噴火や原子力発電所のとんでもない事故などが次々と起こり、自分自身や家族の病気、ケガ、非難や悪口、ふと耳に入った何気ない一言に、私たちは激しく揺さぶられ、オロオロし、思い知らされます。また、「どうしてあの人たちは」と周囲を見回して、たびたびガッカリしてしまいます。ずっと不思議に思っていました。「他の皆がつまづくとしても、けれど私こそは。私だけは」となぜあの人は、必死に言い張りたくなったのでしょう。「どうして、あの人たちは分かってくれないのか」とあんなにも心細くなってしまったのでしょう。「なぜ、あの人とこの人はちゃんとしないのか。だらしがない。ふつつかでいたらない」と、なぜトゲトゲしい気持ちになったのでしょう。「私がしたいこと。したくないこと。好きなこと嫌いなこと。私の考え方ややり方、私の気持ち。私は私は私は」「だって、あの人が私にこんなことを言ったから」などと、どうして彼らは、あまりに簡単に上がったり下がったり、喜んだかと思うと、惨めでたまらなくなったり、泣いたり笑ったり、安心したかと思うとすぐに心配でたまらなくなり、揺さぶられてオロオロしたりしつづけるのでしょうか。どうして朝から晩まで、人間のことばかり気に病み、人間のことばかり思い煩いつづけるのでしょうか(マタイ16:23参照)。
主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)。それぞれの悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも慰めも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによってです。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。この後に歌う讃美歌294番(1954年版)も、同じ1つのことを私たちの心に語りかけつづけました。「み恵み豊けき主の手に引かれて、この世の旅路を歩むぞ嬉しき」と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは目覚めます。何が嬉しいというのでしょう。また、何が足りなくて不十分だと嘆くのでしょうか。何がどうあったら、私たちは満ち足りて安らかで喜んでいられるのでしょう。私がやりたいことをし、やりたくないことをしないで済んでだから嬉しい、というのではありませんでした。私のことを皆が分かってくれて、皆が喜んで賛成してくれて、だから嬉しい、というのでもありませんでした。私がどれほど足腰丈夫で、どれほど働けて役に立てて、それで。あるいは、体も心も弱って皆様のお役に立てず、足手まといで、などということでもなく。「主の手に引かれて歩いている。その御手はとても恵み豊かだ。だから嬉しい」と歌っていました。目の付けどころがずいぶん違うのです。「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし(=ぜひ、安心して通り過ぎたいものだ)」と歌いながら、そのようにして、私たちは目覚めます。平らで歩きやすい道を親しい友人たちとワイワイガヤガヤ言いながら歩く日々もありました。またさびしい野っ原や、けわしい山道や、薄暗い谷間をこわごわビクビクしながら歩く日々も、やっぱり私たちにはありました。頼りにしていた家族や友達からはぐれて、ただ独りで歩かねばならないときもあったのです。そのとき、どうしましょう? どうしたらいいんですか。何がどうあったら、私たちは安らかになれたのでしょう。あの讃美歌294番は、いつもの私たちとはずいぶん違うことを思っています。だって、「けわしき山路もおぐらき谷間も、主の手にすがりて安けくすぎまし」なんて言うんですから。ただただ、主の手にすがって、そこで安らかに歩みとおしたい。それが私の願いであり、希望なのだと。ああ。つまりこの歌のクリスチャンは、はっきりと目を覚ましていたのです。「あの人がこの人がその人が。私が私が私が」という疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神と出会っているのです。そこで神さまからの恵みと平和とゆるしを受け取っています。神さまこそが私の味方であってくださる。ああ、本当にそうだ。それならば、私はいったい何をおじ恐れようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで私たちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子イエス・キリストだけでなく、すべて必要な一切を贈り与えてくださらないことがあるだろうか。あるだろうか、あるだろうか(ローマ手紙8:31-32参照)。